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一粒目 溺酒蘭 ~『酒は愁いの玉箒』の巻~

その四 「蘭花楼酔っ払い男救出作戦」を開始いたします!

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 翌朝――。
 柔らかな朝の光が、寝台まで差し込んできた。
 ああ、よく寝た。で、ええっと、ここは……。そうそう、高様のお邸……だったっけ。
 厨房では、朝餉の支度が始まっているらしく、煮炊きの音が中庭の向こうから聞こえてくる。

 ―― グルギュルグル……ギュルウウウーンッ……。

 あーあ、また派手に鳴っちゃった……。
 枕元に置いた虫籠が、ぐらりと揺れて倒れ、蓋を押し開けながらシャ先生が出てきた。
 前足で、目のあたりを何度もくりくりとこする姿が、とても愛らしい。

「おはようございます、老夏ラオシャ!」
「おはようございます、……じゃないわい! おぬしの腹の音、どうにかならんのか! 良い心持ちで寝ておったのに……、今日こそは、好き嫌いを言わずしっかり腹を満たせよ!」
「は、はい、心がけます……」

 わたしは、寝台を降りて身支度を整えると、腰に虫籠をぶら下げた。
 しばらくすると、侍女の心果シングォさんが、すすぎの水を桶に入れて運んできた。

「朝餉は、ご隠居様のお部屋に用意してございます。奥様も、そちらでご一緒にお召しあがりになるとのことです。深緑シェンリュ様のご準備がすみましたらご案内いたします」
「わ、わかりました!」

 お二人をお待たせしてはいけないので、急いで手と顔を洗い、手ぬぐいでふいた。
 お腹にぐっと力を入れて、不作法なことにならないように気をつけながら、わたしは心果さんにいざなわれて、燕紅ヤンホン様のお部屋へ伺った。

 燕紅様のお部屋は、お邸の東側の奥にあった。
 広く明るいお部屋で、凝った意匠の調度品や上質な敷物などが、さりげなく置かれていた。
 お部屋の鳥籠では、黄蘗きはだ色の鳥が一羽飼われていて、愛らしい声で鳴いていた。

 鳥の声を聞くと、腰の虫籠の中で、夏先生がぴょこっと跳ねた。
 蛙をうらやましいと思ったけれど、小さな生き物にとっては、この世界は危険だらけなのね。
 様々な不自由さを抱えてはいても、人間はまだ恵まれた生き物なのかも――。
 わたしは、人間に転じたことに、もう文句を言わないようにいたします、老夏!
 
 卓の上には、あぶった干し魚、漬け物などが、たくさん並べられていた。
 わたしが椅子に腰を下ろすと、早速、粥の椀が配られ朝餉が始まった。
 よおし、食べるぞぉー! 何でも口にして、人間界の食事に慣れなくてはね!

 ◇ ◇ ◇

「さてと――。では、昨夜の首尾について話しておくれ、淑貞シュウチェン

 侍女たちが朝餉の片付けを済ませ、部屋を出て行くと、燕紅様が淑貞様に尋ねた。

「はい、お母様。あの後、部屋の寝台で休んでいた安祥アンシャンどのをお起こしして、すぐに薬液を飲ませました。飲み終わると、安祥どのは、大きなため息をつかれて、その後はぐっすりと朝までお眠りになりました。いつものように、うなされたり寝言を繰り返したりすることもなく、安らかにお休みでした」
「今朝は、どうでしたか?」
「それが……、日の出とともに起き出し、庭園を一人で散策しておられました。お酒を望まれることもなく、たぶん今頃は、暁燕シャオヤンやほかの子どもたちと一緒に、部屋で朝餉をとっていらっしゃるはずですわ」
「深緑どのの薬水の効果は、明らかなようですね。あとは、蘭花楼の酒を欲するかどうかということですが――。せっかくそこまで落ち着いた安祥を、酒楼に連れ出して刺激するのも……」

 わたしは、頬張っていた饅頭まんとうを、無理矢理飲み込んで言った。

「ンググッ……、燕紅様! それについては、わたしに妙案がございます!」

 わたしは、夕べ、思阿シアさんに快癒水を飲ませたことや、『底知らず』の彼でも、すぐに効果が現れて、瞬く間に正気に返ったことを話した。

「思い切って、思阿さんを蘭花楼へ連れて行ってみようと思うのです。たいそうな酒好きであるらしいあの方が、蘭花楼の酒を我慢できるものかどうか確かめてみましょう。
昨晩は、店の酒甕さかがめが空になるほど飲んだ思阿さんが、もし蘭花楼に行っても飲まずにいられるようなら、快癒水の効果は本物ということになります。今度こそ、男の人たちが蘭花楼へ入り浸るのを止められるのではないでしょうか?」
「なるほど――。わかりました、深緑どの。ご苦労をかけますが、よろしくお願いいたします。思阿どのには申し訳ないが、我が家の食客ということでお手伝いいただきましょう」

 昨日は、安祥様は婿だからどうなってもいいようなことを言っていたが、燕紅様も内心では気にかけているのだ。そりゃあそうよね。なんだかんだ言っても、家族なんだから――。

 わたしは部屋に戻って、行李から快癒水の瓶を取り出した。
 不思議なことに、瓶の中身は、最初の量に戻っていた。
 おそらく、紅姫ホンチェン様が、天界から密かに注ぎ込んでくださっているのだろう。
 
 盃一杯分だけを残して、淑貞様から預かってきた瓶に快癒水を移した。
 快癒水で酔いが覚め、正気に戻ることは確かめられたので、お邸のほかの男の人たちにも、飲ませてみようということになったのだ。
 わたしは、ついてきた心果さんに瓶を託して、自分は、思阿さんの部屋を訪ねることにした。
 カサカサと音がして虫籠の蓋が開き、夏先生が顔を出した。

「のう、深緑。おぬし……、その、思阿どのに会うのが、恥ずかしいことはないのか?」
「恥ずかしい? どうしてですか?」
「いや、だって、おぬしは夕べ……。まあ、いい……。わかっていないなら、それでいいか……」

 思阿さんの部屋の前に着くや、夏先生は再び虫籠の中へ引っ込んでしまった。
 夏先生ったら、もごもごと言いよどんだりして……。何が言いたかったのかしら……。
 わたしが呼びかけると、扉が開き、思阿さんが顔を出した。

「ああ……ええっと、深緑……さん。おはようございます」
「おはようございます、思阿さん。ご気分はいかがですか?」
「とてもいい気分です。先ほどお邸の食堂へ行って、朝餉をいただいてきました。夕べは、かなり飲んだはずなのですが、不思議なくらい美味しく食べることができました」
「それは良かったです。では、早速出かけましょうか?」
「へっ?」

 わたしは、中庭へ思阿さんを連れだし、掻い摘まんで事情を説明した。

「蘭花楼は、そういう店だったのですか! あの店の酒は、何というか、癖になる飲み心地ではありましたが――。確かに、それは放っておけませんね。俺でお役に立てることでしたら、何なりとお申し付けください。あなたに力を貸しましょう」
「ありがとうございます。蘭花楼は、朝から店を開けているそうですから、今から行ってみたいのですが?」
「わかりました。お供します!」

 酔ってはいたが場所は覚えている、という思阿さんの案内で、わたしは蘭花楼へ向かった。
 何だか、ちょっとウキウキしていた。心が弾む――って、こういう感じなのかな? 
 お酒が飲めないわたしは、酒楼に行くのが嬉しいわけではないのだけどな……。

 こうして、じっと見ていると……。
 思阿さんの後ろ姿――、やっぱり、どこかで見たことがあるような気がするのよね……。

 ◇ ◇ ◇

 蘭花楼は、まだ店を開けていなかったが、店の前にはすでに人だかりができていた。
 様々な年齢の人が入り交じっていた。わたし以外、全員、男の人だったけれど――。
 ちょっと甘ったるい香りが店の扉からしみ出して、辺り一帯に漂っている。
 集まった人々は、一様にうっとりとした顔で入り口の方を見ていた。

 やがて、店の扉が開き、二人の美女が顔を見せると、人々は我勝ちに蘭花楼へ入っていった。思阿さんは、そんな男の人たちをあきれ顔で眺めていた。
 思阿さんたら、今日は、この香りに魅力を感じないのかしら?

「何だか嫌な気分になってきました。こんな時刻から酒を飲むなど、どうかしています」
「あ、あの、思阿さんは、ここの酒の香りをかいでも、もう飲みたいと思わないのですか?」
「ええ……。むしろ酒の香りで、胸がむかむかしてきました。深緑さんの薬水の効果でしょうか? 酒が嫌いになったわけではないと思いますが、ここの酒は、もう飲んではいけない気がするのです」

 やりましたよ! 燕紅様! 快癒水には、蘭花楼の酒の誘惑を退ける力もあるようです。

 気乗りがしない様子の思阿さんを引っ張って、店の入り口から中を覗いてみた。
 客の注文をとっている二人の美女が、燕紅様が言っていた、玉蘭ユーラン美蘭メイランの姉妹だろう。
 仕切り台の向こうにいる男が、二人の父親の梁俊龍リャンジュンロンに違いない。

 客の注文のほとんどが、この店独自の蘭花酒という酒で、つまみは、俊龍が適当に出しているようだ。
 楽しそうに話をしたり笑ったりしながら、皆、ひたすら酒を飲んでいる。

 さて、この大勢の酔っぱらいたちに、どうやって快癒水を飲ませましょうか……。
 ふと、店の扉に目をやると――。
 ふふん! いいものを見つけちゃいましたよ!!
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