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一粒目 溺酒蘭 ~『酒は愁いの玉箒』の巻~

その二 名家の婿殿は、毎日酔わずにはいられないようです!

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 しばらくの間、気まずい沈黙が客間を支配した。
 それを打ち破るように口を開いたのは、燕紅ヤンホン様だった。
 
「実は、今このあたりの家々は、困ったことになっているのです。今日、あなたからいただいた薬水……。もしかしたら、あの薬水がわたくしどもを窮地からお救いくださるかもしれません。どうしても、お力を借りたいと思い、詳しいこともお知らせせず、あなたをここへ連れてきてしまいました。どうぞ、年寄りのわがままと思ってお許しください」

 悲しげに目を伏せた燕紅様の横で、淑貞シュウチェン様がしゅんとしおれていた。
 壁際に控えていた侍女たちは、目礼して客間を出て行った。
 燕紅様は、淑貞様の背中をいたわるようにさすっていたが、やがて、意を決したように口を開いた。

「この邸より二百歩ほど離れたところに、蘭花楼という酒楼がございます。玉蘭ユーラン美蘭メイランという若い姉妹がやっている店です。昔からある店ですが、以前はそれほど流行ってはおりませんでした。
二人の父親である梁俊龍リャンジュンロンという男は、金に汚いところがありましてね。値段に見合わない安物の酒や食べ物しか出さないので、客が寄りつかなかったのです。
それが、一年ほど前からでしょうか急に人気が出まして、今や店に入りきれない者が、勝手に店の前に床几しょうぎまで並べて飲み騒ぐ場所になったのでございます」

 一年ほど前? それって、もしかして、天空花園からこの辺りに落ちた種が根付いた頃よね? 何か、関係があるのかしら?
 虫籠からゴソゴソと音がした。シャ先生も、燕紅様のお話に耳を傾けているようだ。

「このあたりの男たちは、老いも若きも朝から蘭花楼に入り浸り仕事をしなくなりました。初めのうちは、わたくしどもも店に押しかけ、男たちを連れ帰ったり、たしなめたりしていたのですが、目を離すとまたすぐに店に戻ってしまうのです。
そのうち、男たちの分もわたくしどもが働いて、男たちのことは放っておくことになりました。幸い、女たちは蘭花楼の酒に、惑わされることはありませんでしたから――。
しかし、近頃では、子どもたちがいろいろと気づき始め、父親を止めない母親をなじるようになりました。若い娘たちも、恋人や許婚いいなずけが蘭花楼に入り浸っていては、いつまでたっても結婚できません。さすがに、そのままにしてはおけない状況になりました」

 お酒って、恐ろしいものなのね! 林杏リンシン姉様も、お酒の誘惑に負けて、兵舎からなかなか天空花園へ戻ってこなかったのよね。
 天人も人間も、そういうところは似ているのかも――。
 でも、このあたりの女の人たちは、お酒に惑わされないというんだから、体だけでなく心もそうとうにたくましいってことね!

「あのう……、お話はわかりました。わたしが持っている薬水は、体内の気の流れを整え、痛みや疲れを癒やすものですから、酔っ払いさんたちの酔いを覚ますぐらいのことはできるかもしれません。でも、同じ店の酒をひたすら飲みたがるという不思議な症状に対して、果たして効果があるものかどうか――」

 淑貞様が、急にしゃんとして顔を上げると、わたしを睨むように見つめながら、強い口調で言った。

「試してみたいのです! いままで様々な薬やまじないなどに頼ってみましたが、どれも効果はありませんでした。母上に深緑どののお薬の話を聞いて、今度こそ本物かもしれないと思いました。
夫の安祥アンシャンにあなた様のお薬を飲ませて、様子を見てみたいのです。
もしそれで、蘭花楼へ行かなくても我慢できるようになったなら、お薬を全て買い取らせていただき、町の者たちにも飲ませることにいたします。お力をお貸しいただけませんか、深緑どの?」

 えーっ?! 自分の夫を使って、快癒水の効果を調べようっていうの? 
 いや、紅姫ホンチェン様がおつくりになった薬水に、危険なことはないと思うけれど、そんなこと勝手にしちゃってもいいものかしら?
 わたしの困り顔を見て、燕紅様がきっぱりとした調子でおっしゃった。

「安祥は、婿なのです。幸い、暁燕という跡取りがすでにおりますし、その下には弟妹もおります。もし、安祥になにかありましても、我が家は安泰なのです。ご心配には及びません!」

 ふええぇぇーっ! 燕紅様の言葉に、淑貞様も力強くうなずいている!
 このような女丈夫じょじょうふ揃いの家に婿に来たから、安祥様はお酒に溺れちゃったんじゃないのかしら? 
 やっぱり、ちょっと心配だわ――。夏先生の考えが、聞けるといいのだけどな……。

 そこへ、たくましい体つきの侍女が一人、あたふたしながら駆け込んで来た。
 すぐさま、燕紅様から叱責が飛ぶ。

「これ、心果シングォ! お客様の前ですよ、不作法な!」
「申し訳ございません、ご隠居様! あの、旦那様が、今、お戻りになられまして――」
「まあ、今日はずいぶんとお早いこと!」
「その……、お客様をお連れになって……、いえ、お客様に連れられて、ええーっと……」

 外が、何だか急に騒がしくなった。
 この邸中の男たちが、酔っ払いとなって一斉に帰ってきたらしい。
 歌ったり、叫んだり、笑ったり、怒ったり、種種雑多な声が邸内に飛び交っている。
 さっきまでの静けさが、嘘のようだ。

義母上ははうえ―っ! 淑貞―っ! お客人をお連れしたぞーっ!」
「いやいや……、連れられたのは、安祥どのですぞぉ! 俺がぁ、あなたをぉ、このお邸まで、送ってきたのですからねぇ! ハハハハハ……ヒィィック!」

 燕紅様も、淑貞様も、苦虫を噛みつぶしたようなお顔で黙って座っている。
 やがて、場の空気を読めない赤ら顔の二人組が、肩を組み客間に姿を現した。

 やや痩せぎすで人の良さそうな下がり目の中年男性が、安祥様であろう。
 そして、もう一人の男は――。
 すらりと背が高く肩幅は広め、堂々とした体躯の若い男だった。あれぇ? どこかで会ったことがあるような――。でも、人間界に知り合いなんていないわよねぇ……。
 背中には、なにやら剣のようなものを担いでいる。
 旅の武芸者か何かだろうか? 

「こちらはなぁ、思阿シアどのじゃ。名家のお生まれでぇ、官吏を目指しておられたがぁ、地方の試験で失敗されてなぁ……、今は、流浪の武芸者としてぇ、修業の日々を送っておられるぅ……。このお方、『底知らず』でなぁ。蘭花楼の酒を飲み尽くしてしまったのじゃぁ! それでぇ、きょうはぁ、もう店じまいとあいなったぁ……。困ったお方よぉ……」
「俺はぁ、武芸者じゃぁ、ごさいませーん! 詩人でございまーす! 日々のかてを得るためにぃ……多少心得のある武芸を、役立てているだけございますよーっ……」
「そうであったかーっ」
「そうでありますよーっ」
「アハハハハハハハ……!」
「アハハハハハハハ……!」

 大声で笑い合った後、二人の酔っぱらいは、客間の床の真ん中に座り込んでしまった。
 毎度のことなのであろう。侍女たちは、慣れた手つきで二人を起こし、二手に分かれると、それぞれをどこかの部屋へ連れて行ってしまった。
 ふうっと、ため息をついてから、淑貞様がおっしゃった。

「……という有様でございます。今日は詩人殿でしたが、画家のこともありましたし、博徒を連れ帰ったこともございました。お見苦しいところをご覧に入れてしまいました。
どうか、わたくしどもを助けると思って、先ほどのお薬の件ご承知くださいませ。よろしければ、これから、すぐにでも試してみたいのですが――」
「……わかりました」

 安祥様は、そろそろ改心しないと、この家からぽいっと摘まみ出されてしまうかもね。
 悪い人ではなさそうなのに、それはちょっと可哀想だわ……。
 わたしは、床に置いておいた行李の中から、快癒水の瓶を取り出した。
 そして、卓の上にあった、まだ使っていない茶碗に快癒水をたっぷり注いだ。

「飲ませる量は、盃に半分ぐらいにしておいてください。それなら、害はありませんから。もし、効かなければ、少しずつ量を増やしてみてはどうでしょうか?」
「そうですね。では、早速――」

 淑貞様は、燕紅様とわたしに挨拶し、侍女を二人ばかり連れて、安祥様が運ばれた部屋へと向かった。どうか、上手くいきますように!

「さて、では、わたくしたちは、先に晩餐をいただきましょう。もう、用意ができていると思いますよ」
「あ、ありがとうございます……」

 ―― グルギュルグル……ギュルウウウーンッ……。

 うわぁ! 恥ずかしい! 快癒水で一時的に満たされていたお腹が、食事ができるとわかった途端、とんでもなく大きな音を発した。
 あわててお腹を押さえたのだけど、案の定、燕紅様にクスリと笑われてしまった。
 あーあ、情けない……。
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