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第一章
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事務室で僕ら三人は厳重注意を受け、一時間ほどしてから解放された。井坂は終始不貞腐れており、僕やカタクリコに対して謝罪の言葉を一切発しなかった。
憔悴した気持ちで店を出ると、尊が追いかけてきた。
「少し時間あるか」
彼はどこかバツが悪そうに、こちらの機嫌を伺いながら言った。僕がしぶしぶ頷くと店の裏口に案内された。
裏口の庇の下で待っていると、尊が缶ジュースを持ってやってきた。飲めよ、と言われてもらったものの僕は手を付けなかった。その代わり、じっと尊を見つめた。
「なんだよ」
尊はプルタブを空け、缶ジュースを一口飲んだ。炭酸が弾けて缶にぶつかる細かい音が聞こえた。
「そんなジュース一本で、恩に着せたりしねえよ」
だから飲めよ、と言われたので僕もプルタブを空けた。一口飲むと、尊も安心したように缶を煽った。庇の下から顔を上げると、空を割るように飛行機雲が伸びていた。
「さとしと色々あったんだってな」
突然尊が感慨深く言った。尊は缶の飲み口を掴み、空を見てため息を吐いた。僕らは目を合わせず、互いに空を見ていた。
「あいつ、お前にだけじゃなくて、仲良くないやつにはいつもああだから、あんまり気にするなよ」
「言われなくても、気にしてないよ」
「そうか」
とは言いつつも、井坂に言われたことはこれから先ずっと、喉に刺さった魚の小骨のように僕を悩ませることは明白だった。あんな毒のある言葉や狂気を真っ向からぶつけられたのは生まれて初めてだ。
それからしばらくの間沈黙が降りた。僕らはその気まずさから目をそらすように、交互に缶を傾けた。飛行機雲は尻尾の部分が崩れかけていて、もやもやとした綿のようになっていた。
「……お前も、あんな風になるんだな」
一足先に飲み終えた尊が言った。僕は何も答えなかった。
「本当、なにやってんだろうな、俺」
尊はあきれるように笑いながら、スポンジを握るように缶を握りつぶした。缶はひしゃげて、辺りに耳障りな金属音が響いた。
「――まだ、怒ってるか?」
尊はその時になって初めて僕の顔を見た。遠回りしたが、彼が言いたかったことはこの一言なんだと思った。
「分からない」
それは僕の正直な意見だった。最初は確かに尊に対して憤りがあったが、今も怒っているかと言われたらそれは分からない。
伊織と過ごした日々の中で、尊の存在はいつしか希薄になっていた。伊織に振り回されたからそこまで気が回らなかったといえばそれまでだが、多分僕と彼は、最初からその程度の関係性だったのだ。
「歩。俺を殴ってくれ」
尊は何かを覚悟したような強いまなざしで僕を見ていた。
「お前にしたこと、ずっと気になってた。でも、成功したからいいじゃん、て思う気持ちもあった。お前が今日あんなこと叫ばなかったら、これからも変わらなかったと思う」
だからそのけじめとして、殴ってほしいのだという。当然僕はそれを断った。
「なんでだよ。じゃないと、俺の気が治まらない」
駄々をこねるようなその言い分に、僕は微かにいらついた。そして最後の一口を飲み干し、尊がしたように缶を握りつぶした。尊の時よりも、大きな音が鳴った。
「君は勝手だよ。自分の気を治めるために、僕に殴らせるなんて」
隠しきれない怒気のこもった言葉に、尊は返答に窮しているようだった。しばらく考えて、ようやく僕の言った意味を理解したのか、静かに、そうだな、と呟いた。
「……じゃあ、どうやって償えばいい」
尊は握りつぶした缶を弄びながら、僕から逃げるように目をそらした。不思議とその姿が、伊織と出会う前の自分と重なった。
幾度となく、僕もこんな顔をした。人の顔色を伺って、機嫌をとってばかりいた。上下関係なんてない対等な立場なのに、僕はいつしか下手に出ることに何の抵抗もなくなっていた。だから彼の悪ふざけも断れなかったのだ。
「何もしなくていい。あえて言うなら……」
僕は満を持して尊を見た。病院で精密検査をして、結果を医師に確認する時のような緊張感を彼は放っていた。
「僕たちの生末を、最後まで見守ってほしい。それが君の義務だ」
僕は意識して、真剣な表情を維持した。ここでいつものように、何も気にしていないという素振りをしたら元の木阿弥になる。
「……分かった」
煮え切らない態度で尊がそう言ったところで僕は立ち上がった。
店を去ろうとした時、缶を捨てておくと言われたが断った。自分で出したごみは自分で捨てる。誰かに捨てさせてはいけない。そんな意味を込めての行動だったが、今の彼には果たしてどう映ったのかは分からない。
ただ、見上げた空はこの店に来た時よりも高く、青みが増しているように見えた。
憔悴した気持ちで店を出ると、尊が追いかけてきた。
「少し時間あるか」
彼はどこかバツが悪そうに、こちらの機嫌を伺いながら言った。僕がしぶしぶ頷くと店の裏口に案内された。
裏口の庇の下で待っていると、尊が缶ジュースを持ってやってきた。飲めよ、と言われてもらったものの僕は手を付けなかった。その代わり、じっと尊を見つめた。
「なんだよ」
尊はプルタブを空け、缶ジュースを一口飲んだ。炭酸が弾けて缶にぶつかる細かい音が聞こえた。
「そんなジュース一本で、恩に着せたりしねえよ」
だから飲めよ、と言われたので僕もプルタブを空けた。一口飲むと、尊も安心したように缶を煽った。庇の下から顔を上げると、空を割るように飛行機雲が伸びていた。
「さとしと色々あったんだってな」
突然尊が感慨深く言った。尊は缶の飲み口を掴み、空を見てため息を吐いた。僕らは目を合わせず、互いに空を見ていた。
「あいつ、お前にだけじゃなくて、仲良くないやつにはいつもああだから、あんまり気にするなよ」
「言われなくても、気にしてないよ」
「そうか」
とは言いつつも、井坂に言われたことはこれから先ずっと、喉に刺さった魚の小骨のように僕を悩ませることは明白だった。あんな毒のある言葉や狂気を真っ向からぶつけられたのは生まれて初めてだ。
それからしばらくの間沈黙が降りた。僕らはその気まずさから目をそらすように、交互に缶を傾けた。飛行機雲は尻尾の部分が崩れかけていて、もやもやとした綿のようになっていた。
「……お前も、あんな風になるんだな」
一足先に飲み終えた尊が言った。僕は何も答えなかった。
「本当、なにやってんだろうな、俺」
尊はあきれるように笑いながら、スポンジを握るように缶を握りつぶした。缶はひしゃげて、辺りに耳障りな金属音が響いた。
「――まだ、怒ってるか?」
尊はその時になって初めて僕の顔を見た。遠回りしたが、彼が言いたかったことはこの一言なんだと思った。
「分からない」
それは僕の正直な意見だった。最初は確かに尊に対して憤りがあったが、今も怒っているかと言われたらそれは分からない。
伊織と過ごした日々の中で、尊の存在はいつしか希薄になっていた。伊織に振り回されたからそこまで気が回らなかったといえばそれまでだが、多分僕と彼は、最初からその程度の関係性だったのだ。
「歩。俺を殴ってくれ」
尊は何かを覚悟したような強いまなざしで僕を見ていた。
「お前にしたこと、ずっと気になってた。でも、成功したからいいじゃん、て思う気持ちもあった。お前が今日あんなこと叫ばなかったら、これからも変わらなかったと思う」
だからそのけじめとして、殴ってほしいのだという。当然僕はそれを断った。
「なんでだよ。じゃないと、俺の気が治まらない」
駄々をこねるようなその言い分に、僕は微かにいらついた。そして最後の一口を飲み干し、尊がしたように缶を握りつぶした。尊の時よりも、大きな音が鳴った。
「君は勝手だよ。自分の気を治めるために、僕に殴らせるなんて」
隠しきれない怒気のこもった言葉に、尊は返答に窮しているようだった。しばらく考えて、ようやく僕の言った意味を理解したのか、静かに、そうだな、と呟いた。
「……じゃあ、どうやって償えばいい」
尊は握りつぶした缶を弄びながら、僕から逃げるように目をそらした。不思議とその姿が、伊織と出会う前の自分と重なった。
幾度となく、僕もこんな顔をした。人の顔色を伺って、機嫌をとってばかりいた。上下関係なんてない対等な立場なのに、僕はいつしか下手に出ることに何の抵抗もなくなっていた。だから彼の悪ふざけも断れなかったのだ。
「何もしなくていい。あえて言うなら……」
僕は満を持して尊を見た。病院で精密検査をして、結果を医師に確認する時のような緊張感を彼は放っていた。
「僕たちの生末を、最後まで見守ってほしい。それが君の義務だ」
僕は意識して、真剣な表情を維持した。ここでいつものように、何も気にしていないという素振りをしたら元の木阿弥になる。
「……分かった」
煮え切らない態度で尊がそう言ったところで僕は立ち上がった。
店を去ろうとした時、缶を捨てておくと言われたが断った。自分で出したごみは自分で捨てる。誰かに捨てさせてはいけない。そんな意味を込めての行動だったが、今の彼には果たしてどう映ったのかは分からない。
ただ、見上げた空はこの店に来た時よりも高く、青みが増しているように見えた。
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