790 / 843
日常
第七百三十八話 マグロ丼
しおりを挟む
朝から蒸し暑い空気、さんさんと照りつける太陽、セミの鳴き声が一層本格的になり、廊下を歩いているときに感じる、教室からこぼれてきた冷風の心地良さといったら……
「あっつい!」
咲良が不機嫌そうに叫ぶ。
「暑いなあ」
「まだ梅雨明けしてねーの? これで?」
「まだだなあ」
人がひしめく廊下は、居心地が悪いったらありゃしない。しかもこの後、冷房のない体育館に押し込められるのだ。体育祭の係決めとか出場競技決めだとかいうけど、教室でできないものだろうか。
そりゃ、いくらブロックごととはいえ、全学年が入ればクーラーあっても暑いかもしんないけど、体育館よりはいいだろう。
扇風機まわってるけど、あれが逆に暑さを助長させている気もする。
「あ、いいこと思いついた」
と、咲良が汗をぬぐいながら言う。
「一応聞いてやるよ、何だ」
「調子が悪くなったって言って、さぼる」
「無理だろ」
「いや、こういうことはやってみなくちゃ分かんない」
「一人でやれよ」
そう言えば咲良は渋々といった様子で諦めた。いや、渋々ってなんだ。いくら嫌でも、出なきゃ成績に関わるんだからな。
「ただでさえ体育の成績悪いのに、これ以上悪化させられるかよ」
「体調悪くなるよりよくない?」
「……たまにはいいこと言うな、咲良」
これも暑さのせいだろうか。
日光は当たるが風通しのいい外廊下に出ようとしたところだった。
「一条! 井上!」
声のした方を見れば、人波から外れたところに早瀬がいた。隣には朝比奈もいる。流れる人波に押されながら、二人の方へ抜け出す。このまま押されてたら、戻るのは至難の業だ。
こういう時いつも、血管を思い出す。血液の逆流を防ぐために静脈には弁がついている……だっけ、教科書にあったなあ。
「この場合の弁って、何だろう」
「一条、大丈夫か……?」
「あー、うん。大丈夫」
いかんいかん、暑さのせいで、思ったことがそのまま口から出てしまうようだ。朝比奈が目を細めてこっちを見ていた。
「で、何だ? 早瀬が呼ぶっつーことは、放送部関連だろ?」
朝比奈もいるし、と咲良が言うと、早瀬は首を縦に振った。
「放送部は視聴覚室集合だってさ」
「じゃあ、体育館いかなくていい?」
「各ブロックには通達済みだって」
三階から降りてくる三年生の圧に押されつつ、何とか視聴覚室にたどり着く。視聴覚室の中は程よく涼しく、今、この学校の中で心地よい場所の一つであることに違いなかった。
「いやあ~、なんだか悪いね!」
咲良は言いながら、さっきとは打って変わって上機嫌になっていた。
「みんなは暑い中で話し合い……いや、俺らだけいい思いをするなんて……」
「口角上がってるぞ、咲良」
すると早瀬がやって来て、生ぬるい笑みを浮かべて言った。
「まあ、笑わせといてやれ」
「えっ?」
「今だけだから……」
早瀬のその言葉の意味は、すぐに分かった。
間もなくして、矢口先生がやって来た。そして連れてこられたのは、一階の用具倉庫。
「さあ、機材の確認だよ」
結局、涼しい思いをしたのは一瞬で、あとは灼熱の中、機材を出し続けた。動作の確認とか、外での練習が始まったとき、スムーズに準備ができるように機材の場所を移動させるとか……
雨でも降ったのか、というくらい汗をかき、一段落する頃には係決めの方も終わっていた。
「これ、絞ったら汗出てくるんじゃね……?」
咲良が言い、シャツの一番上のボタンを開けた。確かに、なんだかシャツが重い。
「はい、ご苦労様。今日はこれでおしまいね。また、頼んだよ」
矢口先生の言葉に、ただ、「はい」と答えるのですら体力をごっそり持って行かれる気分であった。
「っはー、疲れた……」
風呂に入って汗を流し、クーラーの効いた部屋のソファに横になる。なんとまあ、贅沢なことだろう。
「今日も暑かったもんねえ」
そう言いながら、母さんは手際よく晩飯の用意をしていた。
「しっかり食べないと、ばてちゃうよ」
「夏バテにはまだ早い……」
のっそりと起き上がり、食卓につく。
「梅雨も明けてないしな」
と、父さんが言った。
テーブルの上には、今日も丼が並んでいる。
「いただきます」
今日はマグロのづけ丼だ。しかもそれに、オクラと山芋がのっている。なんて元気が出そうなんだ。がっつりしつつも、ひんやり、あっさりしている感じがまたいい。
まずはマグロから。わさびをつけて……っと。
うっすら醤油色で、つやつやで、表面が透き通ってすら見えるマグロ。漬けだからかねっちりした食感で、甘い。とろりととろけるようで、少し歯ごたえのある感じ。ピリッとわさびの辛さが際立つ。
魚の風味に、ご飯。これだけで豪華な気分だ。
そこにとろろの粘り気。出汁が効いていて、淡白な味わいながらもうま味たっぷりで、サラサラッと入っていく。暑いときのとろろって、どうしてこう、ありがたいんだろう。
マグロと一緒に食べると、ひんやりが増す。んん、このひんやり、さらっと、ねっちり。ホロッと崩れるごはん。たまらないなあ、おいしいなあ。あ、わさび。ピリッと辛い。ちょっと多すぎたかな、でもうまい。
オクラの粘り気がすごいな。ザクザク青いところと、プチプチの種。茹でただけのオクラが、こうもうまいとは。
マグロ、とろろ、オクラ、ご飯。全部まとめて口に入れる。
あはは、これ、口いっぱい。とろみがあるから余計に。でも、いろんな味がいっぺんに来て、でもあっさりしてて、うまい。
さて、がっつり飯も食ったし、ぐっすり寝れば、また体力回復するだろ。たぶん。
まだまだ夏は長い。こんなところで、ばてている暇はないのである。
「ごちそうさまでした」
「あっつい!」
咲良が不機嫌そうに叫ぶ。
「暑いなあ」
「まだ梅雨明けしてねーの? これで?」
「まだだなあ」
人がひしめく廊下は、居心地が悪いったらありゃしない。しかもこの後、冷房のない体育館に押し込められるのだ。体育祭の係決めとか出場競技決めだとかいうけど、教室でできないものだろうか。
そりゃ、いくらブロックごととはいえ、全学年が入ればクーラーあっても暑いかもしんないけど、体育館よりはいいだろう。
扇風機まわってるけど、あれが逆に暑さを助長させている気もする。
「あ、いいこと思いついた」
と、咲良が汗をぬぐいながら言う。
「一応聞いてやるよ、何だ」
「調子が悪くなったって言って、さぼる」
「無理だろ」
「いや、こういうことはやってみなくちゃ分かんない」
「一人でやれよ」
そう言えば咲良は渋々といった様子で諦めた。いや、渋々ってなんだ。いくら嫌でも、出なきゃ成績に関わるんだからな。
「ただでさえ体育の成績悪いのに、これ以上悪化させられるかよ」
「体調悪くなるよりよくない?」
「……たまにはいいこと言うな、咲良」
これも暑さのせいだろうか。
日光は当たるが風通しのいい外廊下に出ようとしたところだった。
「一条! 井上!」
声のした方を見れば、人波から外れたところに早瀬がいた。隣には朝比奈もいる。流れる人波に押されながら、二人の方へ抜け出す。このまま押されてたら、戻るのは至難の業だ。
こういう時いつも、血管を思い出す。血液の逆流を防ぐために静脈には弁がついている……だっけ、教科書にあったなあ。
「この場合の弁って、何だろう」
「一条、大丈夫か……?」
「あー、うん。大丈夫」
いかんいかん、暑さのせいで、思ったことがそのまま口から出てしまうようだ。朝比奈が目を細めてこっちを見ていた。
「で、何だ? 早瀬が呼ぶっつーことは、放送部関連だろ?」
朝比奈もいるし、と咲良が言うと、早瀬は首を縦に振った。
「放送部は視聴覚室集合だってさ」
「じゃあ、体育館いかなくていい?」
「各ブロックには通達済みだって」
三階から降りてくる三年生の圧に押されつつ、何とか視聴覚室にたどり着く。視聴覚室の中は程よく涼しく、今、この学校の中で心地よい場所の一つであることに違いなかった。
「いやあ~、なんだか悪いね!」
咲良は言いながら、さっきとは打って変わって上機嫌になっていた。
「みんなは暑い中で話し合い……いや、俺らだけいい思いをするなんて……」
「口角上がってるぞ、咲良」
すると早瀬がやって来て、生ぬるい笑みを浮かべて言った。
「まあ、笑わせといてやれ」
「えっ?」
「今だけだから……」
早瀬のその言葉の意味は、すぐに分かった。
間もなくして、矢口先生がやって来た。そして連れてこられたのは、一階の用具倉庫。
「さあ、機材の確認だよ」
結局、涼しい思いをしたのは一瞬で、あとは灼熱の中、機材を出し続けた。動作の確認とか、外での練習が始まったとき、スムーズに準備ができるように機材の場所を移動させるとか……
雨でも降ったのか、というくらい汗をかき、一段落する頃には係決めの方も終わっていた。
「これ、絞ったら汗出てくるんじゃね……?」
咲良が言い、シャツの一番上のボタンを開けた。確かに、なんだかシャツが重い。
「はい、ご苦労様。今日はこれでおしまいね。また、頼んだよ」
矢口先生の言葉に、ただ、「はい」と答えるのですら体力をごっそり持って行かれる気分であった。
「っはー、疲れた……」
風呂に入って汗を流し、クーラーの効いた部屋のソファに横になる。なんとまあ、贅沢なことだろう。
「今日も暑かったもんねえ」
そう言いながら、母さんは手際よく晩飯の用意をしていた。
「しっかり食べないと、ばてちゃうよ」
「夏バテにはまだ早い……」
のっそりと起き上がり、食卓につく。
「梅雨も明けてないしな」
と、父さんが言った。
テーブルの上には、今日も丼が並んでいる。
「いただきます」
今日はマグロのづけ丼だ。しかもそれに、オクラと山芋がのっている。なんて元気が出そうなんだ。がっつりしつつも、ひんやり、あっさりしている感じがまたいい。
まずはマグロから。わさびをつけて……っと。
うっすら醤油色で、つやつやで、表面が透き通ってすら見えるマグロ。漬けだからかねっちりした食感で、甘い。とろりととろけるようで、少し歯ごたえのある感じ。ピリッとわさびの辛さが際立つ。
魚の風味に、ご飯。これだけで豪華な気分だ。
そこにとろろの粘り気。出汁が効いていて、淡白な味わいながらもうま味たっぷりで、サラサラッと入っていく。暑いときのとろろって、どうしてこう、ありがたいんだろう。
マグロと一緒に食べると、ひんやりが増す。んん、このひんやり、さらっと、ねっちり。ホロッと崩れるごはん。たまらないなあ、おいしいなあ。あ、わさび。ピリッと辛い。ちょっと多すぎたかな、でもうまい。
オクラの粘り気がすごいな。ザクザク青いところと、プチプチの種。茹でただけのオクラが、こうもうまいとは。
マグロ、とろろ、オクラ、ご飯。全部まとめて口に入れる。
あはは、これ、口いっぱい。とろみがあるから余計に。でも、いろんな味がいっぺんに来て、でもあっさりしてて、うまい。
さて、がっつり飯も食ったし、ぐっすり寝れば、また体力回復するだろ。たぶん。
まだまだ夏は長い。こんなところで、ばてている暇はないのである。
「ごちそうさまでした」
24
お気に入りに追加
252
あなたにおすすめの小説
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
実力を隠し「例え長男でも無能に家は継がせん。他家に養子に出す」と親父殿に言われたところまでは計算通りだったが、まさかハーレム生活になるとは
竹井ゴールド
ライト文芸
日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。
その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。
青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。
その後がよろしくない。
青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。
妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。
長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。
次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。
三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。
四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。
この5人とも青夜は家族となり、
・・・何これ? 少し想定外なんだけど。
【2023/3/23、24hポイント26万4600pt突破】
【2023/7/11、累計ポイント550万pt突破】
【2023/6/5、お気に入り数2130突破】
【アルファポリスのみの投稿です】
【第6回ライト文芸大賞、22万7046pt、2位】
【2023/6/30、メールが来て出版申請、8/1、慰めメール】
【未完】
Husband's secret (夫の秘密)
設樂理沙
ライト文芸
果たして・・
秘密などあったのだろうか!
夫のカノジョ / 垣谷 美雨 さま(著) を読んで
Another Storyを考えてみました。
むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ
10秒~30秒?
何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。
❦ イラストはAI生成画像 自作
【本編完結】繚乱ロンド
由宇ノ木
ライト文芸
番外編更新日 12/25日
*『とわずがたり~思い出を辿れば~1 』
本編は完結。番外編を不定期で更新。
11/11,11/15,11/19
*『夫の疑問、妻の確信1~3』
10/12
*『いつもあなたの幸せを。』
9/14
*『伝統行事』
8/24
*『ひとりがたり~人生を振り返る~』
お盆期間限定番外編 8月11日~8月16日まで
*『日常のひとこま』は公開終了しました。
7月31日
*『恋心』・・・本編の171、180、188話にチラッと出てきた京司朗の自室に礼夏が現れたときの話です。
6/18
*『ある時代の出来事』
6/8
*女の子は『かわいい』を見せびらかしたい。全1頁。
*光と影 全1頁。
-本編大まかなあらすじ-
*青木みふゆは23歳。両親も妹も失ってしまったみふゆは一人暮らしで、花屋の堀内花壇の支店と本店に勤めている。花の仕事は好きで楽しいが、本店勤務時は事務を任されている二つ年上の林香苗に妬まれ嫌がらせを受けている。嫌がらせは徐々に増え、辟易しているみふゆは転職も思案中。
林香苗は堀内花壇社長の愛人でありながら、店のお得意様の、裏社会組織も持つといわれる惣領家の当主・惣領貴之がみふゆを気に入ってかわいがっているのを妬んでいるのだ。
そして、惣領貴之の懐刀とされる若頭・仙道京司朗も海外から帰国。みふゆが貴之に取り入ろうとしているのではないかと、京司朗から疑いをかけられる。
みふゆは自分の微妙な立場に悩みつつも、惣領貴之との親交を深め養女となるが、ある日予知をきっかけに高熱を出し年齢を退行させてゆくことになる。みふゆの心は子供に戻っていってしまう。
令和5年11/11更新内容(最終回)
*199. (2)
*200. ロンド~踊る命~ -17- (1)~(6)
*エピローグ ロンド~廻る命~
本編最終回です。200話の一部を199.(2)にしたため、199.(2)から最終話シリーズになりました。
※この物語はフィクションです。実在する団体・企業・人物とはなんら関係ありません。架空の町が舞台です。
現在の関連作品
『邪眼の娘』更新 令和6年1/7
『月光に咲く花』(ショートショート)
以上2作品はみふゆの母親・水無瀬礼夏(青木礼夏)の物語。
『恋人はメリーさん』(主人公は京司朗の後輩・東雲結)
『繚乱ロンド』の元になった2作品
『花物語』に入っている『カサブランカ・ダディ(全五話)』『花冠はタンポポで(ショートショート)』
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる