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六粒目 幻灯蓮 ~『我が上の星は見えぬ』の巻~

その三 州城に着きましたが、池には何やら怪しい蓮が茂っているようです!

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 翼翔イーシャンは、船に乗る前に買ったちまきを、届けに来てくれたのだった。
 はじめは、涙ぐんでいるわたしを心配そうに眺めていたが、大きな口を開けて粽を頬張る姿を見たら、安心した顔でみんなの所へ帰って行った。
 くよくよ考えていてはだめだ! 食べて元気を出さなくては! モグモグ……。
 わたしには、まだ務めが残っているのだもの――! モグモグ……。

 船が州城に近づき、流れもいっそうゆるやかになると、物売りの小舟が次々と船に近づいてきた。元気のいい売り声が、船の周りを飛び交う。
 わたしは、一座に混じって、船中で少し早めの夕餉を取ることにした。
 小舟から漂う様々な香りを嗅ぐだけで、沈んでいた心が浮き立ってきた。

「シェ、深緑さん……、よ、よく食べるね……、お粥と麺と汁物と……饅頭も!」

 空になった器を集めて小舟に返しながら、翼翔が呆れた口調で言った。
 涙と共に霊力が流れ出てしまったのではと思うほど、わたしはお腹がすいていた。
 ようやく満足した頃、船は州城の城門前に広がる船着き場に到着した。

 州城の南側に位置する露茜池という、蓮の花で有名な池の周りが繁華街になっていて、芸人たちが集まる広場や屋台街もそこにあるそうだ。
 小舟を雇い、運河を使って露茜池まで、一座は移動することになった。

 ようやく廣武グァンウーに着いた。明日には、思阿シアさんに会える! 
 離れていたのはたった一日なのに、もっとずっと長い時間会えずにいた気がする。
 会えたら、きいてみたいことがたくさんある。
 まず何より先に、わたしを置いて、一人で廣武へ来た理由をきかなくては――。

 露茜池の辺りは、日没も迫っているというのに、大変な賑わいだった。
 名物の蓮池の蓮の花は、朝から昼までが見頃のはずだが、なぜか、見物客が後から後からやって来ている。

「夕方だってのに、なんでこんなに人が来ているのさ? もう、蓮の花だってとっくに閉じちまっているだろう?」
「それがさ、姉ちゃん。俺、船ん中で聞いたんだけど、この春、今まで誰も見たことがない、珍しい蓮が育ったんだってさ。その蓮の花は、夕方から開き始めて、明け方に花を閉じるんだって」
「だからこんな時刻でも、人が集まってくるんだね。灯籠もたくさん点っているし、あたしたちにとってはありがたい話だよね。これだけ人がいりゃあ、今夜のうちに一稼ぎできそうだもの」

 翼翔と青楓チンフェンの会話を聞くともなしに聞いていたら、気になる言葉が飛び出してきた。
 見たこともない珍しい蓮? 夜の間だけ花を開く?
 なぜか、背中がひんやりした。天空花園から落ちた種に、関わりがあるのだろうか?

 小舟から降りて、座頭が馴染みの道具屋で借りてきた荷車に、みんなで荷物を積み込んだ。
 座頭も、これだけ人の往来があるのなら、商売になると踏んだのだろう。
 池の周りの屋台街に場所を借り、商売を始めると言いだした。

「深緑さんは、今夜はまだ見習いってことで、みんなの手伝いをしてくれればいいよ。時間ができたら、ほかの芸人の芸でも見に行ってきな!」
「ありがとうございます、座頭! お言葉に甘えて、「水嬉」のご披露は、明日からということにさせてもらいます」

 シャ先生は、やる気満々だったようで、わたしの言葉を聞くと、「ゲロン」と小さな声で不満げに鳴いた。
 わたしは、なだめるように虫籠をポンポンと叩き、荷車について屋台街へ向かった。

 屋台街では、すでにたくさんの芸人が商売を始めていた。
 奇術や曲芸のほか、猿回しや楽器の演奏なども人気があるようだ。
 わたしは、みんなの支度や小道具の準備を手伝ってから、座頭に許しをもらって、いろいろな芸人たちの出し物を見に行くことにした。

 気に入った出し物では、木箱や皿に銅銭を置きながら、人混みをかき分けて屋台街を進んでいった。
 そして、とうとう見つけた! 卓にぶら下がる紙に書かれた「水嬉」の二文字!
 小さな卓の上に、水を張った器が置かれている。
 器の中央には平らな石があって、その上で可愛らしい亀が休んでいた。

 わたしは、虫籠を腰紐から外し、器がよく見えるように手で持ち上げた。
 編み目の小さな隙間から、夏先生も目をこらして器を見つめているに違いない。
 十人ほどの人が集まったところで、水嬉師は小さな銅鑼を手に取った。
 銅鑼を一つ叩くと、亀はゆっくり立ち上がり、水の中に入って浮かんだ。
 それだけで、もう拍手をしている観客がいる。

 水嬉師は、水面から出た甲羅の上に、銅銭を一枚載せた。
 そして、再び銅鑼を持つと、今度は、ばちを細かく動かして銅鑼を連打した。
 銅銭を背負った亀は、小さな足を動かして、器の縁を回るように泳ぎだした。
 銅銭を落とすことなく、器の中を一周すると、亀は止まり、銅銭が除かれるのを待った。
 水嬉師が銅銭を持ち上げると、亀はまた石の上に上がった。

 それだけの芸だったのだが、観客たちはやんややんやの大喝采だ。
 水嬉師が差し出した皿には、どんどん銅銭が投げ込まれていく。
 わたしもつられて、銅銭を二枚入れてしまったが、これは、そんなにすごい芸なのだろうか? 虫籠の中の夏先生も、なぜかひっそりしている。

 池の畔の石に腰掛け、屋台で買った南方風の焼き肉串にかぶりついていると、虫籠から出た夏先生が、いつものように耳元まで這い上がってきた。

「なんか、拍子抜けしたのう。『水嬉』とは、思っていたより素朴な芸ではないか?」
「普通の亀を仕込むのですから、あれでも、たいしたものなのですよ。老夏ラオシャは、蛙といっても人語を解する元天人だから、何でもできちゃいますけどね――」
「それほどでもないが……。まあ、あまり、評判になりすぎないように注意しよう」
「よろしくお願いしますよ!」

 ―― キャアアアァァァァーッ! だ、誰か……、だ、誰かああぁぁ……!

 そろそろ一座の所へ戻ろうと、立ち上がりかけたところで、悲鳴を聞いてしまった。
 当然のように、わたしの襟の合わせ目に潜り込む夏先生に呆れながら、わたしは、悲鳴が上がった方に向かって走り出した。
 人々が次々と集まってくる。悲鳴の出所は、不思議な蓮が生えている辺りのようだ。

 何か恐ろしいことが起きたのだろうか? 人々は遠巻きに眺めていた。
 人々の隙間を縫って前の方へ行くと、男の人が倒れているのが見えた。
 近くには、彼の連れと思われる女の人が、しゃがみ込んで宙を見つめていた。
 ん? 宙を見つめている……。

 男の人の顔には、大きな蓮の葉が、茎ごと倒れて覆い被さっていた。
 そして、そこから煙か靄のようなものが筒の形に立ちのぼり、きらきらと揺らめいていた。
 まるで動く影絵か映し絵のように、靄の表面には繊細な絵が描き出されていた。

 男と女が、茶館で寄り添い、親しげに話をしている絵だ。
 女は、今、しゃがみ込んで宙に浮かぶ絵を見つめている、この女の人だ。
 男は、ここに倒れている男の人だと思われた。

 二人はやがて別れて、男の人は一人で小さな酒楼に向かった。
 そこには、女の人とよく似た別の女が待っていて、入ってきた男の人に抱きついた。

 その絵を見て、しゃがみ込んでいた女の人が、驚きの声を上げた。
 やがて、靄は絵を映すだけでなく、声や物音まで発するようになった。
 絵の中の男女の会話が、鮮明に聞こえてきた。

 ―― ねえ、治宏ジーホン。本当に姉さんと別れてくれるの?
 ―― ああ、明日、二人で露茜池へ出かけるから、そのときにはっきり言うよ。
 ―― 嬉しい! うふふふ……、姉さん、どんな顔するかしら?
    あなたが、わたしに夢中だってことに、きっと気づいていないわよね。
 ―― そりゃあそうさ。清茄チンルウは、俺にベタ惚れだからな。

 それから二人は、ひとしきり笑い合った後、酒楼を出てどこかへ歩き出した。
 映し絵はそこで終わった。男の人が目を覚まし、起き上がったからだ。
 男の人は、顔から蓮の葉を乱暴にむしり取り、その辺に投げ捨てると女の人を見た。
 女の人が、恐ろしい顔で男の人を睨んでいた。
 男の人は、わけがわからない様子で、女の人に呼びかけた。

「チ、清茄……、あ、あの、いったい……」

 ―― バチンッ!!

 手を振り上げ、男の人の頬を思い切りひっぱたくと、女の人は立ち上がり、よろけながら走り去ってしまった。
 男の人は、その場に座り込み、周りに集まった人々に答えを求めるように目を向けた。
 しかし、誰もが目をそらすようにして、そそくさとその場を立ち去っていく。
 結局、最後まで見つめていたわたしと彼の目線が合うことになってしまった!
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