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五粒目 暴食根 ~『いつも月夜に米の飯』の巻~

その八 種核を天へ返すため、一芝居打つことになりました!

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老夏ラオシャ! どうやらわたしたち、零れ落ちた種から育ったものに、ついに出会ってしまったようですね?」
「そのようじゃな。あれは、藤としては極めて珍しい花色じゃ。まさに、真珠のような虹色に輝いておったのう。なんでも、あのお方の家の庭に、芽吹き花開いた藤の小木を、手ずから鉢に上げ大事に世話を続けていたところ、都の下っ端役人から県令に大出世できたとのことじゃ」
「どうやって調べてきたのですか、そのような怪しげな話?」
「フォッ、フォッ、フォッ……、おぬしにも知らせておらぬ、特別なつてがあるのじゃよ!」

 シャ先生とわたしは、宿の中庭にある紫藤の棚の下で、夕風に吹かれていた。
 思阿シアさんは、理会リーフイ苹果ピングォと明日のことを話し合っている。
 もしかすると、部屋にある花瓶とか使って、鍛練を始めているかもしれない……。

「真珠藤は、今夜は役所の中庭に置かれているはずじゃ。県令殿が開く酒宴で、紫藤祭に招待した都の役人たちに披露するそうじゃからな。種核を始末するのなら、今宵が良かろう」
「わたしもそう思いますよ、深緑シェンリュ!」
「ええっ!」

 藤棚の柱の陰から不意に現われたのは、雅文ヤーウェンだった。
 また、例の「天人秘恋 ~落花流水~」と表紙に書かれた帳面を抱えている。
 一緒に、羽衣まで持ってきていた。

「あなたたちは、『嫁運び競べ』が終わったら、すぐに里へ戻ることになるのでしょう? 今夜を逃すと、また改めて巧琳チャオリンへ来ることになります。ぞれは、時間の無駄です。
しかし、真夜中とはいえ役所の中ですから、いつものようにはいきません。衛士の見回りが終わった頃合いを見計らい、羽衣を使って素早く務めを果たしてください」
「羽衣を使うの? もし、誰かに見られたときは、どうすればいい?」
「そのときは、何か神秘的なできごとでも見ているように思わせて、相手が驚き恐れている間に種核の始末をしてください。
念のため、気を失い記憶を曖昧にする粉薬を持ってきましたから、あなたの姿を見たかもしれない人物に、この壜の粉を忘れずに振りかけてください」

 雅文は、栓がはめられた小さな白い壜を懐から取り出した。
 わたしは、羽衣と壜を預かり、いつも背負っている行李と一緒に布にくるんで背負い直した。

「ところで、深緑。今日は、なんだか幸せそうですね?」
「えっ? あっ……、わ、わたしは、美味しいものが食べられて、素敵な寝台で眠れればいつでも幸せだけど……」
「ふうん……。そうだ! 明日の『嫁運び競べ』にも、羽衣を着て出たらどうですか? 羽根のように軽くなるはずですから、あなたを背負っても思阿さんは楽に走れるはずですよ。それに、羽衣姿の深緑はとても美しいですから、思阿さんもきっと喜ぶと思います」
「思阿さんが?! そ、そうかしら……」

 わたしが、思阿さんが嬉しそうに微笑む顔を思い浮かべて、ちょっとドキドキしていたら、夏先生と雅文は、二人一緒に声を上げて笑った。
 ああ、もう! また、わたしのことをからかったのね?!

「さあさあ、務めも『嫁運び競べ』も成功させるためには、自分の恋情にばかり夢中になっていてはいかんぞ、深緑! 雅文もそろそろ戻れ、人が来るとやっかいじゃからな。」
「わかりました、老夏。お子ちゃまのことをよろしく頼みますよ!」
「ああ、心配いらぬ。天からよく見ておれ!」

 雅文は、ふわりと棚の柱の陰へ回り込むと、音も立てずに姿を消した。
 夏先生は、虫籠の奥深く潜り込むと、眠そうな声で言った。

「晩餐がすんだら、一寝入りしておくのじゃぞ。それから、出かけるときは苹果ピングォを起こさぬように気をつけよ。明日の『嫁運び競べ』に障りがあっては気の毒じゃからな」
「老夏、さっき、『自分の恋情にばかり』とか言ってましたけど、それって……」
「そんなこと、……言ったかのう?」

 夏先生は、それきり静かになってしまった。そのうち、小さな寝息が聞こえてきた。
 自分の恋情? それって、もしかして、今わたしが感じているこの幸せな気持ちのこと……なのかしら?

 ◇ ◇ ◇

「起きておるか、深緑よ。そろそろ、出かける時刻じゃぞ」
「今夜は、きちんと起きておりますよ、老夏。着替えもすんでいます」
「では、参ろうか」
「はい!」

 隣の寝台で眠っている苹果は、ぴくりとも動かない。
 念のため、朝までぐっすり眠れるようにと願いを込めて飲ませた快癒水が、思った以上に効いているのかもしれない。

 夏先生の虫籠を下げ、わたしは、誰にも気づかれぬように、静かに宿を抜け出し町へ出た。
 さすがに、この時刻になると酒楼も妓楼も店を閉め、繁華街といえども寝静まっていた。

 ありがたいことに、今夜は月も見えない。
 羽衣を身につけたわたしは、軽く跳ねて近くの妓楼の屋根に上がると、役所の方角を目指して、家々の屋根を踏み越えながら、漆黒の夜空を駆けていった。

 宿を出て、四半時ほどたった頃――。
 わたしは、役所の中庭を囲む建物の屋根の上に身を潜めていた。
 先ほど衛士が中庭を通り、消えかけた篝火に木を足していった。
 中庭に面した露台の端に、真珠藤の鉢を載せた台が設えてあるのが見える。
 篝火の赤い光を受けても、真珠藤の虹色の輝きが、損ねられることはなかった。

 わたしは、懐から柄杓を取り出し、大きく一振りした。
 柄杓が伸び、斗の中には天水が満ちた。
 屋根から舞い降りながら、柄杓を振って天水を真珠藤にかける。
 瞬く間に、真珠藤が萌葱色の炎に包まれた。鉢の土が、中から強い光を発している。
 種核は、土の中にあるようだ。

「な、何だ! だ、誰だ! 真珠藤に何をした?! も、燃えているではないか?!」

 えっ? 何で、こんなところで人の声がするの?! どういうことなの?!
 中庭に降り立ったわたしは、転がりながら露台の下に隠れた。
 露台の上で、誰かが騒いでいる。真珠藤の炎を、必死で消そうとしているようだ。
 騒ぎが大きくなって、人が集まって来るとまずいわ!
 焦っていると、虫籠の中から夏先生の声がした。

「しかたがないの。深緑! おまえが、真珠藤の精を演じるのじゃ。そして、相手を上手く丸め込んでしまえ!」

 真珠藤の精? なんだかよくわからないけれど、とりあえずやってみよう。
 わたしは、思い切り上品で優しげな声をつくって、露台の上の人物に床下から呼びかけた。

「もし、そなた、心配はいりませんよ。善なる心の者、どうか、わたくしから離れてください!」
「お、おう、真珠藤様! やはり、あなたは花の女神が宿りし花木! とうとう、わたくしの思いが届いたのでございますな! あなた様のお世話を続けてまいりました、県令の王真愛ワンチェンナイでございます!」

 なんと、県令様が露台で休んでいたのね? それほど、真珠藤から離れたくなかったということかしら――。
 しかし、これなら、芝居はしやすいかもしれないわね。

「真愛よ! 今宵、わたくしは天の庭へ帰ります。そなたの厚情には心より感謝します」
「そんな……、あなた様をさらに美しく咲かせるため、南方より真珠をたくさん取り寄せました。これらを肥やしとして、どうぞこれからも花を咲かせ続けてくださいませ!」

 高価な真珠を肥やしにしているという噂は、本当だったのね!
 まさか、その真珠を買うために、里に税を課そうとしていたわけではないわよね?

「それはできません! そなたが、わたくしの花を咲かせたいがために、たくさんの里人たちを税で苦しめようとしているのなら、それを見過ごすことはできないのです。わたくしは、このまま燃え尽きて天へ戻ります。
もし、そなたが行いを改め、『嫁運び競べ』を本来の許嫁たちを祝うだけのものに変えるのなら、わたくしは、いつかまた、必ずそなたの元へ戻ってくると約束しましょう!」
「おお、真珠藤様! あなたは、愚かなわたくしを戒めるため、天へ帰るとおっしゃるのですか?! なんと、気高いお心なのでしょう!」

 県令様がさめざめと泣き始めた。
 わたしは、露台の下で柄杓を頭上に掲げ、種核を天へ返すため、祈りの言葉を唱える。

「かい・ちょう・かん・ぎょう・ひつ・ほ・ひょう! なれ、天の庭のものならば、天の庭へ!」

 頭上に広がる夜空に浮かび上がったのは、七つの星。
 露台の上の県令様も、それを見たのだろう。露台にひれ伏し、さらに激しく泣いているようだ。
 七つの星の五番目の星、玉衡がひときわ明るく輝くと、玉衡から伸ばされた光の糸が露台の上で、萌葱色の炎に揺れる真珠藤の種核にまっすぐに届いた。
 わたしは、露台の下から出て、光の糸に導かれ,種核が玉衡に向かって上昇するのを見守った。
 県令様は、じっとひれ伏したまま、何かを小声で呟き続けていた。

 最後は玉衡に溶け込むようにして、種核は姿を消した。
 そして、七つの星は中庭に優しい光を落としながら、ゆっくりと消えていった。
 
 わたしは、露台に跳び乗り、涙を流しながら見上げた県令様に壜の粉薬を一振りした。驚き目を見開いた県令様は、粉薬を吸い込むと、そのままそこで気を失ってしまった。
 彼は、真珠藤が女神に姿を変えて、天へ昇る夢をみた――と、考えるかもしれない。
 残念! この羽衣で、「嫁運び競べ」に出るわけにはいかなくなったわね。

 わたしは、柄杓を縮めて懐にしまうと、露台を蹴って役所から飛び立った。
 温かな寝台へ戻って、わたしも明日に備えなくっちゃ!
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