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第三章 マラークの叛乱
27.必ず帰るから
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想われている。
それは上質のワインのように心を酔わせてくれた。
けれど気づかないフリをした。
どうしていいかわからなかった。
対処法のわからない感情に振り回されるのは怖い。初見の対応に、昔から器用ではないのだ。
でも少し時間が経てば、対処法も考えられるはずなのに。ずっと自分の心に問いかけることをしなかった。
怖かったのは愚かになるからだけじゃない。自分の心を差し出すことが怖かったからだ。
(なんてずるい)
ラウラは今、自分の中にある醜さを直視している。そして自分が嫌になった。
言葉にして許しを請いたい。
金色の瞳を見上げて、やめた。
(それこそ勝手だわ)
想われていることが気持ちいいから、だから気づかないフリをしていました。
そんなことを聞いて、気分がいいわけない。自分が楽になりたいだけだ。それでは夫シメオンの言い訳と変わらない。
どんどん深みにはまってゆく思考を、エカルトの声が遮った。
「同じだけの愛をとは望みません。俺はあの時そう言いましたよね?」
エカルトの形の良い唇が微かに震えている。
「撤回します。本心ではありません」
切羽詰まって余裕のない声が、エカルトのぎりぎりの抑制を教えてくれる。
熱をはらんだ金色の瞳は、今にも発火しそうに危うい。
白い手袋の指がラウラの頬に添えられて、切実に請われる。
「愛してください。どうか俺を」
ラウラの心を渡すことの、何が怖いと言うのだろう。
エカルトは見栄も体裁もなく、すべて広げてみせてくれているというのに。
自分の心の平穏だけを求めようとした怖れが、ばかばかしいほどちっぽけに思えた。
何をこだわっていたのだろう。
気づかないフリをしただけで、本当はとうにわかっていたのに。
「素直じゃなくてごめんなさい」
瞬間、エカルトの身体が固まった。
金色の瞳に驚きが、ついで強迫めいた懇願が映る。
「素直になったらどうなるんですか? 言ってください、ラウラ。お願いです」
じぃっっっ。
文字にするとそうなるだろう視線が、ラウラに注がれる。
いつのまにか両側から挟まれたラウラの頬に、手袋越しの震えが伝わった。
「あなたを愛しています」
瞬間、ラウラの唇にやわらかい何かが重ねられた。
ひんやりとしていたそれは次第に熱をもって、ラウラの息さえ奪うようで。
それがエカルトの唇だと気づいた時には、口内に温かな舌の侵入を許していた。
何もかも初めてのことで縮こまるばかりのラウラに、エカルトは手加減なしだ。ラウラの舌を捉えると、頬擦りするようにからませる。
湿った水音が恥ずかしい。
恥ずかしいくせにもっと欲しいと、あさましく求めている。湧き上がる欲に、ラウラは逆らえなかった。自らエカルトの首に腕を回して、その舌に応えた。
しびれるような快感が背筋を貫いて、さらに深く濃い接触を望む。
愛して愛されて。相愛の相手との口づけだから、こんなに気持ちがいいのだろうか。ラウラの頬に涙がこぼれていた。
「そんな表情されたら……。抑えられなくなる」
唇を離したエカルトの目元が赤い。
言葉どおり抑えているらしい証拠に、黒い騎士服の腕は小刻みに震えていた。
「証明書がいるわ」
婚姻無効の証明書だ。証明書をとるためには、嫌な検査がある。未通の処女であると、神官が確認するのだ。
つまりそれをとらなければラウラは依然としてシメオンの妻で、エカルトとこの先に進むことはできない。エカルトもわかっているから、必死に抑えてくれている。
「待ってて。今からすぐ行ってくる」
先ほどまでのうじうじはすっかり綺麗に消えていた。それどころかどうしてもう少し早く、せめて昨日のうちに取っておかなかったのかと自分の愚図さを責めてさえいる。
馬車を使わず騎馬で行けば、神殿まで一時間で往復できる。問題は例の検査だ。どのくらいの時間が必要なのだろう。
現実的なことを考えて、こうしてはいられないと心が急いた。
「2時間で戻って来るから」
くっとエカルトが笑う。
思わずといった風にこぼした笑いと同時に、再び強く抱き寄せられる。
「俺はいつだって、あなたにはかないません」
七歳の時からずっとだと、エカルトは続けた。
「あなたがそうしろと言うのなら、俺は一生だって待ちます。でも今だけは、行かなくてはいけない。あなたとずっと一緒にいるためだから」
戦場に出るのだ。2時間などと、悠長に待てるはずもない。
どこの戦場だろう。
王宮か、それともヴァスキア領か。いずれにせよ、戦場に変わりない。
「戦場に出るの?」
口に出してぞっとした。
人の生死が飛び交う場所だ。ノルリアン生まれのラウラには縁遠い場所だったが、11年前ヴァスキアが滅ぼされた後の混乱はノルリアンにも多少聞こえてきていた。
その例のひとつが、今ラウラの目の前にいる。
王太子エカルトは生き延びるために、奴隷に身を落とした。あの酷い傷、やせこけて汚れた姿を、ラウラはよく憶えている。
本当の戦場は想像なんて及びもつかないほど、きっと凄惨だ。
そこへエカルトは出る。
出なければ、彼の故国は取り戻せない。あるべき場所に彼は立てない。よくわかっている。
武運を祈ると、定型の言葉をかけなければならないことも。
今までのラウラならきっと言えた。
けれどもう無理だ。エカルトに心を渡したラウラには、毅然とした顔で決まりごとの言葉をかけるなんてできない。
「ケガをしたら許さない。命を落としたら一生許さない」
あふれてくる涙でエカルトの顔が滲む。
「必ず帰ると約束します」
なんだか嬉しそうだ。
「だからお守りをください」
こういう時のお守りには、手作りの何か、たとえばスカーフとかハンカチとかそんなものを渡すのだと聞く。だが突然のことで、そんなものを用意していない。
「後でとどけ……」
後で届けると言いかけた言葉を、エカルトが吸い取った。
唇を割って深く深くたっぷりラウラを堪能した後で、黄金の瞳が不敵に笑う。
「続きは戻ってから。必ずいただきにあがります」
多分あなたが思うより早くにと、最後に言い添えて。
それは上質のワインのように心を酔わせてくれた。
けれど気づかないフリをした。
どうしていいかわからなかった。
対処法のわからない感情に振り回されるのは怖い。初見の対応に、昔から器用ではないのだ。
でも少し時間が経てば、対処法も考えられるはずなのに。ずっと自分の心に問いかけることをしなかった。
怖かったのは愚かになるからだけじゃない。自分の心を差し出すことが怖かったからだ。
(なんてずるい)
ラウラは今、自分の中にある醜さを直視している。そして自分が嫌になった。
言葉にして許しを請いたい。
金色の瞳を見上げて、やめた。
(それこそ勝手だわ)
想われていることが気持ちいいから、だから気づかないフリをしていました。
そんなことを聞いて、気分がいいわけない。自分が楽になりたいだけだ。それでは夫シメオンの言い訳と変わらない。
どんどん深みにはまってゆく思考を、エカルトの声が遮った。
「同じだけの愛をとは望みません。俺はあの時そう言いましたよね?」
エカルトの形の良い唇が微かに震えている。
「撤回します。本心ではありません」
切羽詰まって余裕のない声が、エカルトのぎりぎりの抑制を教えてくれる。
熱をはらんだ金色の瞳は、今にも発火しそうに危うい。
白い手袋の指がラウラの頬に添えられて、切実に請われる。
「愛してください。どうか俺を」
ラウラの心を渡すことの、何が怖いと言うのだろう。
エカルトは見栄も体裁もなく、すべて広げてみせてくれているというのに。
自分の心の平穏だけを求めようとした怖れが、ばかばかしいほどちっぽけに思えた。
何をこだわっていたのだろう。
気づかないフリをしただけで、本当はとうにわかっていたのに。
「素直じゃなくてごめんなさい」
瞬間、エカルトの身体が固まった。
金色の瞳に驚きが、ついで強迫めいた懇願が映る。
「素直になったらどうなるんですか? 言ってください、ラウラ。お願いです」
じぃっっっ。
文字にするとそうなるだろう視線が、ラウラに注がれる。
いつのまにか両側から挟まれたラウラの頬に、手袋越しの震えが伝わった。
「あなたを愛しています」
瞬間、ラウラの唇にやわらかい何かが重ねられた。
ひんやりとしていたそれは次第に熱をもって、ラウラの息さえ奪うようで。
それがエカルトの唇だと気づいた時には、口内に温かな舌の侵入を許していた。
何もかも初めてのことで縮こまるばかりのラウラに、エカルトは手加減なしだ。ラウラの舌を捉えると、頬擦りするようにからませる。
湿った水音が恥ずかしい。
恥ずかしいくせにもっと欲しいと、あさましく求めている。湧き上がる欲に、ラウラは逆らえなかった。自らエカルトの首に腕を回して、その舌に応えた。
しびれるような快感が背筋を貫いて、さらに深く濃い接触を望む。
愛して愛されて。相愛の相手との口づけだから、こんなに気持ちがいいのだろうか。ラウラの頬に涙がこぼれていた。
「そんな表情されたら……。抑えられなくなる」
唇を離したエカルトの目元が赤い。
言葉どおり抑えているらしい証拠に、黒い騎士服の腕は小刻みに震えていた。
「証明書がいるわ」
婚姻無効の証明書だ。証明書をとるためには、嫌な検査がある。未通の処女であると、神官が確認するのだ。
つまりそれをとらなければラウラは依然としてシメオンの妻で、エカルトとこの先に進むことはできない。エカルトもわかっているから、必死に抑えてくれている。
「待ってて。今からすぐ行ってくる」
先ほどまでのうじうじはすっかり綺麗に消えていた。それどころかどうしてもう少し早く、せめて昨日のうちに取っておかなかったのかと自分の愚図さを責めてさえいる。
馬車を使わず騎馬で行けば、神殿まで一時間で往復できる。問題は例の検査だ。どのくらいの時間が必要なのだろう。
現実的なことを考えて、こうしてはいられないと心が急いた。
「2時間で戻って来るから」
くっとエカルトが笑う。
思わずといった風にこぼした笑いと同時に、再び強く抱き寄せられる。
「俺はいつだって、あなたにはかないません」
七歳の時からずっとだと、エカルトは続けた。
「あなたがそうしろと言うのなら、俺は一生だって待ちます。でも今だけは、行かなくてはいけない。あなたとずっと一緒にいるためだから」
戦場に出るのだ。2時間などと、悠長に待てるはずもない。
どこの戦場だろう。
王宮か、それともヴァスキア領か。いずれにせよ、戦場に変わりない。
「戦場に出るの?」
口に出してぞっとした。
人の生死が飛び交う場所だ。ノルリアン生まれのラウラには縁遠い場所だったが、11年前ヴァスキアが滅ぼされた後の混乱はノルリアンにも多少聞こえてきていた。
その例のひとつが、今ラウラの目の前にいる。
王太子エカルトは生き延びるために、奴隷に身を落とした。あの酷い傷、やせこけて汚れた姿を、ラウラはよく憶えている。
本当の戦場は想像なんて及びもつかないほど、きっと凄惨だ。
そこへエカルトは出る。
出なければ、彼の故国は取り戻せない。あるべき場所に彼は立てない。よくわかっている。
武運を祈ると、定型の言葉をかけなければならないことも。
今までのラウラならきっと言えた。
けれどもう無理だ。エカルトに心を渡したラウラには、毅然とした顔で決まりごとの言葉をかけるなんてできない。
「ケガをしたら許さない。命を落としたら一生許さない」
あふれてくる涙でエカルトの顔が滲む。
「必ず帰ると約束します」
なんだか嬉しそうだ。
「だからお守りをください」
こういう時のお守りには、手作りの何か、たとえばスカーフとかハンカチとかそんなものを渡すのだと聞く。だが突然のことで、そんなものを用意していない。
「後でとどけ……」
後で届けると言いかけた言葉を、エカルトが吸い取った。
唇を割って深く深くたっぷりラウラを堪能した後で、黄金の瞳が不敵に笑う。
「続きは戻ってから。必ずいただきにあがります」
多分あなたが思うより早くにと、最後に言い添えて。
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