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四粒目 結縁花 ~『恋は思案の外』の巻~
その九 お幸せに、お嬢様! あとは務めを果たすだけです!
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思阿さんは、部屋へ飛び込んで来るなり、何も言わずにわたしを抱え上げた。
ものすごく怖い顔で気絶している江様をひと睨みし、そのまま庭へ走り出た。
「こ、こちらです。裏門から出て道なりに進めば、繁華街へ出られます! 多少の物音では、お嬢様の部屋へは近づくなと言われていますから、邸のものは誰も来やしません」
妙香さんの案内で、わたしを抱えたまま思阿さんは裏門へ急いだ。
裏門を出る際、妙香さんが心配そうに思阿さんに尋ねた。
「思阿さん……。お嬢様は永庭さんと……、無事に県城を出られたのでしょうか?」
「はい……。美珊さんも、『お嬢様のいないお邸にいる意味はない』と言って、お二人と一緒に行かれました。最後まで、あなたのことを気にかけていましたよ。あなたは、この後どうするおつもりですか?」
「わたしは、裏門の手前で倒れていることにします。何か聞かれたら、お嬢様を連れ去った見知らぬ男を追いかけたけれど、当て身を食らって気絶したと話すつもりです。
わたしも近いうちにお邸を出るつもりです。美珊さんもわたしも、この邸を追い出されるように輿入れさせられるお嬢様を、ずっとおいたわしく思っておりました。
お嬢様さえお幸せなら、それでいいのです。もうお目にかかれないのが残念ですが……」
妙香さんに礼を言い、裏門を出たところで、ようやく思阿さんはわたしを下ろしてくれた。
思阿さんは、雪莉様に着せたわたしの服や行李が入った布包みを肩から下ろして、わたしに差し出した。
「深緑さん、あ、あの……、さすがに、その格好では繁華街に連れて行けません。いつもの服に着替えてもらえますか?」
「えっ? そ、そうなんですか? わ、わかりました!」
わたしは、雪莉様の夜着を着ていたのだけど、よくよく見れば、胸元が少しはだけて下着がのぞいているし、薄くてひらひらしているし、とても、昼間、町中に行く服装ではないことに気づいた。
急に恥ずかしくなり、路地に置かれた荷車の陰に隠れて、大急ぎで着替えた。
路地の入り口で、思阿さんが見張っていてくれた。
たびたび、ありがとうございます!
「すみませんでした。これで、大丈夫ですか?」
わたしが、いつもの格好に戻って出て行くと、思阿さんがホッとした顔をして笑った。
その笑顔を見たら、わたしもやっと安心することができて――。
―― グルギュルグル……ギュルウウウーンッ……。
◇ ◇ ◇
「あの木戸の所に、永庭さんが待っていてくれました。すぐに中へ入れてくれたので、例の白薔薇の所へ行きました。美珊さんが持っていた鋏で雪莉様が一枝だけ切り取り、永庭さんに差し出したんです」
「あの、雪莉様は、な、何と言って差し出したんですか?」
「……え、お、俺には言えませんよ……。と、とにかく、永庭さんが受け取ると、薔薇の花がたちまち赤色に染まったんです! そばにいた水昆さんも驚いていました」
ここは、昨日、雪莉様と会った、月季庭園近くの茶館だ。
思阿さんとわたしは、少し遅い昼餐をとっていた。
もちろん、今日は個室でなく一階の卓を囲む席で。
月季庭園での様子を、思阿さんから聞き出しているところなのだけど……。
「そ、それで、薔薇を受け取った永庭さんは、どんなことを言ったのですか?」
「……、そ、それも、俺には言えません……」
「もうっ! 言えないことばかりじゃないですか! 恥ずかしがってないで、教えてくださいよ!」
「勘弁してください! お二人の思いは通じ合いました。深緑さんの目論見通り、新天地を目指して県城を出て行きました――。それで、いいですか?」
思阿さんは、わたしの問いかけに顔を赤くして、汗を拭う仕草をしながら答えていた。もう、一番いい場面のことを教えてくれないんだから!
たぶん、二人は、まわりが恥ずかしくなるぐらい親密になって、旅立っていったのだろう。
だって、白い薔薇は、迷いや不安を乗り越える「真実の愛」を、永庭さんに自覚させてくれたはずだから――。
美珊さんが付いていったのは想定外だったけど、かえって良かったかもしれない。
彼女がついていれば、周りが見えなくなっている二人でも、何とか無事に旅を続けていけるわよね。
「永庭さんのご両親は、許してくれたのですか?」
「ええ。水昆さんは、ずっと前から永庭さんの気持ちに気づいていたのかもしれません。奥さんと一緒に、船着き場へ永庭さんたちを見送りに来ました。旅の支度を整えてくれて、荷物やお金も渡していたようです。あとは、深緑さんの紹介状が、役に立つといいですね」
「役に立ちますよ、きっと! そんなに遠くない将来、永庭さんは、大きな仕事を任される園丁になるはずです」
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
「だって――」
だって……、夢に見たんだもの! いろいろなことが、みんな上手くいった夢――。
もちろん、思阿さんにからかわれるから、それは言えない……。
わたしは、誰かと一緒に、永庭さんと雪莉様を訪ねていくのだけど、あの人はいったい――。
さっきの答えの続きを待って、思阿さんがわたしをじっと見つめていた。
何だか胸がドキドキしてきて、わたしは、急いで饅頭を手に取るとかぶりついた。
口いっぱいの饅頭を、ごくりと飲み込んでから、わたしは言った。
「だって、一人で県令様のお邸の薔薇園を手入れしていたんですよ。それって、若くても腕は確かだってことでしょう? わたしが紹介状を書いた方々は、優れた眼力をお持ちの方ばかりだから、永庭さんの才能にも必ず気づいてくださると思います」
「そうか! 確かにそうですね! うん、深緑さんの言うとおりです!」
昼餐を終えたわたしたちは、月季庭園の近くの市で、薬水屋を開くことにした。
県令様のお邸では、雪莉様が何者かに連れ去られたと、今頃大騒ぎになっているはずだ。
だから、雪莉様の行方を追って、県令様の使用人や私兵たちが、町中をうろうろしているかと思ったのだが、そうした気配はまったくなかった。
人々で賑わっている庭園のまわりにも、それらしき人の姿は見られなかった。
「まさか、まだ雪莉様がいなくなったことに気づいていない、なんてことはないですよね?」
「いくらなんでも、そんなことはないでしょう。深緑さんが叩きのめした許嫁の男も、気がついた頃だろうし――。俺が、ちょっと様子を見に行ってきますよ。船着き場や紅姫廟のあたりに、何か噂が広がっていないか調べてきます」
「あの、わたし、江様を叩きのめしたりしてませんけど――」
「えっ?! あの男、白目をむいて倒れていたじゃないですか?! 深緑さんが、叩きのめしたんでしょう? あの部屋には、ほかに誰もいませんでしたし――」
「あ、あの、うん……、はい……」
腰の虫籠が、カタカタと揺れている。実は、ここにいるお方が、犯人なんですけどね……。
半時ほどで戻ってくると言って、思阿さんは一人で出かけていった。
◇ ◇ ◇
思阿さんは、様々な場所を回って人々の話に耳を傾けてみたが、雪莉様についての噂を聞くことはなかったそうだ。
思阿さんとわたしは、先ほどの茶館の並びにある宿に泊まることに決め、簡単な晩餐を済ませた後は、それぞれの部屋へ引き上げた。
わたしは、虫籠から出てきた夏先生に、さっそく意見を聞いてみた。
「あの許嫁殿は、男と逃げた雪莉様には興味を失ったのじゃろう。婚礼は取りやめになり、県令殿からは謝罪金が支払われて、都へ戻ることにしたのではないかな? まあ、それはそれで、あいつにとっては好都合なことだったかもしれん」
「でも、老夏、県令様や奥様は、雪莉様をそのまま放ってはおかないのではないですか? 彼女は、大事な一人娘なのですよ」
「いやいや、どうせ見つけ出したところで、男と逃げたという噂が広がれば、もう良い輿入れ先は見つからんじゃろう。このまま、表向きは都の官吏に輿入れしたことにして、雪莉様のことは忘れ去るつもりなのさ。あの奥様にとっては、やっかいな荷物は、早く片付けてしまいたいだけじゃろうからな」
「やっかいな荷物――ですか……」
夏先生が言うとおり、県令様はともかく、奥様は、有力者とつながるための道具としての価値をなくした雪莉様なんて、どうなってもかまわないのかもしれないわね。
県令様は、奥様の尻に敷かれているようだから、このぶんなら、永庭さんと雪莉様は、追っ手を気にすることもなく、安心して旅を続けることができるだろう。
「さて、深緑よ。そろそろ、ここでの務めを果たしてもいいのではないかな? おぬし、あの白い薔薇に恩義を感じて、妙な情けをかけているのではあるまいな?」
ものすごく怖い顔で気絶している江様をひと睨みし、そのまま庭へ走り出た。
「こ、こちらです。裏門から出て道なりに進めば、繁華街へ出られます! 多少の物音では、お嬢様の部屋へは近づくなと言われていますから、邸のものは誰も来やしません」
妙香さんの案内で、わたしを抱えたまま思阿さんは裏門へ急いだ。
裏門を出る際、妙香さんが心配そうに思阿さんに尋ねた。
「思阿さん……。お嬢様は永庭さんと……、無事に県城を出られたのでしょうか?」
「はい……。美珊さんも、『お嬢様のいないお邸にいる意味はない』と言って、お二人と一緒に行かれました。最後まで、あなたのことを気にかけていましたよ。あなたは、この後どうするおつもりですか?」
「わたしは、裏門の手前で倒れていることにします。何か聞かれたら、お嬢様を連れ去った見知らぬ男を追いかけたけれど、当て身を食らって気絶したと話すつもりです。
わたしも近いうちにお邸を出るつもりです。美珊さんもわたしも、この邸を追い出されるように輿入れさせられるお嬢様を、ずっとおいたわしく思っておりました。
お嬢様さえお幸せなら、それでいいのです。もうお目にかかれないのが残念ですが……」
妙香さんに礼を言い、裏門を出たところで、ようやく思阿さんはわたしを下ろしてくれた。
思阿さんは、雪莉様に着せたわたしの服や行李が入った布包みを肩から下ろして、わたしに差し出した。
「深緑さん、あ、あの……、さすがに、その格好では繁華街に連れて行けません。いつもの服に着替えてもらえますか?」
「えっ? そ、そうなんですか? わ、わかりました!」
わたしは、雪莉様の夜着を着ていたのだけど、よくよく見れば、胸元が少しはだけて下着がのぞいているし、薄くてひらひらしているし、とても、昼間、町中に行く服装ではないことに気づいた。
急に恥ずかしくなり、路地に置かれた荷車の陰に隠れて、大急ぎで着替えた。
路地の入り口で、思阿さんが見張っていてくれた。
たびたび、ありがとうございます!
「すみませんでした。これで、大丈夫ですか?」
わたしが、いつもの格好に戻って出て行くと、思阿さんがホッとした顔をして笑った。
その笑顔を見たら、わたしもやっと安心することができて――。
―― グルギュルグル……ギュルウウウーンッ……。
◇ ◇ ◇
「あの木戸の所に、永庭さんが待っていてくれました。すぐに中へ入れてくれたので、例の白薔薇の所へ行きました。美珊さんが持っていた鋏で雪莉様が一枝だけ切り取り、永庭さんに差し出したんです」
「あの、雪莉様は、な、何と言って差し出したんですか?」
「……え、お、俺には言えませんよ……。と、とにかく、永庭さんが受け取ると、薔薇の花がたちまち赤色に染まったんです! そばにいた水昆さんも驚いていました」
ここは、昨日、雪莉様と会った、月季庭園近くの茶館だ。
思阿さんとわたしは、少し遅い昼餐をとっていた。
もちろん、今日は個室でなく一階の卓を囲む席で。
月季庭園での様子を、思阿さんから聞き出しているところなのだけど……。
「そ、それで、薔薇を受け取った永庭さんは、どんなことを言ったのですか?」
「……、そ、それも、俺には言えません……」
「もうっ! 言えないことばかりじゃないですか! 恥ずかしがってないで、教えてくださいよ!」
「勘弁してください! お二人の思いは通じ合いました。深緑さんの目論見通り、新天地を目指して県城を出て行きました――。それで、いいですか?」
思阿さんは、わたしの問いかけに顔を赤くして、汗を拭う仕草をしながら答えていた。もう、一番いい場面のことを教えてくれないんだから!
たぶん、二人は、まわりが恥ずかしくなるぐらい親密になって、旅立っていったのだろう。
だって、白い薔薇は、迷いや不安を乗り越える「真実の愛」を、永庭さんに自覚させてくれたはずだから――。
美珊さんが付いていったのは想定外だったけど、かえって良かったかもしれない。
彼女がついていれば、周りが見えなくなっている二人でも、何とか無事に旅を続けていけるわよね。
「永庭さんのご両親は、許してくれたのですか?」
「ええ。水昆さんは、ずっと前から永庭さんの気持ちに気づいていたのかもしれません。奥さんと一緒に、船着き場へ永庭さんたちを見送りに来ました。旅の支度を整えてくれて、荷物やお金も渡していたようです。あとは、深緑さんの紹介状が、役に立つといいですね」
「役に立ちますよ、きっと! そんなに遠くない将来、永庭さんは、大きな仕事を任される園丁になるはずです」
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
「だって――」
だって……、夢に見たんだもの! いろいろなことが、みんな上手くいった夢――。
もちろん、思阿さんにからかわれるから、それは言えない……。
わたしは、誰かと一緒に、永庭さんと雪莉様を訪ねていくのだけど、あの人はいったい――。
さっきの答えの続きを待って、思阿さんがわたしをじっと見つめていた。
何だか胸がドキドキしてきて、わたしは、急いで饅頭を手に取るとかぶりついた。
口いっぱいの饅頭を、ごくりと飲み込んでから、わたしは言った。
「だって、一人で県令様のお邸の薔薇園を手入れしていたんですよ。それって、若くても腕は確かだってことでしょう? わたしが紹介状を書いた方々は、優れた眼力をお持ちの方ばかりだから、永庭さんの才能にも必ず気づいてくださると思います」
「そうか! 確かにそうですね! うん、深緑さんの言うとおりです!」
昼餐を終えたわたしたちは、月季庭園の近くの市で、薬水屋を開くことにした。
県令様のお邸では、雪莉様が何者かに連れ去られたと、今頃大騒ぎになっているはずだ。
だから、雪莉様の行方を追って、県令様の使用人や私兵たちが、町中をうろうろしているかと思ったのだが、そうした気配はまったくなかった。
人々で賑わっている庭園のまわりにも、それらしき人の姿は見られなかった。
「まさか、まだ雪莉様がいなくなったことに気づいていない、なんてことはないですよね?」
「いくらなんでも、そんなことはないでしょう。深緑さんが叩きのめした許嫁の男も、気がついた頃だろうし――。俺が、ちょっと様子を見に行ってきますよ。船着き場や紅姫廟のあたりに、何か噂が広がっていないか調べてきます」
「あの、わたし、江様を叩きのめしたりしてませんけど――」
「えっ?! あの男、白目をむいて倒れていたじゃないですか?! 深緑さんが、叩きのめしたんでしょう? あの部屋には、ほかに誰もいませんでしたし――」
「あ、あの、うん……、はい……」
腰の虫籠が、カタカタと揺れている。実は、ここにいるお方が、犯人なんですけどね……。
半時ほどで戻ってくると言って、思阿さんは一人で出かけていった。
◇ ◇ ◇
思阿さんは、様々な場所を回って人々の話に耳を傾けてみたが、雪莉様についての噂を聞くことはなかったそうだ。
思阿さんとわたしは、先ほどの茶館の並びにある宿に泊まることに決め、簡単な晩餐を済ませた後は、それぞれの部屋へ引き上げた。
わたしは、虫籠から出てきた夏先生に、さっそく意見を聞いてみた。
「あの許嫁殿は、男と逃げた雪莉様には興味を失ったのじゃろう。婚礼は取りやめになり、県令殿からは謝罪金が支払われて、都へ戻ることにしたのではないかな? まあ、それはそれで、あいつにとっては好都合なことだったかもしれん」
「でも、老夏、県令様や奥様は、雪莉様をそのまま放ってはおかないのではないですか? 彼女は、大事な一人娘なのですよ」
「いやいや、どうせ見つけ出したところで、男と逃げたという噂が広がれば、もう良い輿入れ先は見つからんじゃろう。このまま、表向きは都の官吏に輿入れしたことにして、雪莉様のことは忘れ去るつもりなのさ。あの奥様にとっては、やっかいな荷物は、早く片付けてしまいたいだけじゃろうからな」
「やっかいな荷物――ですか……」
夏先生が言うとおり、県令様はともかく、奥様は、有力者とつながるための道具としての価値をなくした雪莉様なんて、どうなってもかまわないのかもしれないわね。
県令様は、奥様の尻に敷かれているようだから、このぶんなら、永庭さんと雪莉様は、追っ手を気にすることもなく、安心して旅を続けることができるだろう。
「さて、深緑よ。そろそろ、ここでの務めを果たしてもいいのではないかな? おぬし、あの白い薔薇に恩義を感じて、妙な情けをかけているのではあるまいな?」
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