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七粒目 野茨闇 ~『落花流水の情』の巻~

その十 天の庭より零れ墜ちし乙女、ついに天の庭へ還る!

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 金陽宮や天藍宮のある西の宮から、白珠宮のある東の宮へ向かう途中にある庭園を通りかかったとき、園内の柳の木の陰から、誰かがひょいと飛び出した。

「えっ? ヤ、雅文ヤーウェン? 雅文、ど、どうしたの?!」

 天女の羽衣を抱えた雅文が、わたしの前に立っていた。
 雅文自身も、紅姫ホンチェン様の手下の印である羽衣を身につけていた。
 雅文は、正式なお辞儀の姿勢をとると、緊張した声音で思阿シアさんに言った。

フェン将軍、先日は失礼いたしました。最後の務めの前に、後宮で無事に深緑シェンリュと合流でき、ようございました。
天界より、玄姫シュェンチェン様が、特別な遠眼鏡で探ってくださったのですが、白珠宮は、すでに魔界の者が跳梁跋扈する場と成り果てているようです。
やつらは、種核を天へ返そうとする深緑を邪魔してくることでしょう。わたしからもお願いします。どうぞ、あなたの環首刀で深緑を守り、務めを果たさせてやってください!」
「わかっています。そのために、俺はここにいるのです。務めをやり遂げた深緑さんを、俺が必ず天界へ送り届けます!」

 わたしは、雅文に手伝ってもらい、羽衣を身にまとった。
 そして、行李から柄杓を取り出し、羽衣の懐にしまった。
 最後に、盃に快癒水を注ぎ、思阿さんと一杯ずつ飲んだ。
 
「さあ、準備はこれでいいわ! 思阿さん、シャ先生、白珠宮へ最後の務めを果たしに参りましょう! 雅文、快癒水の行李を預かっていてね」

 行李の入った布包みを雅文に渡して、わたしは、その場で軽く跳ねてみた。
 体中に、霊力が漲りつつあるのがわかる。よし! 頑張るのよ、深緑!

「思阿さん、せっかく羽衣が届いたのですから、白珠宮へは空から行きましょう!」
「えっ?! お、俺は……、おっ? はっ? うわぁ?!」

 わたしは、思阿さんの腕を取ると、黒雲が渦巻く空へ一気に飛び上がった。
 行李の包みを抱えた雅文が、クスクス笑いながらわたしたちを見送っていた。

 ◇ ◇ ◇

 白珠宮を上から見下ろして驚いた。
 建物に囲まれた中庭に、先ほど金陽宮で見たものの数倍はあろうかという、大きな野茨の檻ができていた。
 檻の中にあるものを守るように、地中から伸び出した枝は、大きくうねりながらさらに絡まり合って、檻を堅牢にしようとしていた。

「どうやら、種核は野茨にとりつき、野茨を台木として育っているようじゃ。すでに種核が主となり、野茨を操っているのかもしれないのう。おそらく、あの野茨の檻の奥に種核は隠されているのじゃろう」

 夏先生が、虫籠の中から囁いた。
 丹有ダンヨウさんが床に描いた魔紋を出入り口として、ここから金陽宮に伸ばされた野茨の枝は、天水がかかると炎を上げて燃えていた。
 台木の野茨は、すでに、とりついた種核と一体化しているに違いない。
 それならば、種核の場所が露わになるまで、天水をかけて燃やし続けるしかない。

 わたしは、思阿さんとともに、白珠宮の屋根に降り立った。
 思阿さんは、環首刀を鞘から抜くと、わたしに言った。

「深緑さん、天水をこの刀の刃にかけてみてくれませんか? そうすれば、もしかしたら、この刀で切ることで、野茨を燃やせるかもしれません」
「なるほど……、わかりました! やってみましょう!」

 わたしは、懐から柄杓を取り出し、力を込めて一振りした。
 大きく伸びた柄杓の斗には、天水が溢れるほど満ちていた。
 それを満遍なく、環首刀の刃にかけた。

「行きますよ、深緑さん!」
「はい!」

 思阿さんが中庭に飛び降りると、すぐに野茨の枝が襲いかかってきた。
 思阿さんは、瞬く間に環首刀でそれらを薙ぎ払った。
 断ち切られたところから、萌葱色の炎が上がり、野茨の枝が燃え始めた。
 思った通りだ。天水の力を得た環首刀でも、この野茨の枝を始末できる!

 わたしも屋根から飛び上がり、伸びてくる枝先を避けながら、天水を振り掛けた。
 空中と地上の両方から、野茨の檻を焼き払っていく。
 やがて、複雑に絡まり種核を包んでいた野茨の檻は、少しずつ崩れていった。
 そして、檻の奥に隠されていたものが、ゆっくりと姿を現した。

「ああっ……、こ、これは……、ツ、翠姫ツイチェンさま……」

 野茨の太い根元から、ぬめぬめと光る萌葱色の像が立ち上がっていた。
 翠姫様の姿をしたその像は、髪に小さな蘭の花を挿していた。
 あの蘭だ……。甘く優しい香りが、記憶を呼び起こす。
 わたしが、姉様たちに、初めて庭番の仕事に連れて行ってもらった日に、翠姫様のために手折った蘭の花……。あの花だ……。
 ああ……、あの蘭が落とした種核が、こんな場所で……こんなふうに……。

「シェ、深緑さん、どうしたんです?! 種核は見えましたか?!」

 地面に降りたわたしの所へ、思阿さんが駆け寄ってきた。
 もう、わたしたちを襲ってくる枝はなかったが、思阿さんは油断なく身構えていた。
 わたしには見えていた。翠姫様の像の胸に、小さな種核が光っているのが――。
 翠姫様の像に天水をかけて燃やし、種核を天に戻さなくては――。
 でも、翠姫様を燃やすなんて……、そんなこと……、わたしの方を悲しげな目で見ている……、翠姫様……。

「深緑! 幻じゃ! あれは、ただの巨大な蘭の株じゃ! おぬしは、災媛ザイユェンが露茜池の蓮の実から作った魔毒に惑わされておる! しっかりしろ!」

 えっ? 魔毒に惑わされている?
 虫籠から聞こえた夏先生の声が、わたしの目を覚ましてくれた。
 そうよ! 翠姫様は今、天界でわたしの帰還を待っているはず!
 わたしは、柄杓を大きく振りかぶり、蘭の株めがけて天水を思い切り放った。
 そのとき、蘭の株元から、ものすごい勢いで野茨の枝が伸びてきた。

「危ない!」

 刀を振るう間もなく、思阿さんがわたしに覆い被さり盾となって守ってくれた。
 思阿さんの左腕に、棘だらけの野茨の枝が巻き付いていた。
 環首刀でなんとか枝を切り落とすと、思阿さんはその場に倒れ込んだ。

「思阿さん?!」
「お、俺は……、大丈夫です……。深緑さんは、早く、つ、務めを……」
「は、はい……」

 わたしは、柄杓を頭上に掲げ、種核を天へ返すため、祈りの言葉を唱えた。

「かい・ちょう・かん・ぎょう・ひつ・ほ・ひょう! なれ、天の庭のものならば、天の庭へ!」

 黒雲を吹き払うようにして、明るい七つの星が頭上に浮かび上がった。
 その七番目の星、揺光がひときわ明るく輝くと、種核へ向かって光の糸が伸びてきた。
 ほかの六つの星たちが、種核を招くようにきらきらと煌めいている。

 すでに、萌葱色の炎の固まりとなった茨の檻の中から、光の糸に導かれて、種核は揺光に向かって上昇を始めた。
 最後の種核が、天へ戻ろうとしている……。
 わたしの務めが、とうとう終わるのだ……。
 種核が揺光と一つになると、七つの星はくるくると渦巻いて大きな光の球になった。そして、空の彼方へと消えていった。
 
「シ、思阿さん! し、しっかりしてください!」

 わたしは、倒れてぐったりしている思阿さんを、慌てて抱き起こした。

 ああ、快癒水を雅文に預けなければ良かった。
 快癒水があれば、野茨の棘の傷ぐらい……。
 傷の具合を見ようと、思阿さんの左腕の袖をまくった。
 野茨の棘が刺さったところに、不思議な図が浮かび上がっていた。
 これは……、ま、まさか、魔紋?!

「ハッ、ハッ、ハッ! 棘についていた魔毒で、そやつの腕に魔紋を刻んだのだ! そやつは、まもなく我らの傀儡となる! 翠姫が産んだ皇子に恋しい母親の幻影を見せて、魔紋を刻んでやるつもりだったのだがな。我らの気配に気づいたのか、皇子は金陽宮から逃げてしまった……。さて、愚かな天女よ、早く離れた方が良いぞ! そやつの刃は、今度はそなたに向けられる!」

 高殿の屋根の上に、災媛が立っていた。
 嘘……、思阿さんが、魔軍の傀儡になるなんて……。
 わたしの腕の中で苦しげに息を吐きながら、思阿さんが次第に青ざめていく……。
 いやだ、いやだ、いやだ……。

「さあ、もうあきらめろ! 今さら、何をしても無駄じゃ!! 皇子を狙う機会は、また訪れよう。今回は、そやつが手に入っただけでもよしとしてやる!」

 災媛が、勝利を確信したように叫んだときだった。
 激しい雷鳴と共に、黒雲を引き裂くようにして、高殿の屋根の上に楝色おうちいろの稲光が走った。わたしは目を閉じ、必死で思阿さんを抱きしめた。
 災媛の悔しげな呻き声が、遠くで聞こえた気がした。

「災媛め! 上手く雷撃を交わして逃げおったな! 小癪な奴よ!」

 あの声は――。わたしは顔を上げ、声が聞こえた高殿の屋根を見上げた。
 楝色の煌めきが、淡く人の形にまとまりかけていた。

「天帝様……」
「深緑、よく最後まで務めを果たしたな。これで、そなたの償いも終わった。天界へ戻ることができるぞ!」
「あ、ありがとうございます……。で、でも、思阿……、いえ、馮将軍が、魔紋を刻まれて……。わたしを、庇ったばっかりに……」
 
 涙が溢れて、もうそれ以上は言葉にできなかった。
 腕の中の思阿さんの息が、だんだん弱くなっていく。きっと、魔毒によって、体を作り変えられているんだ……。
 わたしの涙が、思阿さんの顔に一粒落ちたとき、思阿さんが薄く目を開けた。

「シェ、深緑さん……、務めは……、無事に、……果たせたのですか?」

 わたしが、黙ってうなずくと、弱々しく微笑んだ思阿さんは、刀を置いて、右手を自分の懐に差し入れた。
 そして、あのかんざしを懐から取り出すと、最後の力を振り絞るようにして、わたしの髪に挿してくれた。

「あなたを……守れて……良かった……」
「思阿さん……、まだ、ですよ……。わたしを……、天界へ、送り……届けてくれるのでしょう?」

 わたしの問いに答えるように、思阿さんの胸の辺りで何かがきらりと光った――。

「深緑よ! 馮颯懍フウソンリェンの体を天人に戻してやった。それが、余がここで与えられる精一杯の加護だ。天人は、天人樹に稔る果実から生まれるのを知っておろう? 天人にも、種核があるのだ。
颯懍の体を天水で燃やし、種核を天へ返してやれ! それが、颯懍を魔軍に渡さぬ唯一の方法だ! 庭番天女のおまえにならできるはずだ!」

 思阿さんを燃やして、種核を天に返す?
 そんなこと、そんなこと……、無理だ……。
 でも、そうしなければ――。

 わたしは、その場に思阿さんを横たえると、柄杓を持って立ち上がった。
 上手くできるかはわからない……。でも、心を込めて唱えてみよう。
 あなたのために――。あなたを守るために――。

なれ、天人樹に稔りしものならば、迷わず天人樹のもとへ!」

 祈りの言葉と共に、天水を思阿さんに優しく振り掛ける。
 萌葱色の炎に包まれ、思阿さんの体は次第に形をなくしていく。
 さよなら……、思阿さん……。
 忘れない……、あなたのこと……、天界へ戻っても、ずっと、ずっと……。

 わたしの頭の上で、何かが明るく光った。
 楝色の光を放つ大きな星が、空の中心で輝いていた。
 あれは、天帝星……!
 天帝星から、楝色の太い光の糸が伸びてくる……。
 思阿さんが横たわっていた所に残されていた小さな種核が、光の糸と結ばれてゆっくりと上昇を始めた。
 見届けたい……。でも、もう涙で何も見えない……。

「さあ、あとは天帝様にお任せして、わたしたちも天界へ戻ろう……」

 また、あのしなやかな腕が、疲れ果てたわたしを抱き上げていた。
 その胸に体を預けて目を閉じると、ふいに眠気が襲ってきた。

 夢を見たい……。楽しい夢……。あの人が待つ場所へ走って行く夢……。
 あの人と笑い合う幸せな夢を……見たい……。
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