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四粒目 結縁花 ~『恋は思案の外』の巻~

その五 朋友のために一肌脱ぎましょう! まずは作戦会議です!

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 雪莉シュエリー様に快癒水を少し飲ませ、よく心を落ち着けて、とにかくおかしなまねだけはしないようにと念を押しておいた。

 お祝いの言葉を言ったからといって、永庭ヨンティンさんが、雪莉様にまったく関心がなかったということにはならないと思う。
 県令様のお嬢様と園丁という身分の違いを考えれば、たとえ永庭さんが雪莉様に恋情を抱いていたとしても、はっきりとそれを言えるわけがないのだ。
 ましてや、輿入れが決まったことを本人から聞いてしまったのだから、なおさらだろう。

「乗りかかった船ですから、わたしが何か算段をします。雪莉様は、表向きは穏やかに輿入れの準備をすすめていてください。わたしは、紅姫廟ホンチェンびょうの宿坊に泊まっていますので、何かあればそこへ使いをよこしてください」
「わかったわ……。深緑シェンリュさん、いえ、深緑とあえて呼ぶわ。あなたは、わたしにとって、初めてできた朋友なの。どうか、わたしに力を貸してちょうだい」

 涙で潤んだ瞳が、ひたと、わたしに向けられていた。
 お嬢様の朋友として、全力を尽くしますとも! 死んだふりをする薬なんて、必要ありません! たぶん……。

 部屋の扉を開けると、階段のそばに美珊メイシャンさんと妙香ミャオシァンさんが、立って待っていた。侍女として、雪莉様から離れるわけにはいかなかったのだろう。
 呼び寄せて、雪莉様に薬水を与えたことを伝え、後は家でゆっくり休ませて欲しいと頼んだ。
 二人は、わたしに礼を言い、給仕人とともに雪莉様の元へ戻って行った。
 
 で、思阿シアさんは、というと――。
 茶館の一階で、先ほど紅姫廟の前で繰り言を聞いてあげていたご老人と遭遇し、飲茶をご馳走になっていた……。一人だけ、ずるいですよ!
 わたしが階段を降りていくと、思阿さんは、とても嬉しそうな顔で立ち上がり言った。

「あっ、深緑さん! お話はすんだんですか? じゃあ、紅姫廟の宿坊まで戻りましょう。こちらの盛平シェンピンさんのお宅は酒楼で、廟の近くだそうです。戻るついでに、お宅までお送りすることになりました」

 そして、三人で廟に戻ってきたのだが、思阿さんは盛平さんを家まで送って行って――。
 半時近くたつけれど、戻ってこない!
 盛平さんのお宅、酒楼だって言ってたものね。こうなることは、わかっていたわよね……。
 もう、思阿さんたら! 戻ってきたら、ちょっと相談したいこともあったのに――。

 わたしは、帰り際に雪莉様からもらった揚げ菓子を懐から出して、廟の石段に座って食べることにした。
 カサカサと音がして虫籠の蓋が開き、緑色の頭がぴょこんと飛び出した。
 開いた口へ揚げ菓子のかけらを入れると、シャ先生は、嬉しそうに目を細めた。

「月季庭園の白い薔薇――。それは、天空花園から落ちた種から育ったものでしょうか? 老夏ラオシャは、どう思いますか?」
「怪しいとは思うが、妓楼での身請け話だけではな――。なんとも言えんのう」
「織物問屋の若夫婦は、とても上手くいっているようですし、店も繁盛していました。今のところ、あの花が悪さをしているようには見えません。凱利ワイリーが、花泥棒をした以外は――」

 ここに戻ってくる途中、少しだけ遠回りをして、織物問屋を覗いてみた。
 店は、人や荷物が盛んに出入りし、商売は上手くいっている様子だった。
 近所の人々にそれとなく聞いたところでは、若夫婦の評判も上々だ。

「うーん……。白い薔薇が花の色を変え、贈った相手に真実の愛が芽生えるという噂の真偽を、きちんと確かめる方法はないものかのう……」
「誰かが、自分が思う相手に、白い薔薇を手渡してみればいいわけですよね?」
「ああ、だが、妓女たちを巻き込んではならんぞ。収拾がつかないことになりそうじゃからな」

 何人もの妓女さんが同じ男の人を狙っているかもしれないし、奥様がいる方を振り向かせたい妓女さんがいるかもしれないものね。
 もし、白い薔薇の噂が真実だったとき、妓楼が大混乱になりそうな気がする……。

「わかっていますよ、老夏――。わたしは、雪莉様の願いを叶えるために、白い薔薇を使ってみてはどうかと思っているのです」
「お嬢様の深い想いに気づかない園丁を、白い薔薇で焚きつけようというのか?」
「そうですよ! 雪莉様の許嫁は、都の有能な官吏で、神童と言われたことがあるほど優秀で、家柄も立派な人なんです。そんな人物から雪莉様を奪い取るには、桁外れの恋情が必要なんじゃないでしょうか?」
「県令様のお嬢様の輿入れをぶち壊して、後々面倒なことにならんかのう?」
「大丈夫です! 恋情さえあれば、恐れるものはないはずです!」

 あれ? わたし、かなり雅文ヤーウェンに影響されているかも……。
 でも、雪莉様は、わたしを「朋友」だと言ってくれたのだから、力になってあげたい。
 白い薔薇はすぐに散ってしまうらしいから、二人を月季庭園で会わせて、そこで雪莉様が永庭さんへ薔薇を手渡せるようにするしかないわね。
 どうすれば、いいだろう――。

「ん? どうやら、底知らず殿がご帰館のようじゃぞ! わしは、引っ込ませてもらおうかの。また、あとでな、深緑!」

 そう言うと、老先生は、虫籠の中に入って蓋を閉めてしまった。
 廟の門から、思阿さんが誰かを抱えるようにして入ってくるのが見えた。
 誰かしら? 思阿さんに近い体格の男の人? あら、この人は――。

「深緑さん、遅くなってすみません。えっと、この人は――」
「道でつまずいたわたしを受け止めてくれた人――。月季庭園の水昆シュイクンさんの息子さんの永庭さんですよね?」
「そ、そうなんです。盛平さんの酒楼で出会ったのですが、何だか辛いことがあったらしくて、一人で飲みながら、ずっと泣いていて……。放っておけないので、一緒に店を出てきました。一人にするのは心配ですから、道士にお願いして宿坊に泊めていただこうと思います」
「まあ、それは大変でしたね……」

 思阿さんを手伝おうと思って、わたしが、永庭さんに近づいたときだった。
 永庭さんが、急に顔を上げ、左側から彼の体を支えていた思阿さんを振り払った。
 そして、いきなりわたしに抱きついてきた!

「ああ、あなただ! あなたに会いたかった! あなたを探していたんです!」
「わっ、やっ、す、すみません……、あの、な、なんか、人違いしているんじゃ……」
「庭園裏の茶館のそばで、わたしにぶつかった……、あれは、あなたでしたよね!」
「は、はい……」
「声を聞いてわかりました! ああ、夢のようだ! あなたにまた会えるなんて、もう離しません! あなたは、わたしのものだ!」
「あ、あの……、永庭さん……」
「わたしの名前を呼んでくれるのですか?! なんと、幸せなこ……、グフッ!」

 わたしを抱えていた腕が突然力を失い、気づけば永庭さんは、その場に伸びていた。
 むすっとした顔で、思阿さんが立っていた。えっ? その右手の形は――。

「大丈夫ですか、深緑さん? まったく、とんだ不届者です。飲んでいるときは泣いてばかりいたし、悪い奴とは思えなかったのですが――。酒に飲まれるなら、酒を飲むべきじゃありません! 目を覚ましたら、よく注意をしておきます」
「し、思阿さん……、永庭さんに、何を……」
「ああ、たいしたことはしていません。かるく手刀を打っただけです。薬水なんて飲ませることはないです。こいつは、俺が泊まっている宿坊に連れて行きます。少し早いですけれど、お休みなさい、深緑さん」
「お、お休みなさい……」

 思阿さんは、永庭さんを少し乱暴に引きずりながら、宿坊へ向かった。
 何が起きたのかよくわからなかったけれど、あとは、思阿さんに任せることにしよう。

 わたしも宿坊へ行こうと立ち上がったとき、階段の陰から人影が飛び出してきた。
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