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二粒目 美貌蔓 ~『美人というのも皮一重』の巻~

その八 天女は、竹垣の中でこっそり秘密のお仕事に励みます!

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「トゥオーッ!」

 見た目からは想像もできない荒々しい雄叫びとともに、小さな緑色の塊が、虫籠から飛び出し男の顔にぺたりと張り付いた。
 シャ先生ったら、なんて大胆なことを!
 何が起きたかよくわかっていない男は、自分の顔を叩いたりこすったりしている。
 夏先生は、男の手を器用によけながら、男の頭や服の上を、ぺたぺたと跳ね回っていた。

 わたしは、男の足元に駆け寄り、肥やしの入った手桶を掴むと、じたばたしている男の頭に、力一杯たたきつけた。夏先生は、間一髪で桶を避け、わたしの懐に飛び込んだ。こらこら!
 わたしは、肥やしまみれになってふらついている男に体当たりして、竹垣の入り口から押し出した。
 入り口の木戸を閉め、その辺りにあった棒を閂のようにして、外から入れないようにした。
 
 わたしたちの騒ぎを聞きつけたのだろう。にわかに竹垣の外が騒がしくなった。
 男たちの争う声や呻く声に混じって、なぜか、「深緑シェンリュさーん!」とか「どこにいるのでーす?!」とか叫ぶ声が聞こえた。
 えっ?! もしかして思阿シアさん?! ど、どうして、ここに?!
 とにかく、わたしがここにいることを伝えておかなくては!

「思阿さん! わたしは無事でーす! やっかいなものを見つけたので、薬水で始末していますー! 竹垣の中へは誰も入れないでくださーい、いいですかー?」
「わかりましたーっ!!」

 わたしの呼びかけが届いたのだろう。
 竹垣の向こうから、ものすごく気合いが入った返事が聞こえてきた! これでよし!
 わたしは、行李から柄杓を取り出し手に持つと、瓜の株元に向かって振り上げた。
 
 伸びた柄杓から溢れた天水が、細かな金色の飛沫となって瓜の株を覆う。
 竹垣の中を舞うように移動しながら、柄杓を振って天水を撒き、瓶の中にもたっぷり注いだ。
 天水がかかったところから、萌葱色の炎が生じ、炎の中で瓜の蔓が怪しくおごめく。
 白い実を守ろうとするように、大きな葉がわたしに覆い被さってきた。
 それをかき分け、白い実にも天水をかける。

 まただ! 瓜の蔓や根から発せられる悲鳴……。子どもである白い実を奪わないでという叫び……。
 ごめんなさい……。せっかくここまで大きくなったのに……。
 でも、ここは、あなたの本当の居場所じゃないの……。
 人間界ここにいても、悲しみを生み、憎しみを向けられるだけ……。
 天へ戻してあげるから、次こそ天の花園でみんなに愛でられる花になりなさい!

 萌葱色の炎に包まれた株元に、明るく優しく光る小さな粒が見える。
 あれこそが、この瓜の種核だ。
 わたしは、柄杓を頭上に掲げ、種核を天へ返すため、祈りの言葉を唱えた。

「かい・ちょう・かん・ぎょう・ひつ・ほ・ひょう! なれ、天の庭のものならば、天の庭へ!」

 萌葱色の炎が揺らめきながら上へと伸びる。
 いつの間にか頭上に広がった夜空に浮かび上がったのは、煌めく七つの星。
 その二番目の星、天璇がひときわ明るく輝くと、瓜の種核と天璇は光の糸で結ばれた。
 光の糸に導かれ,種核は天璇に向かって上昇を始めた。

 わたしは、柄杓を懐にしまい、じっと天へ昇る種核を見つめていた。
 最後は天璇に溶け込むようにして、種核は消えた。
 しばらくの間、七つの星はそこで輝いていたが、やがてどこかに流れるように姿を消した。
 竹垣の中には、金色に輝く水を湛えた、幾本かの瓶だけが残されていた。

 ―― バリバリッ バリッメリッ メリメリ……
 
 振り返ると、閂をはじき飛ばし、扉を壊して飛び込んできた思阿さんと目が合った。
 うわっ! また、手加減せずにやっちゃったんですね? 
 竹垣の外には、ざっと数えただけでも、十人以上の男の人が倒れて呻いていた……。

「深緑さん、大変です! 土台が揺らいで秋桂楼が、傾き始めました。もうすぐ倒壊します! ここも、危ないかもしれません!」
「えっ?! そ、そんなことに?!」
「さぁ! 早く、外に出ましょう!!」
「ま、待って、あの瓶を――」
「一本でいいですか?! 俺が持って出ますから、深緑さんは先に!」

 思阿さんに押されるようにして、わたしは潜り戸へ走り秋桂楼から離れた。
 繁華街は大騒ぎになっていた。
 庭の方へ大きく傾いた秋桂楼から、客や芸妓が逃げ出し道に溢れていた。
 やがて、提灯を揺らし、屋根瓦を飛び散らせ、秋桂楼はほこりを舞い上げて崩れ落ちた。
 秋桂楼を遠巻きにして眺めていた人々から、大きな響めきが起こった。

「す、すごい……、におい、ですね……」

 瓶を抱えてわたしの隣に立った思阿さんが、鼻を押さえながら小さな声で言った。
 そうね、さすがにこれだけ大きな建物が一気に倒れると、においもすごいもので……。
 えっ?! におい?! 建物は、別に、におっていないと思いますが……。
 におっているのは……、わたし?! 手桶から飛び散ったこやしを浴びた、わ・た・し・よ!

 わたしは、ダーッと走り、急いで思阿さんからも人混みからも離れた。
 懐の奥で、「グゲッ ゲロッ」と夏先生が苦しげに呻いた。まだ、そこにいたんですか?!
 
 ◇ ◇ ◇

 種核から育った瓜の根は、美音さんが言っていたとおり、秋桂楼の敷地全体の地中に広がり、水を吸い上げていたようだ。
 瓜が消滅したことで、地中に空洞ができて地盤が緩み、妓楼は倒れてしまったのだった。

 妓楼自体がなくなってしまったので、妓楼組合が話し合うまでもなく、秋桂楼の廃業は決まった。
 芸妓たちは、別の妓楼に移るか故郷へ帰ることになった。
 芳菊さんは、生まれ故郷の村へ戻ることを選んだ。

 わたしは、思阿さんが持ち出した瓶に溜まっていた金色の水に、少しだけ快癒水を垂らし、芸妓たちにそれで顔を洗わせた。思った通り、芸妓たち全員の顔を元に戻すことができた。
 いや、芸妓たちによれば、美貌の痕跡のようなものが、どの顔にも微かに残されたらしい。
 それは、彼女たちを美貌水で惑わせた瓜による贖罪だろう、と夏先生は感慨深げに言った。

 秋桂楼の楼主や使用人たちは、捕吏に捕縛され、妓楼倒壊の件だけでなく、芸妓の待遇や他の妓楼への嫌がらせなどについても調べられることになった。
 その結果、楼主が、瓜を育てるために、春霞楼だけでなく、水が良く湧く井戸を持つほかの妓楼や茶館にも、良からぬ企みをしていたことが明らかになった。

 しかし、瓜の本体が消えてしまったので、美貌水に関することについては、結局うやむやになった。秋桂楼の庭で騒ぎを起こしたわたしや思阿さんが、役所に呼ばれることもなかった。

 秋桂楼の芸妓から聞いた話では、楼主は、たまたま庭に生えた瓜の芽を世話していて、糸瓜のように蔓から水を得ることを思いついたらしい。
 はじめは、芸妓たちを喜ばせようと、単なる美容水として渡していたのだろう。
 これもまた、天の種核が人の欲望につけ込み、その心を惑わせた末に起きたことなのかもしれなかった。

 ◇ ◇ ◇

 秋桂楼の倒壊事件から、五日が過ぎようとしていた。
 あれから、思阿さんは、妓楼組合の人たちと一緒に、毎日、秋桂楼の片付けや見回りをしていた。
 詩作の手ほどきは、なぜか芸妓たちに断られてしまい、二回目は行われなかった。やっぱり、詩とは別の修業が必要なのかもしれないわね……。

 わたしは、春霞楼に出かけて、倒壊に巻き込まれて怪我をした人に薬水を届けたり、故郷へ帰るという秋桂楼の元・芸妓たちの支度を手伝ったりしていた。

 そして、後始末もあらかた終わり、明日はいよいよ、わたしたちも普斎を出発するという日の晩――。
 春霞楼の離れで、三人だけでの晩餐を終えたとき、学亮さんはいつにもまして真剣な表情で、胸に秘めていた願いを口にしたのだった。

「深緑さん、そして、思阿さん。いろいろとお手伝いいただき、ありがとうございました。」
「こちらこそ、長々と逗留させていただき、ありがとうございました」
「それで――、この期に及んで何を図々しいことを、と思われるのを承知でお願いするのですが、……お持ちの薬水で、美音の目を治していただくわけにはいかないでしょうか?」
「えっ? 美音さんの?」

 折しも、開け放たれた妓楼の窓から、美音さんが宴席で奏でる古箏の涼やかな音が、夜風に乗って聞こえてきた。

「はい。わたしは、太学たいがくで医学を学んでいます。幼い頃から一緒に育ってきた美音の目を、いつか自分の手で見えるようにしたいと思い、医学の道へ進みました。
学べば学ぶほど、それは難しいことであるとわかってきました。それでも、家に戻るたび美音には、『いつか、わたしが必ず見えるようにする』と言い続けていました。
船着き場で、深緑さんの薬水をいただき、自分の目がよく見えるようになったとき、もしかしたら、この薬水で美音の目も治せるのではないかと思いました――。
誓いも果たせず、他力にすがろうとする情けない男です。しかし、何としても美音の目を見えるようにしたいのです。お力を貸していただけませんでしょうか?」
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