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第六章 辺境伯夫人は兼業です

45.身体には気をつけましょう

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 王都の冬は毎年冷えるけれど、今年は特にひどい。
 気象庁によると、例年より一度低いということだ。
 
「降ってきたわね」

 現在の職場、王都通信省庁舎の窓から、アンバーはどんよりと重い空を見上げている。
 白い氷の花弁が、ひらひらと舞い降りていた。
 この時期、夜に降り始めた雪が簡単に止むことはない。
 積もらないうちに帰らなければ、職場に泊まりこみ確定だ。
 現在午後五時少し前。
 
「今日はみんな、定時で帰ってください。明日朝、身動きがとれなければ無理をしないように」

 声の主は現在のアンバーの上司、新技術企画室長フリード・ノルディンだ。
 技術省から出向してきている。

「急ぎがある方はそのまま続けてください。宿泊室を使えるように手配します」

 アンバーの仕事も急ぐと言えば急ぐ。
 けれどどうしても明日の朝までにというほどじゃない。

「お先に失礼いたします」

 定時の鐘がなって五分後に、アンバーは席を立った。
 様子を伺っていたらしい同僚たちも、ほっとしたような表情で続く。

「私も失礼します」
「私も……」

 待っていましたとばかり、そそくさと皆出て行った。
「俺の家は遠いんだ」とか「馬車が動かなくなる」とか、昼過ぎから彼らは言い合っていたから、脱兎のごとくの逃げ足だ。
 とびきり綺麗な顔をした室長は、こと仕事となると冷酷無比な命令を下す。
 その彼が「早く帰れ」と言ってくれているのだ。
 気が変わらぬうちにと思うのも、まあ無理はない。

 結局、チーフのフリードだけが残される。
 皆のデスク周りを確認し終わったアンバーが、フリードに黙礼して退出しようとしたところ。

「ちょっと待って」

 フリード・ノルディン室長から、声がかかった。
 

「一緒に働きだしてもうひと月だよ? いい加減、許してくれないかな?」

 くだけた口調にぎょっとする。
 慌てて辺りを見回した。

「大丈夫。もうみんな帰ったから」

 ここは職場だ。
 硬いことを言うようだけど、この場所にいる限りフリードは上司で友人じゃない。
 こういう私的な会話は控えるべきだ。

「室長、そういうお話でしたら別の機会にお願いいたします」
「別の機会っていつ? アンバー、僕に会ってくれる気ないよね?」

 フリードは素早くデスクを離れて、扉とアンバーの間に立った。
 アンバーとの距離、およそ一メートル。
 
「マクレーンの後継者を狙ったこと、バカなことをしたと思ってる。悪かったよ。あれはさすがにやり過ぎた」

 濃い青の瞳が潤んでいる。
 
「これから先ずっと、アンバーに口をきいてもらえないなんて僕は嫌だ。耐えられないよ」

 黒地に白線の入った上着の腕が、ぷるぷると小刻みに震えていた。
 これは本気だ。芝居じゃない。
 あきらめて、フリードを仰ぎ見る。

「謝るのなら私にじゃないでしょ? 誰に謝ったらいいの?」
「あいつ……」
「あいつじゃないでしょ?」
「マクレーン辺境伯……です」
「そうね」

 稀代の天才などと、名声をほしいままにしている男の姿じゃない。
 ただの子供だ。それも十歳くらいの。
 初めて会った時からこの調子だから、アンバーには珍しくもない。
 弟がいたら、こんな感じなのかもしれないなと思う。

(でもダメよ。甘い顔をしたら)

「ユーインに直接謝って許してもらうこと。結婚してる女の人に、告白なんてしないこと。このふたつを守れるなら、また口をきいてもいいわ」
「わかった! すぐに謝りに行くよ」

 ぱあっと笑顔になったフリードは、すぐにも出かけそうだ。
 マクレーン領の雪は、王都とは比べものにならないほど深いというのに。

「雪がやんだらにしてね?」
「わかった。そうするよ」

 あきらかに不承不承だけど、とりあえずは納得してくれた。

「もうずっとここへ泊ってるでしょう?」

 半月以上、室長は自宅へ帰っていないらしい。
 チーム内の皆が知っていることだ。
 上司があまり根を詰めすぎると、部下は気がねして休みにくくなるというのに。そんな気遣いのできる男ではない。
 
「あまり無茶をしてはダメよ?」

 半分以上は本音だった。
 かつて夢中になり過ぎるフリーを、研究室に迎えに行った。その時によく言ったセリフだ。

「ありがとう、アンバー。健康には気をつけるよ。僕は長生きしなくちゃいけないからね」

 見慣れたフリードの綺麗な微笑だ。
 一瞬、青い瞳の奥にちらりと、なにか別の感情が見えたような気がする。
 不安定に揺れる照明のせい?
 きっと気のせいだ。


 午後六時過ぎに、アンバーは自宅へ帰る。
 わずか一時間の間に、小降りだった雪は本格的な粉雪に変わっていた。
 でも屋敷内は春のように暖かい。
 ゲーリックの差配のおかげだ。
 使用人養成校から来た青年はまだ見習い中で、ゲーリックの指示で動いている。
 賢い優秀な子だと思うのは、「待て」ができる点だ。雇い入れた二人の青年は、養成校でも上位の成績を修めている。当然自負心は強い。
 自負心を抑えて、今は見習うべき時間と黙ってゲーリックの言うことをきける。

(これが案外難しいのにね)

「奥様、夕食のお仕度が整いました」

 マクレーン領から連れてきたローリーが声をかけてくる。
 ほぼ同時に、屋敷の外、門のあたりで馬のいななきが聞こえた。
 門灯の下に騎士が見える。

(急ぎの知らせ?)

 この雪の中をおしてくるとは、よほどのことに違いない。
 
(悪い知らせじゃなきゃいいけど……)

 食堂へ向かう気にはならなかった。
 何かあれば、ゲーリックが呼びに来るはず。
 慌てて階下を伺っては女主人の品格を疑われると、アンバーはぐっと我慢した。

 かつかつと、長靴の踵の音がする。
 かなり急いでいるらしい。

(騎士をそのまま通した?)

 やはり緊急事態かと、緊張した思いでアンバーは立ち上がった。

 
 扉が開く。
 現れたのは、数センチの雪をかぶった長身の騎士。
 マクレーン領にいるはずの、夫ユーインだった。

「脱がなきゃ」

 長身の膝下までを覆うマントを脱がせにかかるアンバーの手は、そのまま空を切った。
 抱きしめられていると気づいたのは、冷たい雪の感触と匂いに包まれた時。

「おかえりと、言ってはくれないのか?」

 耳元に甘いテノールの声。
 ここまで馬で駆けてきたからか、首筋にはうっすら汗をかいている。

「どうして……?」

 求められた返事より、驚きが先に言葉になった。
 今日は週末ではない。
 ユーインが来るのはきまって週末だというのに。
 
「雪がひどくなったからだ」
「雪が降ったから来たの?」
「悪いか?」

 抱きしめる腕の力はさらに強く、テノールの声はさらに深く甘くなる。

「領地は? 放ってきたの?」
「雪がこれだけひどくなれば、どうせ仕事にはならんさ」

 マクレーン領はプレイリー王国の北の果てだ。
 雪の深さは王都の比ではない。
 おそらく朝には向こうを発ったのだろうけど、それにしてもよくたどり着けたものだ。
 相当無茶をしたのだろう。

「単騎ならイケると思ったら、もう馬を出していた」

 アンバーより五つも年上だというのに、まるで十五歳の少年のようなことを言う。
 
(今日はよくよくコドモを目にするわ)

 抑えきれず、つい笑ってしまった。

「無茶をしないで。何かあったらどうするの?」
「わかってるさ。だが心配だった。王都にはキツネがいるからな」

 テレているのか、ユーインは投げ出すようにぼそりと言った。
 
(野性のカン?)

 ついさっき、そのキツネと話していたことを思い出してドキリとした。
 だけど後ろ暗いことはしていない。
 心身ともに、なにもない。

「この雪よ? キツネもうちで寝てると思うけど」
「王都のキツネは違うかもしれん」

 これ、前世で言うところのバカップルの会話じゃないだろうか。
 他人であれば、とても聞くに耐えないと思う。
 けれどアンバーは当事者だ。
 胸がじわりと温かくなった。

「それに……だ。雪道の騎乗は鍛錬にもなる」

 薄い青の瞳がアンバーを正面に捉える。

「君より先には逝けないからな」

 甘い艶やかな声が降る。
 少しだけ何かと競うようなそんな感じがするけれど。

「ありがとう」

 微笑したアンバーに、ユーインは唇で応えた。


Fin
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