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第三章
07 悪夢
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目眩を覚えそうな人混みの中を、ケイは一人走り続けていた。何人かにすれ違いざまジロジロと見られ、知らない声に呼び止められもしたが全て無視し、前へ前へ、先へ先へと進み続ける。
──早く逃げなきゃ。もっとずっと遠くへ。
迫り来る者の気配は感じられず、足音も聞こえてこない。それでもケイにはわかっていた──〝アイツ〟は確実に自分を追って来ているし、そう簡単に諦めはしない、実に面倒な奴なのだと。
──〝アイツ〟に捕まったら終わり。
ケイは速度を上げた。先程からずっと走り続けているにも関わらず、疲れるどころか体中に元気がみなぎっており、羽が生えたように軽い。何処までも永遠に進んでゆけそうだ。
──逃げ切ってやるんだから。
やがてケイは、ショッピングモール〈チアーズ〉内に足を踏み入れ、エスカレーターで五階まで一気に駆け上がった。そのまま迷う事なく海側の通路を進み、トイレを通り過ぎて行き止まりまで来ると、ようやく一息吐いた。
──ここまで来ればもう大丈夫。
走り続けて乾いた喉を潤そうと、右端の自販機の前に立った。炭酸飲料が欲しかったが、全ての商品が売り切れていた。
──そもそもお金持ってないや。
肩を落としたケイだったが、ふと壁の左端の方へ目をやると、無意識のうちにそちらまで移動していた。
──あ……。
そこにあったのは、全身がしっかり映し出せる大きな壁鏡だった。
ケイは自分の行動が間違っていた事にようやく気付き、叫び出したい程のショックを覚えた。
「こっちには絶対に来ちゃ駄目だったのに………もう、何やってるのよわたしは!」
ケイは後ずさると、慌てて踵を返そうとした。ところが、まるで全身に鉛でも詰められたかのように急に体が重くなり、視線は壁鏡に釘付けとなってしまった。
──嫌だ……嫌だ、見たくない!
ケイはゆっくりとしか動かす事の出来ない首を、必死に何度も振ろうとした。ギュッと目を閉じてもみたが、どういうわけか瞼から透けて見えてしまう。
──見たくない……〝アイツ〟は見たくない!
鏡面に学ランを着た少年の姿が映し出された。ケイの右斜め後方に立っているが、頑張って首を動かしそちらに振り向いたところで誰もいない事くらい、ケイはもう充分に理解していた。
「光雅……君」
ケイは恐る恐る亡き友人を呼んだ。光雅は答えず、無表情でじっとケイを見つめている。
──怖い。
心臓が激しく脈打つ。
──光雅君が怖い。
背中に冷たいものが走る。
──怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!
「ケ……イ……」光雅の声は今にも消え失せそうなか細いものだった。「…………ろ」
「光雅君?」
「逃げろ……ケイ……」
光雅の表情が苦痛に歪んだ。その直後、光雅の頭上に黒いもやが発生し、まるで生きているかのように蠢いた。
「また〝アイツ〟に……捕まって……しまったんだ……」光雅は絞り出すように言った。
「光雅君……ああ……」
黒いもやは形を変えてゆき、光雅よりも背丈のある人型になると、両腕で光雅を羽交い締めにした。
「今度は……逃げられそうに……ないんだ……」
黒いもやの両手が光雅の顔を覆った。
「だから……ケ、イ──」
黒いもやが光雅の顔から手を離した。
「君も死んでくれ」
露わになったその顔には目玉がなく、ぽっかり開いた眼窩からは血が滝のように溢れ出していた。ケイが悲鳴を上げると、光雅の口がカッと大きく開かれ、本人のものとは異なる別の誰かの嘲笑が重なった──……。
悪夢から目覚めても、ケイはしばらくの間恐怖を忘れる事が出来なかった。朝食を取る気にもなれず、布団の上に座ったまま考え続ける。
──本当にただの夢だったの?
声に力がなく、苦痛に顔を歪ませる光雅。〝アイツ〟に捕らえられた光雅。眼窩から血を流す光雅……。
──光雅君は言っていた……また捕まった、って……。
夢の中の光雅は、最初に一目見た時から何故か恐ろしく感じられた──そう、九月に、現実の〈チアーズ〉で目撃した時と同じように。
──〝アイツ〟に捕まったから?
光雅の言葉からすると、少なくとも過去に一回以上は〝アイツ〟に捕らえられた事があるようだ。高校時代の噂通り、祓い損ねた霊に殺され、更には死後も狙われ続けていたというのか。
悪夢の最後、変わり果てた光雅の姿と、恐怖におののくケイを見て楽しむ、悪意に満ちた嫌な笑い声。
──あれは光雅君じゃない……〝アイツ〟の笑い声だったんだわ。
そしてケイは、ずっと抱いていた疑問が解けたような気がした。
──わたしや三塚君が光雅君を怖いと感じたのは……光雅君の姿を通して、背後の〝アイツ〟の存在を感じ取っていたから……!
しかし、あくまでも夢の中で起こった出来事だ。ラファエラの霊視内容やケイのストレスが勝手に創り出したストーリーを、深読みし過ぎているだけだという可能性もある。
──それならそれでいいんだけれど……でも……あれはきっと……。
一四時四八分。
近所のスーパーで食材を、コンビニでスイーツとジュースを購入したケイは、アパートの階段付近で駅方面へ向かおうとしていた英田に会った。
「英田さん、この間はご迷惑をお掛けしました」
「ううん、とんでもない。あれから元カレどう?」
「今のところは特に何も」
優一郎の元婚約者からの迷惑な電話については、黙っておく事にした。
「あ、そうそう。わたし一九日に引っ越しなの。それまでの間なら色々と相談に乗れるから遠慮しないでね。もしまた来たら、二階から投げ飛ばして追っ払ってあげるから」
「あはは、有難うございます」
英田なら本当にやりかねないかもなと思いながら、ケイは礼を言った。
自宅に戻ると、洗面台で手を洗いながら恐る恐る正面の鏡を見やった。悪夢のせいで鏡を覗く事に再び抵抗が出来てしまったが、それ以上に光雅の安否が心配だった。
鏡には何の変化も起こらない。しかしケイは、急に妙な胸騒ぎを覚えた。
──何なの? また何かが起こるっていうの?
不安な気分のままキッチンに行き、食材を冷蔵庫にしまってから部屋に戻ると、フローリングの上のスマホが着信を告げた。
「えっ?」
ディスプレイに表示されている電話番号は、とっくに着信拒否していたはずの優一郎のものだった。
──早く逃げなきゃ。もっとずっと遠くへ。
迫り来る者の気配は感じられず、足音も聞こえてこない。それでもケイにはわかっていた──〝アイツ〟は確実に自分を追って来ているし、そう簡単に諦めはしない、実に面倒な奴なのだと。
──〝アイツ〟に捕まったら終わり。
ケイは速度を上げた。先程からずっと走り続けているにも関わらず、疲れるどころか体中に元気がみなぎっており、羽が生えたように軽い。何処までも永遠に進んでゆけそうだ。
──逃げ切ってやるんだから。
やがてケイは、ショッピングモール〈チアーズ〉内に足を踏み入れ、エスカレーターで五階まで一気に駆け上がった。そのまま迷う事なく海側の通路を進み、トイレを通り過ぎて行き止まりまで来ると、ようやく一息吐いた。
──ここまで来ればもう大丈夫。
走り続けて乾いた喉を潤そうと、右端の自販機の前に立った。炭酸飲料が欲しかったが、全ての商品が売り切れていた。
──そもそもお金持ってないや。
肩を落としたケイだったが、ふと壁の左端の方へ目をやると、無意識のうちにそちらまで移動していた。
──あ……。
そこにあったのは、全身がしっかり映し出せる大きな壁鏡だった。
ケイは自分の行動が間違っていた事にようやく気付き、叫び出したい程のショックを覚えた。
「こっちには絶対に来ちゃ駄目だったのに………もう、何やってるのよわたしは!」
ケイは後ずさると、慌てて踵を返そうとした。ところが、まるで全身に鉛でも詰められたかのように急に体が重くなり、視線は壁鏡に釘付けとなってしまった。
──嫌だ……嫌だ、見たくない!
ケイはゆっくりとしか動かす事の出来ない首を、必死に何度も振ろうとした。ギュッと目を閉じてもみたが、どういうわけか瞼から透けて見えてしまう。
──見たくない……〝アイツ〟は見たくない!
鏡面に学ランを着た少年の姿が映し出された。ケイの右斜め後方に立っているが、頑張って首を動かしそちらに振り向いたところで誰もいない事くらい、ケイはもう充分に理解していた。
「光雅……君」
ケイは恐る恐る亡き友人を呼んだ。光雅は答えず、無表情でじっとケイを見つめている。
──怖い。
心臓が激しく脈打つ。
──光雅君が怖い。
背中に冷たいものが走る。
──怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!
「ケ……イ……」光雅の声は今にも消え失せそうなか細いものだった。「…………ろ」
「光雅君?」
「逃げろ……ケイ……」
光雅の表情が苦痛に歪んだ。その直後、光雅の頭上に黒いもやが発生し、まるで生きているかのように蠢いた。
「また〝アイツ〟に……捕まって……しまったんだ……」光雅は絞り出すように言った。
「光雅君……ああ……」
黒いもやは形を変えてゆき、光雅よりも背丈のある人型になると、両腕で光雅を羽交い締めにした。
「今度は……逃げられそうに……ないんだ……」
黒いもやの両手が光雅の顔を覆った。
「だから……ケ、イ──」
黒いもやが光雅の顔から手を離した。
「君も死んでくれ」
露わになったその顔には目玉がなく、ぽっかり開いた眼窩からは血が滝のように溢れ出していた。ケイが悲鳴を上げると、光雅の口がカッと大きく開かれ、本人のものとは異なる別の誰かの嘲笑が重なった──……。
悪夢から目覚めても、ケイはしばらくの間恐怖を忘れる事が出来なかった。朝食を取る気にもなれず、布団の上に座ったまま考え続ける。
──本当にただの夢だったの?
声に力がなく、苦痛に顔を歪ませる光雅。〝アイツ〟に捕らえられた光雅。眼窩から血を流す光雅……。
──光雅君は言っていた……また捕まった、って……。
夢の中の光雅は、最初に一目見た時から何故か恐ろしく感じられた──そう、九月に、現実の〈チアーズ〉で目撃した時と同じように。
──〝アイツ〟に捕まったから?
光雅の言葉からすると、少なくとも過去に一回以上は〝アイツ〟に捕らえられた事があるようだ。高校時代の噂通り、祓い損ねた霊に殺され、更には死後も狙われ続けていたというのか。
悪夢の最後、変わり果てた光雅の姿と、恐怖におののくケイを見て楽しむ、悪意に満ちた嫌な笑い声。
──あれは光雅君じゃない……〝アイツ〟の笑い声だったんだわ。
そしてケイは、ずっと抱いていた疑問が解けたような気がした。
──わたしや三塚君が光雅君を怖いと感じたのは……光雅君の姿を通して、背後の〝アイツ〟の存在を感じ取っていたから……!
しかし、あくまでも夢の中で起こった出来事だ。ラファエラの霊視内容やケイのストレスが勝手に創り出したストーリーを、深読みし過ぎているだけだという可能性もある。
──それならそれでいいんだけれど……でも……あれはきっと……。
一四時四八分。
近所のスーパーで食材を、コンビニでスイーツとジュースを購入したケイは、アパートの階段付近で駅方面へ向かおうとしていた英田に会った。
「英田さん、この間はご迷惑をお掛けしました」
「ううん、とんでもない。あれから元カレどう?」
「今のところは特に何も」
優一郎の元婚約者からの迷惑な電話については、黙っておく事にした。
「あ、そうそう。わたし一九日に引っ越しなの。それまでの間なら色々と相談に乗れるから遠慮しないでね。もしまた来たら、二階から投げ飛ばして追っ払ってあげるから」
「あはは、有難うございます」
英田なら本当にやりかねないかもなと思いながら、ケイは礼を言った。
自宅に戻ると、洗面台で手を洗いながら恐る恐る正面の鏡を見やった。悪夢のせいで鏡を覗く事に再び抵抗が出来てしまったが、それ以上に光雅の安否が心配だった。
鏡には何の変化も起こらない。しかしケイは、急に妙な胸騒ぎを覚えた。
──何なの? また何かが起こるっていうの?
不安な気分のままキッチンに行き、食材を冷蔵庫にしまってから部屋に戻ると、フローリングの上のスマホが着信を告げた。
「えっ?」
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