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一粒目 溺酒蘭 ~『酒は愁いの玉箒』の巻~
その六 蔵の中って秘密めいていて……ほら、危険!
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わたしは、酒器と盃を籠に入れて、丘の上の李の木に向かって走っていた。
木の下に座る人影は、あの人だ。
急がなくちゃ! 寝坊をして約束の時刻に遅れてしまったのだもの……。
それなのに、足がもつれて転んでしまった。酒器に入れたお酒の香りのせいね……。
あの人が走ってきてくれた。そして、わたしの肩に手を載せて――。
◇ ◇ ◇
「おい! えぇっと、名前は確か……、深緑って言ってたよな……、深緑さん! おい! 起きてくれ!」
「えっ? ……あっ、は、はい……。あれっ?」
ここは……、ああ、蘭花楼か……。
仕込みの手伝いをしていたら、みんなが酔って、昼寝を始めて……、わたしも、つい……。
えっ?! やだ?! 店の中には、誰もいない! な、何が起きたの?!
「あの、お、お客さんたちは、ど、どうしたんですか? あ、あんなに、たくさんいたのに――」
「昼寝から目を覚ましたと思ったら、どういうわけか、みんな勘定を済ませて帰っちまったのさ! まだ、蘭花酒は、残っているんだけどなあ……。俺にも、何が起こったのかよくわからん。この分だと、これから来る客もいないだろうな。というわけで、あんたの仕事も、今日はこれで終わりだ。少ないけど、今日の給金だよ」
俊龍が、銅銭を三枚渡してきた。
これが「銭」というものね! 人間界では、これと引き替えにいろいろな物が手に入るのだ。
そんなに美しい物ではないけれど、これが欲しくて、悪事に手を染める者もいるそうだ。
わたしは、銅銭を虫籠の中へ入れた。チャリンチャリンときれいな音がした。
老夏、わたしがはじめて稼いだ銭ですよ! 本物ですよ! よく見てくださいね!
玉蘭と美蘭は、どこかに出かけているのか姿が見えなかった。
わたしは、俊龍に礼を言い、明日も来ることを約束して店をでた。
日が落ちかけていた。
人間界は物騒だ。
一人で夜道を歩いていると、大事な物をとられたり、さらわれたり、命を奪われたりすることもあるらしい。
そういえば、思阿さんは何処へ行っちゃったのよ?
肝心なときに、いないんだから!
危ない目に遭わないうちに、早く高家のお邸に帰ろう!
わたしが歩き始めるとすぐ、虫籠の蓋が動いて、夏先生が顔を出した。
「どうしたのですか、老夏?」
「どうもこうも、深緑よ、おぬしは、どうして蘭花楼にとどまらないのだ?」
「えっ? だって、もうお客は一人もいませんし、この後も来ないだろうと俊龍が言っていました。わたしが蘭花酒に混ぜ込んだ快癒水が、効いたのかもしれません。明日の朝になれば、はっきりするはずですから、今夜はもう、お邸へ帰っていいのではないでしょうか?」
「おぬしは、何も見ていなかったのか? わしは、籠から這い出してこっそり見たぞ!」
「見ていなかったって……、とても、いい夢なら見ましたが……」
「やっぱり、寝たふりではなく、本当に寝ておったのだな?!」
夏先生によると、客たちが全員眠ってしまった後、店の中に荷車が運び込まれたそうだ。
そこには、大きな蘭の鉢が積まれていたという。
「蘭には、白い蕾がいくつもついていた。店の中には、酔客が放つ甘酸っぱい臭いの呼気が満ちておったが、蘭が根からそれを吸い込んでいるようじゃったな。店の中の臭いが薄くなると同時に、蘭の蕾が桃色に変わっていったのじゃ。人間界にあのような不思議な花はない。あれは、間違いなく天のものじゃ!」
「蘭は、その後どうなったのですか?」
「玉蘭と美蘭が、店から運び出した。おそらく、裏庭にある蔵へ戻したのであろう」
そう言えば、昼寝をしてしまう前に、俊龍が「蔵」とか「鉢」とか言っていたわよね。
そうか、その蘭のことだったのか――。
「一粒目の種核が、見つかったということですね?」
「そういうことじゃ。高家に帰っている場合ではあるまい。務めを果たせ、深緑!」
「はい!」
わたしは、次の角で道を曲がり、こっそり蘭花楼の裏庭へ回り込むことにした。
家と家の間にある細い路地を抜けて、遠回りをしながら、ようやく店の裏庭へ出ることができた。
蘭花楼の裏庭には、小さな石の酒蔵があった。
扉が少しだけ開いていて、灯りが漏れている。
玉蘭と美蘭は、まだ中にいるのだろうか?
扉に近づき、そっと中を覗いてみた。
蘭花酒の独特な香りで、蔵の中はむせ返るようだ。
入り口近くには、大きな酒甕がいくつも並べられていた。
蔵の奥には、濃い桃色の花をつけた鉢植えの蘭が置かれていた。
玉蘭と美蘭が、蘭の前に座りこんで何かしていた。
よく見ると、花の唇弁と呼ばれる部分に、匙のような物を当て蜜を掻き出していた。
掻き出した蜜を、すぐ横にある酒甕に入れ、かき混ぜて酒に溶かしているようだ。
虫籠から出た夏先生が、わたしの耳元までよじ登ってきて囁いた。
「ここに落ちた種核は、蘭となって育ったのじゃな。あの蘭は、花から蜜を零し、その蜜を含んだ酒で人を酔わせ、酔った者が放つ呼気をおのれの養分として取り込む。あれは、酒を媒として、人間に寄生している花じゃ」
人に寄生する花……。おのれの蜜を使って、人を惑わせる怪しい蘭……。
わたしが、天水をかけ忘れたから、種核はとんでもないものに姿をかえてしまったんだ!
「はじめは小さな株で、店の仕切り台にでも飾ってあったのかもしれんな。偶然、零れた蜜が店の酒甕にでも落ちて、人を夢中にさせる魔酒が生まれたのじゃろう。俊龍というのは、なかなか商売上手な男のようじゃ。蘭の秘密に気づいて、商売に利用することを思いついたに違いない。
だいたいなあ、いくら昼寝をしたからといって、おぬしの働きを銅銭三枚で済まそうとは、図々し過ぎる!」
「えっ、そうなんですか? 初めて銭をいただけて、喜んでいたんですが――」
「知らぬというのは、恐ろしいことじゃな! 少なくとも倍はもらって良いはずじゃ!」
「ええっ?! そ、そんなぁ……」
思わず大きな声を出してしまい、わたしは慌てて口を押さえた。
しかし、気づいたときには遅かった!
「おい! そこで、何をしている! おっ! おまえ、シェ、深緑……、だな?! 今、誰かと話していただろう? 誰だ?! 何処に行った、そいつは?」
突然現れた俊龍に、恐ろしい顔でねめつけられ、両肩をがっちり掴まれてしまった。
夏先生は――、どこかに姿を隠したようだ。
ちょっと体をよじったはずみで、懐から快癒水の瓶がゴロンと地面に転げ落ちた。
俊龍は、素早く瓶を拾い上げると驚いた顔で言った。
「な、何だ? 快癒水? もしかして――、おまえなのか?! 今日は、高家の連中が、だれも店に来なかったから、おかしいなと思って聞き回ってきたんだよ。なんでも高家の婆さんが、妙な薬水売りを拾ってきて、家に逗留させているって話だった。
その薬水がえらく効いて、高家の旦那をはじめ、あそこの男連中は、もう蘭花楼の酒はたくさんだと言っているらしい。
深緑! おまえが、その薬水売りだったんだな? ということは、うちの店の酒甕にも、この薬水を混ぜやがったな?! どおりで、客がみんなさっさと帰っちまうわけだ!」
あわわわわわ……! 一から十まで、おおせのとおりなので、何も言い返せません!
肩を掴んでいた俊龍の指が、わたしの首にかかった。
ええっ?! やだぁっ! わたし、務めの途中で無残に殺されちゃうの?!
まだ、恋情も知らないのにーっ! 死にたくなーいっ!
思阿さーん! どこに行っちゃったのよーっ!
木の下に座る人影は、あの人だ。
急がなくちゃ! 寝坊をして約束の時刻に遅れてしまったのだもの……。
それなのに、足がもつれて転んでしまった。酒器に入れたお酒の香りのせいね……。
あの人が走ってきてくれた。そして、わたしの肩に手を載せて――。
◇ ◇ ◇
「おい! えぇっと、名前は確か……、深緑って言ってたよな……、深緑さん! おい! 起きてくれ!」
「えっ? ……あっ、は、はい……。あれっ?」
ここは……、ああ、蘭花楼か……。
仕込みの手伝いをしていたら、みんなが酔って、昼寝を始めて……、わたしも、つい……。
えっ?! やだ?! 店の中には、誰もいない! な、何が起きたの?!
「あの、お、お客さんたちは、ど、どうしたんですか? あ、あんなに、たくさんいたのに――」
「昼寝から目を覚ましたと思ったら、どういうわけか、みんな勘定を済ませて帰っちまったのさ! まだ、蘭花酒は、残っているんだけどなあ……。俺にも、何が起こったのかよくわからん。この分だと、これから来る客もいないだろうな。というわけで、あんたの仕事も、今日はこれで終わりだ。少ないけど、今日の給金だよ」
俊龍が、銅銭を三枚渡してきた。
これが「銭」というものね! 人間界では、これと引き替えにいろいろな物が手に入るのだ。
そんなに美しい物ではないけれど、これが欲しくて、悪事に手を染める者もいるそうだ。
わたしは、銅銭を虫籠の中へ入れた。チャリンチャリンときれいな音がした。
老夏、わたしがはじめて稼いだ銭ですよ! 本物ですよ! よく見てくださいね!
玉蘭と美蘭は、どこかに出かけているのか姿が見えなかった。
わたしは、俊龍に礼を言い、明日も来ることを約束して店をでた。
日が落ちかけていた。
人間界は物騒だ。
一人で夜道を歩いていると、大事な物をとられたり、さらわれたり、命を奪われたりすることもあるらしい。
そういえば、思阿さんは何処へ行っちゃったのよ?
肝心なときに、いないんだから!
危ない目に遭わないうちに、早く高家のお邸に帰ろう!
わたしが歩き始めるとすぐ、虫籠の蓋が動いて、夏先生が顔を出した。
「どうしたのですか、老夏?」
「どうもこうも、深緑よ、おぬしは、どうして蘭花楼にとどまらないのだ?」
「えっ? だって、もうお客は一人もいませんし、この後も来ないだろうと俊龍が言っていました。わたしが蘭花酒に混ぜ込んだ快癒水が、効いたのかもしれません。明日の朝になれば、はっきりするはずですから、今夜はもう、お邸へ帰っていいのではないでしょうか?」
「おぬしは、何も見ていなかったのか? わしは、籠から這い出してこっそり見たぞ!」
「見ていなかったって……、とても、いい夢なら見ましたが……」
「やっぱり、寝たふりではなく、本当に寝ておったのだな?!」
夏先生によると、客たちが全員眠ってしまった後、店の中に荷車が運び込まれたそうだ。
そこには、大きな蘭の鉢が積まれていたという。
「蘭には、白い蕾がいくつもついていた。店の中には、酔客が放つ甘酸っぱい臭いの呼気が満ちておったが、蘭が根からそれを吸い込んでいるようじゃったな。店の中の臭いが薄くなると同時に、蘭の蕾が桃色に変わっていったのじゃ。人間界にあのような不思議な花はない。あれは、間違いなく天のものじゃ!」
「蘭は、その後どうなったのですか?」
「玉蘭と美蘭が、店から運び出した。おそらく、裏庭にある蔵へ戻したのであろう」
そう言えば、昼寝をしてしまう前に、俊龍が「蔵」とか「鉢」とか言っていたわよね。
そうか、その蘭のことだったのか――。
「一粒目の種核が、見つかったということですね?」
「そういうことじゃ。高家に帰っている場合ではあるまい。務めを果たせ、深緑!」
「はい!」
わたしは、次の角で道を曲がり、こっそり蘭花楼の裏庭へ回り込むことにした。
家と家の間にある細い路地を抜けて、遠回りをしながら、ようやく店の裏庭へ出ることができた。
蘭花楼の裏庭には、小さな石の酒蔵があった。
扉が少しだけ開いていて、灯りが漏れている。
玉蘭と美蘭は、まだ中にいるのだろうか?
扉に近づき、そっと中を覗いてみた。
蘭花酒の独特な香りで、蔵の中はむせ返るようだ。
入り口近くには、大きな酒甕がいくつも並べられていた。
蔵の奥には、濃い桃色の花をつけた鉢植えの蘭が置かれていた。
玉蘭と美蘭が、蘭の前に座りこんで何かしていた。
よく見ると、花の唇弁と呼ばれる部分に、匙のような物を当て蜜を掻き出していた。
掻き出した蜜を、すぐ横にある酒甕に入れ、かき混ぜて酒に溶かしているようだ。
虫籠から出た夏先生が、わたしの耳元までよじ登ってきて囁いた。
「ここに落ちた種核は、蘭となって育ったのじゃな。あの蘭は、花から蜜を零し、その蜜を含んだ酒で人を酔わせ、酔った者が放つ呼気をおのれの養分として取り込む。あれは、酒を媒として、人間に寄生している花じゃ」
人に寄生する花……。おのれの蜜を使って、人を惑わせる怪しい蘭……。
わたしが、天水をかけ忘れたから、種核はとんでもないものに姿をかえてしまったんだ!
「はじめは小さな株で、店の仕切り台にでも飾ってあったのかもしれんな。偶然、零れた蜜が店の酒甕にでも落ちて、人を夢中にさせる魔酒が生まれたのじゃろう。俊龍というのは、なかなか商売上手な男のようじゃ。蘭の秘密に気づいて、商売に利用することを思いついたに違いない。
だいたいなあ、いくら昼寝をしたからといって、おぬしの働きを銅銭三枚で済まそうとは、図々し過ぎる!」
「えっ、そうなんですか? 初めて銭をいただけて、喜んでいたんですが――」
「知らぬというのは、恐ろしいことじゃな! 少なくとも倍はもらって良いはずじゃ!」
「ええっ?! そ、そんなぁ……」
思わず大きな声を出してしまい、わたしは慌てて口を押さえた。
しかし、気づいたときには遅かった!
「おい! そこで、何をしている! おっ! おまえ、シェ、深緑……、だな?! 今、誰かと話していただろう? 誰だ?! 何処に行った、そいつは?」
突然現れた俊龍に、恐ろしい顔でねめつけられ、両肩をがっちり掴まれてしまった。
夏先生は――、どこかに姿を隠したようだ。
ちょっと体をよじったはずみで、懐から快癒水の瓶がゴロンと地面に転げ落ちた。
俊龍は、素早く瓶を拾い上げると驚いた顔で言った。
「な、何だ? 快癒水? もしかして――、おまえなのか?! 今日は、高家の連中が、だれも店に来なかったから、おかしいなと思って聞き回ってきたんだよ。なんでも高家の婆さんが、妙な薬水売りを拾ってきて、家に逗留させているって話だった。
その薬水がえらく効いて、高家の旦那をはじめ、あそこの男連中は、もう蘭花楼の酒はたくさんだと言っているらしい。
深緑! おまえが、その薬水売りだったんだな? ということは、うちの店の酒甕にも、この薬水を混ぜやがったな?! どおりで、客がみんなさっさと帰っちまうわけだ!」
あわわわわわ……! 一から十まで、おおせのとおりなので、何も言い返せません!
肩を掴んでいた俊龍の指が、わたしの首にかかった。
ええっ?! やだぁっ! わたし、務めの途中で無残に殺されちゃうの?!
まだ、恋情も知らないのにーっ! 死にたくなーいっ!
思阿さーん! どこに行っちゃったのよーっ!
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