上 下
14 / 29

──高等部2年・挑戦の春

しおりを挟む
 2年に進級して間もない春──和志が七生に何事か頼み込んでる。

「なぁ七生~っ、頼むよ~ぉ」
 困り果てた顔付きで、和志は七生に手を合わせた。
「でも~、どうして僕なんかが合唱部に混じってコンクールに出なきゃならないんだよ~」
「だからぁ!うちの部員数じゃコンクールの規定人数にちょこっと足りないんだよ。まさか高等学校の部に、中等部の合唱部員を引っ張り出す訳にも行かないだろ?」
「でも、僕はあんまり歌は得意じゃないよ?」
「あ、いい!いい!七生は歌わなくてもいい……てか、むしろ歌わない方がいい!」
「何だよそれ!人にものを頼むにしてはあまりにも失礼な!」
「ごめんごめん!失礼は詫びるから、何とかならないかな~」

 七生がフッと、何か思い付いたような顔をした。
「……まあ、事と次第によっては頼まれてやってもいいけど、交換条件を出したいな~」
「うんうん!聞く聞く!で、一体何だ?」
「うん……コンクールの恩は……やっぱりコンクールで返して貰わないと……」
 七生は腕組みに顔をしかめ、うんうんとうなずきながら難しげに答える。
「え?文芸部にもコンクールなんて有るのか?」
「はぁ?そんなの有るはずないだろう?ピアノだよピアノ!ほら、毎年秋に新晃しんこう学生コンクールってやっているだろ?実は気になってチェックしていたんだ。受付け、今ならまだ間に合う……」
 七生たちの住む県には、ピアノ生産で有名な「新晃しんこう楽器」の本社がある。そんな事から地元のピアノ文化の向上を目指し、毎年秋に学生向けのピアノ・コンクールが開かれているのだ。

「ええっ?新晃しんこうコンクール?そんなの俺なんかが引っ掛かる訳ないだろうが?恥をさらしに出るようなもんだよ」
「だから和志。もっと自信を持って欲しいんだ!…僕は好きだよ?和志のピアノ。そりゃ僕はど素人だけど、でも感じるんだ、和志の才能を……」
「それは……まあ、そう言われて悪い気はしないけど、でもピアノなんてそんなに甘いもんじゃない……」
「あ~あ、和志のそう言うところだよな~。僕をがっかりさせるなよ。和志、合唱コンクールでも
最優秀伴奏者賞の常連じゃないか。もっと自信持てよ~」
「あれは県大会だし、大体、伴奏と独奏じゃ全然違うし」
「それなら和志はどうしてピアノをやってる?ピアノが好きだから続けているんだろ?好きな事なら挑戦しようよ!…やりもしないで諦めるなんて、そんなの全然和志らしくないよ!」
「七生……?」
「僕は挑戦するつもりだ。好きな文章を書き続けたい。だから懸賞小説を狙おうと思ってる」
「あ……」
 和志は言葉を失った。七生が、そんなに真剣に将来を考えていたとは──。

「合唱コンクール、頭数が足りないんだろ?…いいよ、僕が出てやるよ。だから交換条件として僕に無理やり押し付けられたって名目でもいい。それが建前で構わないから、だから頑張ってやってみよ
うよ!」
「……七生、俺が間違っていた。実は、先生からも勧められてた。でも本当は、自分の実力を知らしめられるのが怖かったんだ。だけど七生に押されて勇気が湧いた。交換条件なんて理由にしない。
自分から一歩踏み出してみるよ」
「和志、それじゃあ?」
「ああ、出るよ。挑戦するよ!」
「やったーっ!」
「よぉ~し、出場する以上は頑張るぞ~!」
「あ、それってもしかして、入賞を意識してる?」
「ばか言え、入賞なんてせこい事は言わない。こうなりゃ狙うのは優勝だ!」
「うひゃ~っ、すんごい変わりよう!これを称して手のひら返しと言うのです」
「はいそうです。獲らぬ狸のなんとかだ~とも言いますね」
「あのねぇ、それはかなり違いますけど」
「はい済みません。文学少年には敵いません、なんてな♪」
「あはは♪」

 その日を境に、和志はピアノに熱を入れた。これほど真剣に鍵盤と向き合い、打ち込んだ事がかつてあっただろうか。
 授業中であっても教科書の下に譜面を隠し、読譜と暗譜に余念が無い。合唱コンクールの伴奏は事情を話し、一年生の準伴奏者に代わって貰った。

 そんな和志を七生はひたすら見守り続けた。当然二人で過ごす時間も大幅に減ってしまったが、そんな事は苦にもならない。
 ピアノに熱中する和志を、七生は素敵だと心から思う。ピアノに打ち込む和志の横顔を、七生はとても美しいと感じた。
 
 和志は放課後、許されて音楽室のピアノを弾いた。自宅のアップライトを弾くより音楽室のグランドを使えと、合唱部顧問からのありがたい指導だった。
 今日も七生は和志に気付かれないようにと、そっと音楽室に差し入れを置く。そのまま静かに立ち去ろうとすると──
「いつもありがとう。七生だろ?」
 和志がすっと手を止めた。

「あっ、ごめん。邪魔するつもりじゃなかったんだ」
「いいんだ。丁度休もうと思ってた。この曲、辛くて……」
「そうかなぁ、それって一次予選の課題曲だよね?…いつも和志が弾いている曲に比べれば、ずっと簡単そうに聴こえるけど……」
「あははっ、そう聴こえるよな。はっきり言って地味だしな。でもこの曲は全く誤魔化しが利かない。もろに基礎技術がさらけ出される。怖いよ……」

 一次予選の課題はバッハの
「平均律曲集」から任意の一曲。
──これはピアノ経験者なら大概が背筋の寒くなる曲集だ。勿論、難易度は曲によって高低が有る。荒削りでも難しい曲に挑戦するのか、それとも、あえて容易な曲で完璧を目指すか、そんな演奏者の
センスも見られる。
 和志はバッハが苦手である。
コンクールに出る事がなければ、おそらく自ら進んで手を出す事もなかっただろう。
 ここは無難な曲を選び、無難にこなせれば上等だろうと考えたのだが、それが中々容易ではない。

 そして、二次予選はショパンのエチュードから数曲を選び、10分から15分以内で演奏する。これはピアノの必須科目であり、やはり曲によって難易度の高低がある。選曲のセンスもだが、規定時間内に演奏を収め得る体内時計も問われるところだ。
 和志はショパンが好きだ。二次予選にあたり、どの曲を選ぼうか迷うほどに普段から弾いている。しかしこのエチュードで勝負するには、まずは一次予選のバッハを何とかしなければならない。

 和志が七生と目を合わせた。
「七生……キスして?」
「ええっ?何を突拍子もなく!」
「もう、バッハのせいで脳みそが沸騰しそうだよ~」
「よしよし♪」
 七生が和志のほっぺたにチュッとした。
「これ以上は別なところが沸騰するからダメです」
 七生がニッと歯を出して笑う。
「はい、分かりました」
 和志も一緒にニッと笑った。

「さ!迷路にハマったら基礎体操か!!」

 電動メトロノームのスイッチを
入れて、和志の力強い
「全24調スケール」が開始した。
──これはもう、筋トレだ。


しおりを挟む

処理中です...