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第三章 暗雲

33.美しい月には毒がある

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 リヴシェが王位について変わったことはいくつもあるが、共通していたのは質素倹約による緊縮財政だった。
 晩餐会やパーティの類は極端に減った。国庫がすかすかだというのに、やたらに金ばかりかかるイベントの必要性を新女王が認めなかったからだ。
 聖殿暮らしが長かったリヴシェには、ドレスや宝飾品で着飾る趣味もないから、品位保持費とやらいう名目の出費もがくんと減った。
 年頃の娘らしい物欲にとんと縁のないリヴシェは、前王妃のお古を平気で着ている。いくら上質のものとはいえさすがに数十年も前のものでは、女王の服装としていかがなものか。国家の威信に関わるので、これについてはラーシュがこっそり手配して、ワードローブに補充している。
 なにもかもがそんな具合なので、勢い普段使われていない晩餐の間など掃除も行き届いていない有様だった。
 そこへ今回降ってわいたような賓客の訪問だ。ヴァラート皇子の訪れが周知されると、王宮の関係者は青くなり大慌てで支度に奔走することになる。
 物置にしまい込まれた燭台やテーブル、それに細かな細工の施された椅子。
 ハータイネンの飾り職人が細工した美しいカトラリー、繊細な刺繍の入ったナプキンにクロス。
 洗濯に虫干しにと、ヴィシェフラド王宮の庭は、引っ越しでもするのかくらいの大騒動だった。

 そして今夜。
 準備万端整った晩餐の間で、ヴァラートの皇子を迎え撃つ。
 

 
「お口に合うと良いが……」

 女王のリヴシェだって、滅多に食べない料理が次々に供される。
 鴨のローストなんて、この世界では超高級品らしい。添えられたオレンジソースだって、そもそもオレンジがハータイネン経由でしか手に入らないのだから、これも高級品。
 前世でボーナス支給時だけ行った、高級スーパーを思い出す。キラキラと輝く食材に貼られた値札には、普段使うスーパーの3倍くらいの数字が書かれていたものだ。
 言ってみれば高級スーパーの食材を惜しげもなく使って出した料理なんだから、リヴシェにしては大奮発だ。
 最高のおもてなしをしています感は、十分に出せていると思う。

「どれも本当に美味しい。こちらのシェフは、ずいぶんと腕の立つ方のようだ」

 真珠の色をした不思議な瞳でリヴシェを見つめて、ふわりと美しく微笑する月の皇子。
 とびきりの美貌に隠されて、ほとんど見せない腹の内。ほとんどの者は、表面の美貌と優し気な微笑で骨抜きにさせられる。
 古来スパイには美女が多いと言うけど、美しい男にもその素養は十分にある。
 この皇子ほど向いた男はいないのではと思う。

「お気に召したようでなにより」

 あたりさわりのない会話を進めて、デザートまで済んだ。
 お茶でも差し上げようと、リヴシェは皇子をサロンへ誘う。
 ここからが今日のメインイベントだ。

「お返事をしなくてはね」

 近侍はすべて下げてある。今ここにいるのは、リヴシェとラーシュ、それに月の皇子カビーアだけだ。

「まずヴァラート皇帝に感謝を申し上げます。このような小国に過分な栄誉をいただけた。
 けれど……、やはりわたくしは相愛の相手を愛おしく思う。
 そのようにお伝えいただきたい」

 決まった! ぴしゃりと決めた。自分を褒めてやりたい気分だった。
 ところが。
 月の皇子は小さく息を漏らして、くすりと笑った。

「そのようなこと……。我が兄、ヴァラート皇帝は気にいたしませんよ」

 は?
 何を言っているのかわからない。愛する男は他にいると言っているのだけど、それを気にしないとは。

「もちろん陛下のお美しさ、その清々しいほどのご気性です。我が兄も陛下を知れば、きっと独占したいと思うことでしょう。
 ですがヴァラートでは陛下のような特別の方、神の御寵愛をお受けになるような稀なる方には、夫以外の情人などいて当たり前。
 共に連れてこい。そう言うでしょうね」

 ヴァラートが一夫多妻、いや一妻多夫制の国とは聞いていないけど。
 前世でも一部の地域では存在した制度だけど、あれは確か集落全体が貧しくて一人の夫だけでは妻を養うことができないから、何人かで一人の女性を共有するんだと聞いた。つまりお金の問題だ。
 そういう経済的理由でもなければ、普通嫌じゃないのか。好きな人が、自分ではない誰かと共に過ごす昼や夜があることを、心から受け入れられるのだろうか。
 
「では皇帝もそうですね。特別な方に違いないのですから」

 その考えを正しいとかそうでないとか決めるのは、ヴァラートの問題だ。でもそれを受け入れるか否かを決めるのは、リヴシェの問題だ。
 冗談ではない。
 前世を含め今のリヴシェの根本には、一夫一婦の倫理観がしっかり根付いている。
 あっちも良いこっちも捨てがたい。そんなのが良い人は同じ価値観の人と付き合うべきだ。
 そもそもリヴシェは嫁に行く気はない。いやちょっと前にはひよって嫁に行って国が助かるのならと思ったこともあったけど、今は覚悟ができている。
 だからここはしっかり、Noを突きつけるのみ。

「女神ヴィシェフラドの教えに背くこと、わたくしにできると思いますか」

 一夫一婦を尊ぶ女神ヴィシェフラドの名は、この際強力な切り札だ。たとえ相手が異教徒であっても、神の意思だから逆らえないという理由にはそれなりに説得力がある。
 だがその切り札にも、月の皇子は婉然と微笑んだ。

「陛下と戦場でお目にかかることを、わたくしは望みません。
 これは嘘偽りのない、わたくしの本心です」

「それはありがたいことですね。ヴァラートの皇帝には、皇子からよしなに……」

 話は終わり。切り上げようとしたリヴシェに、不意打ちの矢が飛んで来る。
 とびきり美しい誘惑の微笑とともに。

「それではお相手がわたくしならば、いかがでしょう。ヴィシェフラドで陛下のお側に。考えていただけますか?」
 
 さすがにラーシュの顔色が変わった。
 青い瞳の温度が急激に下がり、今や氷点下で尖った氷柱が何本も見え隠れしている。

「皇子はどういうおつもりかしら? 小娘をからかうにしても、度が過ぎているようだけど」

 口調を崩したのは、こちらの苛立ちを隠すつもりもないからだ。
 緊張の続くこの場を早く切り上げたいのは本当で、さっさとあきらめて開戦のカードを切ってくれと願う。
 それなのにいつまでこんな、歯の浮きそうな口説き文句を続けるつもりか。

「我が兄ヴァラート皇帝より、自分を相手に選んでくれない時には、わたくしが陛下の愛を乞うても許すと言われて参りました。
 もちろんわたくしが望むならばですが」

 月の皇子は美しい唇の端をさらに上げて、悪魔のように優しく微笑んだ。

「一目惚れなどとは下世話なもの言いですが。他に言いようがありません。
 わたくしは陛下、あなたが欲しい。
 白状いたしますが、最初から陛下が断ってくださればよいと、そう願っておりましたよ」

 己の美貌をよく知っている男の、こういう口説き方は心臓に悪い。
 ラーシュの殺気はさらに増し増しになるし、リヴシェの血流はぎゅるんぎゅるんと音をたてて速度を増している。
 返事をするにはあまりにも突然のこと、そして不埒なことだったので、黙殺するしかない。
 わずかの沈黙の後、月の皇子は艶やかに微笑して頭を下げる。
 
「陛下が戦を覚悟しておいでになること、確かに承りました。
 そのままを兄には伝えましょう。
 ですが先ほど申し上げた、わたくしの気持ちは本当です。
 戦が終わった後、もう一度あらためて参りましょう。
 その時が今から待ち遠しいことですね」


 まるで何事もなかったかのように涼しい顔をして、月の皇子は王宮を去った。
 ようやく終わった。帰ってくれた。
 ラスムスやラーシュとは違う、凄艶な色気のある美貌にあてられて、とにかく頭がぐるんぐるんする。
 ひどく疲れていた。

「戦場で会うのが楽しみになってきたよ」

 氷点下の殺気をダダ洩れにしているラーシュが、零下の声音で笑いながら言う。

「僕の目の前で戯言たわごとを口にした報い、きっちり受けてもらえるからね」

 ヴィシェフラドを護るんでしょう。
 目的が違いやしませんかとは思うけど、もう口を開くのも億劫だった。
 
 とにかく予想と違う展開ではあるものの、開戦の運びとなった。
 覚悟しないと。
 けれどその前にまず、今夜だけはゆっくり眠りたい。
 思考を手放して、ぐっすり眠りたかった。
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