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──中等部3年・告白の冬

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 急に冷え込む真冬の夕刻時。
 七生は文芸部の鍵を掛け、白い息を吐きながら一人昇降口へと向かっていた。
 秋の文化祭で3年生は引退と言う事だが、一貫校における高等部への進学なのだから、これと言って受験の緊迫感は皆無に等しい。

 元々実態の薄い文芸部だ。幽霊部員と言われるたぐいも多い。むしろ七生のように熱心な部員は少なく、引退後とは言っても実質部室への出入りは自由だった。
 今日も部室で一人執筆に集中し、そろそろ下校しようと思ったところだ。
 日の短いこの季節。外は既に暗い夕闇──。

(あ……あれは………)

 静まり返った校内に、遠くから響き渡るピアノの音色。激しい速度のアルペジオ。

(和志だ……)

 今では七生も詳しくなった。最近よく聴く和志の課題。
──月光ソナタの第三楽章。

(こんなに遅くまで、何しているんだろう?)

 ブルッと寒さに首をすくめて、七生は音色の方へときびすを返す。

(第二音楽室だな……)

 近付くにつれて音量を増し、激しい連打が七生を揺さぶる。
 七生はそっと扉を開けた。

(やっぱり和志だ)

 演奏に集中する和志の後ろに、七生は静かに近付いた。
 突然手を止め、振り返る和志。

「七生、待ってたよ?きっと来ると思った」
「和志?」
「一緒に帰ろうと思って文芸部に七生の様子を見に行ったんだ。俺が覗いたのも気付かないくらい、何か一生懸命に書いていただろ?邪魔しちゃ悪いと思って、ここでこうして待っていたんだ」
「そんな事、気を使わなくてもいいのに」
「気を使っているのは七生だろ?七生……この頃なんかおかしいよ」
 途端に七生の顔が曇る。困惑
の表情が見て取れる。

「なぁ、俺、何か七生の気に障るような事……したか?」
 ゆっくりと立ち上がり、和志が七生の前に立つ。七生は慌てて視線を逸らした。

「え?何だよ和志。僕、何にも思ってないよ」
「…………」
 和志は無言で七生を見詰める。
「やだなぁ、僕たち親友じゃないか。どうして和志がそんな風に思うのか、僕には全然分からないよ」
 和志の視線があまりにも痛い。恐怖にも近い戸惑いが、七生の全身を震わせた。

「七生、俺のこと好きか?」

「え?」

 あまりの衝撃に息を呑む七生。

「好きだよ……?もちろん……」

 七生は蒼白の顔に無表情を装い、呆気ない程さらりと答えた。

「それにしては最近、俺のこと避けてるよな……」

 そっぽ向き、ねた口調で和志がたずねる。
 七生は言葉を詰まられた。

(和志には、全てお見通しなんだね……)

 堪らず七生の瞳が潤む。
「避けてないよ……いや、和志を避けるなんて僕には無理だよ」
 激しい動悸と隠し切れない熱い心に、七生の思いがほとばしる。

「本当はいつでも和志と一緒にいたい。ずっとずっといつも一緒に……でも、和志には和志の生活があるし、勉強や、部活や、他の友達との付き合いだって……」
「やっぱり気を使っているじゃないか」
 和志は悲しそうにそうつぶやくと、下を向き小さなため息を吐いた。

「和志、だけど……」
「俺は嫌だよ。いつまでも変わらないって言ったじゃないか。俺たちの友情。俺たちの気持ち!」
 思いもよらぬ和志の激情に、七生は思わず本音を漏らす。

「和志ごめん……僕がいけなかった。僕が変わってしまったんだ。変わってしまったから、確かに和志を避けようとした。でもそんな辛い事とても出来なくて、それで中途半端に接してしまった……」
「何だよそれ?何が変わった?」
 和志は七生の肩に両手を置いてその顔を覗き込む。
 七生は緊張に身を震わせながら、絞り出すように言葉を漏らした。

「す………」

「………え?」

「好きなんだ和志!前よりもずっとずっと強く。友情なんて嘘だよ。僕は和志が好きなんだ。友情なんかよりも、もっと強く!」

「七生?」

 思いもよらぬ七生の答え。和志は呆然と目を見開く。

「ご……ごめん、変なこと言ってごめん!あはっ、どうかしているんだ僕。和志を困らせるような、こんな事を言うつもりは無かったんだ全然。変だよね僕。そう……なんか変なんだよ僕!」
 和志は言葉も無く立ち尽くし、じっと七生を見詰め続けた。
 
 七生はハッと我に返る。
「……あ!頼むから嫌わないで?もう、二度とこんな事は言わないから!もう絶対に言わないから!
…………戻るから………昔の僕に戻るから……子供の頃のように、何も知らなかったあの頃のように……」
 泣き濡れて言葉を詰まらす七生の身体を、和志は優しく抱き寄せた。

「七生……自分を責めるのはもう止めろ。俺も好きだよ?七生の事が。どうしようも無いくらい七生の事が好きなんだ」
「和志?」
「俺、辛かったんだ。この頃七生がよそよそしくて……何だか俺、嫌われてるみたいで……今日こそはっきり七生の気持ちを聞こうと、それでこうして待っていたんだ」
「和志ごめん、僕は自分の事しか考えなくて、和志の事を傷付けていたんだ……本当にごめん、何も知らなくて……」
 和志の胸に強く抱かれ、七生は夢中でそうつぶやいた。

「良かった、嫌われたんじゃなくて。俺、七生がどこか遠くへ行ってしまうような気がして、本当に辛かったんだ……」

「和志……?」

 潤んだまなこを眩しげに細め、七生は和志の瞳を見詰める。

「和志のこと……このまま好きでいていいの?」

 和志は黙って笑顔でうなずく。

「和志……」

「大丈夫、俺も七生が大好きだから」

 身体が熱い。胸が苦しい。
 どうする事も出来なくて、七生はそっと視線を外す。

「和志、ピアノを弾いて?僕達の好きないつものあの曲。ショパンのアンダンテ・スピアナート」

「ああ、いいとも……」

 和志はゆっくりと七生を離し、ピアノの前に腰掛ける。

 優しい旋律。流れる分散和音。
 二人きりの音楽室に立ちこめるショパンの香り──。

「なぁ、七生……もう直、バレンタインだな……」
 甘い音色を奏でながら、和志が悪戯な笑顔を見せる。

「え……それで?」
「俺は七生からしか受け取らない。いいな?」

「ええっ?なんで僕がプレゼントするわけ…?!後輩でもないのにおかしいよ!」
「同学年だっていいだろう?」

「それにしたってどうして僕が?」
「そりゃあ、最初に告白したのは
七生だろ?…ものには順序があるもんさっ!」
「うわ~っ、すごい言い草~!」

「えへっ、なあいいだろ?俺さ、七生からチョコ貰ったって、みんなに自慢して歩くよ♪」
「もう!和志には敵わないよ~」
「あはっ」
「あははっ♪」

 実は資訓しくん学院には男子校ならではの風習があった。バレンタインの日、後輩が日ごろ世話になっている先輩にチョコを送るならわしだ。
 これは疑似恋愛でも何でもない──むしろ義理チョコに近い。
 恐らく女子と縁の薄い男子校内で自然発生した、一種の欲求不満解消の手段とも言える。

(僕の送るチョコレートが本気の本命チョコだなんて、きっと誰も気付かないな……)

 和志のピアノが冬に冴える。

(でも……和志はちゃんと、本命チョコだって分かってくれているんだよね?そう受け止めて、いいんだよね……?)

──アンダンテ・スピアナートを聴きながら、七生の顔に笑みが浮かぶ。

 心に染みる懐かしき旋律。
 忘れられない想い出の曲──。


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