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第五章 領主の妻のお仕事です

37.やれるところまでやってみます

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 予想どおりというか、まあそうなるだろうなの想定内というか。
 とにかく一睡もせず、アンバーは出勤の仕度にかかった。

 夫ユーインはまだベッドの中で、幸せな夢をみているようだ。
 乱れた赤い前髪が額に散って、切れ長の目は閉じられている。
 すうすうと規則的な寝息をたてて眠る様子は、なんだかとても幼く見えた。

(かわいらしいと言ったら、きっと怒るでしょうね)

 もう少し眺めていたい気もするけど、例の交換機の件は大詰めなのだ。休むわけにはいかない。
 着替えに必要なものだけを持ち出すと、アンバーはそうっと部屋を出た。

 夫婦の寝室を、アンバーは着替えに使った。
 ローリーにはこちらのバスルームを使うと伝えて、なるべく静かに朝の仕度を済ませてもらう。
 朝食もここでとった。
 万が一にでもお義母様、エイブリル様と鉢合わせては、気まずい。それに昨晩の話をされても困るのだ。
 マクレーン辺境伯当主の言うことを、アンバーの一存で覆せるわけはない。
 起こりそうなリスクは、なるべく避けて通りたいところ。

 オートミールに少しのオレンジ、それにコーヒーだけの簡単なメニューがアンバーの朝食の定番だった。
 さっさと手軽に食べられて、適度にしゃきっとする。
 さあそろそろ席を立とうかという時、思わず息を飲んだ。

「ユーイン……」

 アンバーの今いるリビングの奥、寝室との境の壁際に、腕を組んで背をもたせかけているユーインの姿があった。
 見事な赤毛は整えられないまま、つまり起き抜けのぼさぼさ。部屋着のガウンを適当に羽織っている。
 眉間に、深い縦皺がくっきり刻まれていた。

「おはよう、我が妻よ」

 低い声。
 あきらかに不機嫌だ。
 何も悪いことはしていない。むしろ一睡もせず仕事に出るのだから、昨夜ユーインの好きにさせてあげたことを感謝してほしいくらい。
 だからアンバーは意識して、口角を上げて微笑んだ。
 
「おはようございます」
「真面目さ勤勉さは君の長所だが、つれないな」

 出勤するのが気に入らないらしい。
 けれど気に入らないとは言葉にしないのが、ぎりぎりの譲歩という感じだ。
 昨夜のあれこれを思い出すと、アンバーだって頬が熱くなる。
 が、それと仕事に穴をあけることとは別問題だ。
 ユーインもそこはわかっているから、こんな中途半端な恨み言しか言えない。

(かわいい)

 ぶすっと不貞腐れた夫の表情が、とても愛おしく見えた。
 仕事に出るのを止めているわけじゃない。
 ただ駄々をこねたいだけなのだ。
 辺境を守る騎士の長に相応しい立派な体躯の美丈夫が、壁にもたれかかって不貞腐れている。それも妻が自分をひとり寝台に置いていったからと。
 かわいいと思わずにいられる女がいたら、見てみたい。

「好きで離れたんじゃないこと、わかってるでしょう?」

 だからこんな恥ずかしいセリフも、するっと出てくる。
 きっと今は、より感情を刺激する理性的でない言葉をユーインは望んでいると直感したから。
 すっと側に寄って、ユーインを抱きしめる。

「かなわないな、君には。アンバー」

 くっと喉の奥を慣らして、ユーインは口元を大きな手で覆う。

「普通、逆だろう?」

 仕事に出かける夫に拗ねてみせるのは妻の方だと、そう言いたいんだろう。
 まぁ、そうかも。
 少なくともプレイリー王国ではそういう夫婦が多いと思う。

「普通じゃない妻はお嫌いですか?」

 わざとしょんぼりして見せると、「そんなことはない!」と即座に返された。

「アンバーは何をしてもかわいらしいし愛おしい。君の言うことならなんでも聞いてやりたくなる。だから、かなわないんだ」

 耳を赤く染めながら、アンバーから視線を逸らしている。
 
(かわいいのはユーイン、あなたよ)

 前世のアンバーに、この状況を見せてやりたい。
「おでん」と呼ばれた地味女、誰とも交際したことのない干物女だった自分が、前世日本では見たこともない美青年から拗ねられたり駄々をこねられたりしている。
 きゅんと、アンバーの胸が鳴った。
 甘やかされるのも嫌いじゃないけど、こうして甘えられるのはもっと好きなんだと自分の性癖を自覚する。

「母上のこと、気を遣わせてすまない」

 逸らした視線を戻して、ユーインはアンバーをまっすぐに見下ろしてくる。
 申し訳なさそうにというより、情けないくらい機嫌をとるように揺れる、薄い青の瞳。

「この屋敷の女主人は君だ。なのにこんなところで食事をさせて。母上の食事は部屋へ運ばせる。俺たちと顔を合わせることのないように。だからアンバー、安心して帰ってきてほしい」

 ずくんと、アンバーの胸が痛んだ。
 ここで朝食をとったアンバーの心に気づいてくれたのは嬉しい。でも養母に「食堂へは来るな」と命じるユーインを思うと、切なくなる。
 そこまでしなくて良い。
 そう言ってあげないとと思う。
 でも言えない。
 エイブリル様、お義母様を追い出すことが変わらないなら、ケジメはつけるべきだからだ。

「ありがとうございます、ユーイン」

 ほっとしたように笑うユーインの頬に、アンバーは手を伸ばす。

「あなたが女主人だと認めてくださったの、とても嬉しい。だからこの家のこと、仕事と両立できるように考えるから」

 家政のことだ。
 これまでエイブリル様が引き受けてくださっていたそれを、これからはアンバーがみなければならない。
 家政といっても、上位貴族の家の内だ。前世風に言えば、総務と庶務と経理を担当するようなもの。
 外で仕事をしながら兼務するには、かなり重い。
 無理と蹴とばすのは簡単だ。
 けれど夫ユーインが養母と決別してまで守ろうとしてくれたことを思えば、無理と一言で片づけたくなかった。
 なんとか策を考えて、領主の妻の仕事を務めたい。

「やれるところまでやってみます」

 アンバーがそう言うと、ユーインはくしゃりと顔を歪めた。

「だから、そういうところだ」

 ぐいとアンバーを抱き寄せて、ぼそりと言う。

「あいつにはそんなこと、言わないでくれ」
「フリー……」

 問い返そうとしたら、唇を塞がれた。

「仕事の付き合いは仕方ない。納得したくないが、努力しよう。だが君も、知っていてほしい。君の夫はとても、かなり、独占欲が強い」

 知っているとアンバーは心の中で笑う。
 アンバーには嬉しいことだった。
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