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三粒目 黄金李 ~『貪欲は必ず身を食う』の巻~
その一 おやおや、早くも薬水の出番のようですね?
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我行日夜向紅海 楓葉蘆花秋興長 平淮忽迷天遠近 青山久與船低昂
「いい詩ですね。思阿さんが作ったのですか?」
「とんでもない! 蘇軾という大詩人の『出潁口初見淮山是日至壽州』という詩の一節です。季節は違いますが、船旅の気分に相通ずるものがあるなぁと思いまして――」
ふうん……。いちおう、詩の教養はあるのね。詩人の修行中というのは、嘘ではないのかも――。
でも、有名な詩人の詩なら、誰もが知っていて当然なのかもしれないし――。
「そう言えば、春霞楼での詩の教示、たった一回で終わってしまって残念でしたね」
「フフフ……、ご期待に添えなかったようですから、しかたありません。俺は、旅の詩や酒の詩が好きなのですが、芸妓たちからは、『愛する人を想う』とか『辛い別れを嘆く』とか、そういう詩はないのかときかれまして――。『あるかもしれないが、知らない』と言ったら、『もう来なくていいです』と断られました!」
「それは……、なんとも……、お気の毒なことでしたね」
思阿さんは、照れくさそうに笑いながら、頭を掻いている。
大きな体でそんなふうにされると、この人、本当に愛敬があるなぁって思えてきて――。
えっ? やだ! もう、雅文がおかしなことを言ったから……。
「へぇ? お兄さんは、詩人なんですか?」
舟の艪を操っている少年が、私たちの会話を耳にして声をかけてきた。
わたしたちは、河の船着き場で、そこまで乗ってきた大きな船を下りた。
次の目的地である層林という里まで、陸路で進もうと足ごしらえをしていたところ、この少年に出会った。
少年は、志勇と名乗った。
志勇は、水路を使って、層林から船着き場まで小舟で人を運んできたという。
帰りは、層林へ運ぶように頼まれた荷物をいくつか積んで行くが、二人ぐらいなら大丈夫だから、小舟に乗っていかないかと誘ってきた。
「一人につき、銅銭五枚」という料金で、交渉成立!
わたしたちは、歩かずに、彼の小舟で層林へ行けることになった。
「俺は、まだ修業中の詩人だ。諸州を巡って、詩作について学んでいる身なんだよ。まあ、今は、こちらの深緑さんの用心棒が本業だけどね」
「へぇ? じゃあ、そっちのお姉さんは、用心棒を雇えるようなお金持ちってわけかい?」
「そんなことありません! 縁あって、お金持ちの方が用心棒代を出してくださっただけです。わたしは、しがない旅の薬水売りです」
「薬水売り? 本当かい?! 咳がおさまる薬水も持っているかい?!」
聞けば、志勇の姉は、一昨日から咳が止まらなくて苦しんでいるという。
層林には、医師はいないので、古老に分けてもらった煎じ薬を呑ませるぐらいしか、できることはないそうだ。
「姉さんは、働き過ぎなんだよ。今日は休めって言ったんだ。でも、咳をこらえながら、地主の文様のところの畑の草取りに行ったよ。途中で倒れたりしてないか、おいら心配でさ――」
「わたしの薬水は、体の気の巡りを整えるものです。咳にも効くと思いますよ」
「本当に?! だったら船賃はいらないから、うちの姉さんに薬水を分けておくれよ!」
「わかりました。里に着いたら、すぐにお姉さんのところへ行きましょう」
またまた、薬水の効能を示す機会が、向こうから転がってきた。
志勇の姉の咳を止めてやることができれば、薬水売りとして里人からも認められる。
そうすれば、層林の里にも滞在しやすくなって、務めを果たすことも容易になるに違いない。
「志勇、良かったな。深緑さんの薬水はとてもよく効くから、姉さんの具合もじきに良くなるよ!」
「うん。深緑さん、よろしく頼みます」
志勇が、わたしに向かってお辞儀をした。
ありがとうございます、思阿さん! あなたの一言で、旅の小娘の信用度が高まりました!
これは、何としても、志勇の姉さんを快癒水で元気にしてやらなくてはね!
小舟は、さらに枝分かれした細い水路に入っていった。
同じような小舟が二艘もやってある、小さな船着き場が見えてきた。
岸には男の人が一人立っていて、こちらに手を振っていた。
「あっ、友德様だ! なんで、あんなところにいるんだろう? ……姉さんに何かあったのかな?」
志勇は、懸命に艪を漕ぎ、舟を岸に近づけた。
思阿さんが、綱を岸に投げると、岸にいた男の人がそれを受け取り、舟を船着き場へ引き寄せた。
「志勇、大変です! 静帆が、畑で倒れました! 今さっき家に運び、煎じ薬を飲ませて休ませました。荷物は、わたしが何とかしますから、おまえは早く家に帰って静帆を看てやりなさい!」
「は、はい! あ、ありがとうございます、友德様!」
「うむ。早く行くのです!」
思阿さんとわたしは、船に積まれていた荷物を男の人に渡し、岸に上げてもらった。
男の人は、近くの家から荷車を借りてきて、そこに荷物を全部乗せた。
船から降りたわたしたちをそこに残し、荷車を引いてどこかに行ってしまいそうだったので、わたしは慌てて声をかけた。
「えぇっと……、友德様……でしたっけ? あの、わたしは、旅の薬水売りで深緑と申します。こちらは、わたしの連れの思阿さんです。静帆さんというのは、志勇のお姉さんですよね? わたし、さっき志勇と、具合の良くないお姉さんに薬水を分けてあげる約束をしたんです。
志勇の家まで、案内していただけませんか?」
「旅の薬水売り? それは、まことですか?」
「えっ、……あっ、は、はい……、えっ、きゃあ!」
友德様は、わたしを抱え上げると、どさっと荷車の上に下ろした。
「お連れの方、思阿さんと申されましたか? ……後ろから荷車を押してください! 荷物と一緒に深緑さんも、姉弟の家まで運ぶことにしましょう。さあ、行きますよ!」
友德様は、ぐいぐい荷車を引っ張る。負けじと、思阿さんがぐいぐい荷車を押す。
土埃を立てながら、信じられないような速さで、荷車は里の門へ向かって進んでいく。
あのう……、ちょっと、そのう……、おしりがとっても痛いんですけどおー!
「いい詩ですね。思阿さんが作ったのですか?」
「とんでもない! 蘇軾という大詩人の『出潁口初見淮山是日至壽州』という詩の一節です。季節は違いますが、船旅の気分に相通ずるものがあるなぁと思いまして――」
ふうん……。いちおう、詩の教養はあるのね。詩人の修行中というのは、嘘ではないのかも――。
でも、有名な詩人の詩なら、誰もが知っていて当然なのかもしれないし――。
「そう言えば、春霞楼での詩の教示、たった一回で終わってしまって残念でしたね」
「フフフ……、ご期待に添えなかったようですから、しかたありません。俺は、旅の詩や酒の詩が好きなのですが、芸妓たちからは、『愛する人を想う』とか『辛い別れを嘆く』とか、そういう詩はないのかときかれまして――。『あるかもしれないが、知らない』と言ったら、『もう来なくていいです』と断られました!」
「それは……、なんとも……、お気の毒なことでしたね」
思阿さんは、照れくさそうに笑いながら、頭を掻いている。
大きな体でそんなふうにされると、この人、本当に愛敬があるなぁって思えてきて――。
えっ? やだ! もう、雅文がおかしなことを言ったから……。
「へぇ? お兄さんは、詩人なんですか?」
舟の艪を操っている少年が、私たちの会話を耳にして声をかけてきた。
わたしたちは、河の船着き場で、そこまで乗ってきた大きな船を下りた。
次の目的地である層林という里まで、陸路で進もうと足ごしらえをしていたところ、この少年に出会った。
少年は、志勇と名乗った。
志勇は、水路を使って、層林から船着き場まで小舟で人を運んできたという。
帰りは、層林へ運ぶように頼まれた荷物をいくつか積んで行くが、二人ぐらいなら大丈夫だから、小舟に乗っていかないかと誘ってきた。
「一人につき、銅銭五枚」という料金で、交渉成立!
わたしたちは、歩かずに、彼の小舟で層林へ行けることになった。
「俺は、まだ修業中の詩人だ。諸州を巡って、詩作について学んでいる身なんだよ。まあ、今は、こちらの深緑さんの用心棒が本業だけどね」
「へぇ? じゃあ、そっちのお姉さんは、用心棒を雇えるようなお金持ちってわけかい?」
「そんなことありません! 縁あって、お金持ちの方が用心棒代を出してくださっただけです。わたしは、しがない旅の薬水売りです」
「薬水売り? 本当かい?! 咳がおさまる薬水も持っているかい?!」
聞けば、志勇の姉は、一昨日から咳が止まらなくて苦しんでいるという。
層林には、医師はいないので、古老に分けてもらった煎じ薬を呑ませるぐらいしか、できることはないそうだ。
「姉さんは、働き過ぎなんだよ。今日は休めって言ったんだ。でも、咳をこらえながら、地主の文様のところの畑の草取りに行ったよ。途中で倒れたりしてないか、おいら心配でさ――」
「わたしの薬水は、体の気の巡りを整えるものです。咳にも効くと思いますよ」
「本当に?! だったら船賃はいらないから、うちの姉さんに薬水を分けておくれよ!」
「わかりました。里に着いたら、すぐにお姉さんのところへ行きましょう」
またまた、薬水の効能を示す機会が、向こうから転がってきた。
志勇の姉の咳を止めてやることができれば、薬水売りとして里人からも認められる。
そうすれば、層林の里にも滞在しやすくなって、務めを果たすことも容易になるに違いない。
「志勇、良かったな。深緑さんの薬水はとてもよく効くから、姉さんの具合もじきに良くなるよ!」
「うん。深緑さん、よろしく頼みます」
志勇が、わたしに向かってお辞儀をした。
ありがとうございます、思阿さん! あなたの一言で、旅の小娘の信用度が高まりました!
これは、何としても、志勇の姉さんを快癒水で元気にしてやらなくてはね!
小舟は、さらに枝分かれした細い水路に入っていった。
同じような小舟が二艘もやってある、小さな船着き場が見えてきた。
岸には男の人が一人立っていて、こちらに手を振っていた。
「あっ、友德様だ! なんで、あんなところにいるんだろう? ……姉さんに何かあったのかな?」
志勇は、懸命に艪を漕ぎ、舟を岸に近づけた。
思阿さんが、綱を岸に投げると、岸にいた男の人がそれを受け取り、舟を船着き場へ引き寄せた。
「志勇、大変です! 静帆が、畑で倒れました! 今さっき家に運び、煎じ薬を飲ませて休ませました。荷物は、わたしが何とかしますから、おまえは早く家に帰って静帆を看てやりなさい!」
「は、はい! あ、ありがとうございます、友德様!」
「うむ。早く行くのです!」
思阿さんとわたしは、船に積まれていた荷物を男の人に渡し、岸に上げてもらった。
男の人は、近くの家から荷車を借りてきて、そこに荷物を全部乗せた。
船から降りたわたしたちをそこに残し、荷車を引いてどこかに行ってしまいそうだったので、わたしは慌てて声をかけた。
「えぇっと……、友德様……でしたっけ? あの、わたしは、旅の薬水売りで深緑と申します。こちらは、わたしの連れの思阿さんです。静帆さんというのは、志勇のお姉さんですよね? わたし、さっき志勇と、具合の良くないお姉さんに薬水を分けてあげる約束をしたんです。
志勇の家まで、案内していただけませんか?」
「旅の薬水売り? それは、まことですか?」
「えっ、……あっ、は、はい……、えっ、きゃあ!」
友德様は、わたしを抱え上げると、どさっと荷車の上に下ろした。
「お連れの方、思阿さんと申されましたか? ……後ろから荷車を押してください! 荷物と一緒に深緑さんも、姉弟の家まで運ぶことにしましょう。さあ、行きますよ!」
友德様は、ぐいぐい荷車を引っ張る。負けじと、思阿さんがぐいぐい荷車を押す。
土埃を立てながら、信じられないような速さで、荷車は里の門へ向かって進んでいく。
あのう……、ちょっと、そのう……、おしりがとっても痛いんですけどおー!
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