一条春都の料理帖

藤里 侑

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日常

第七百三十八話 マグロ丼

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 朝から蒸し暑い空気、さんさんと照りつける太陽、セミの鳴き声が一層本格的になり、廊下を歩いているときに感じる、教室からこぼれてきた冷風の心地良さといったら……
「あっつい!」
 咲良が不機嫌そうに叫ぶ。
「暑いなあ」
「まだ梅雨明けしてねーの? これで?」
「まだだなあ」
 人がひしめく廊下は、居心地が悪いったらありゃしない。しかもこの後、冷房のない体育館に押し込められるのだ。体育祭の係決めとか出場競技決めだとかいうけど、教室でできないものだろうか。
 そりゃ、いくらブロックごととはいえ、全学年が入ればクーラーあっても暑いかもしんないけど、体育館よりはいいだろう。
 扇風機まわってるけど、あれが逆に暑さを助長させている気もする。
「あ、いいこと思いついた」
 と、咲良が汗をぬぐいながら言う。
「一応聞いてやるよ、何だ」
「調子が悪くなったって言って、さぼる」
「無理だろ」
「いや、こういうことはやってみなくちゃ分かんない」
「一人でやれよ」
 そう言えば咲良は渋々といった様子で諦めた。いや、渋々ってなんだ。いくら嫌でも、出なきゃ成績に関わるんだからな。
「ただでさえ体育の成績悪いのに、これ以上悪化させられるかよ」
「体調悪くなるよりよくない?」
「……たまにはいいこと言うな、咲良」
 これも暑さのせいだろうか。
 日光は当たるが風通しのいい外廊下に出ようとしたところだった。
「一条! 井上!」
 声のした方を見れば、人波から外れたところに早瀬がいた。隣には朝比奈もいる。流れる人波に押されながら、二人の方へ抜け出す。このまま押されてたら、戻るのは至難の業だ。
 こういう時いつも、血管を思い出す。血液の逆流を防ぐために静脈には弁がついている……だっけ、教科書にあったなあ。
「この場合の弁って、何だろう」
「一条、大丈夫か……?」
「あー、うん。大丈夫」
 いかんいかん、暑さのせいで、思ったことがそのまま口から出てしまうようだ。朝比奈が目を細めてこっちを見ていた。
「で、何だ? 早瀬が呼ぶっつーことは、放送部関連だろ?」
 朝比奈もいるし、と咲良が言うと、早瀬は首を縦に振った。
「放送部は視聴覚室集合だってさ」
「じゃあ、体育館いかなくていい?」
「各ブロックには通達済みだって」
 三階から降りてくる三年生の圧に押されつつ、何とか視聴覚室にたどり着く。視聴覚室の中は程よく涼しく、今、この学校の中で心地よい場所の一つであることに違いなかった。
「いやあ~、なんだか悪いね!」
 咲良は言いながら、さっきとは打って変わって上機嫌になっていた。
「みんなは暑い中で話し合い……いや、俺らだけいい思いをするなんて……」
「口角上がってるぞ、咲良」
 すると早瀬がやって来て、生ぬるい笑みを浮かべて言った。
「まあ、笑わせといてやれ」
「えっ?」
「今だけだから……」
 早瀬のその言葉の意味は、すぐに分かった。
 間もなくして、矢口先生がやって来た。そして連れてこられたのは、一階の用具倉庫。
「さあ、機材の確認だよ」
 結局、涼しい思いをしたのは一瞬で、あとは灼熱の中、機材を出し続けた。動作の確認とか、外での練習が始まったとき、スムーズに準備ができるように機材の場所を移動させるとか……
 雨でも降ったのか、というくらい汗をかき、一段落する頃には係決めの方も終わっていた。
「これ、絞ったら汗出てくるんじゃね……?」
 咲良が言い、シャツの一番上のボタンを開けた。確かに、なんだかシャツが重い。
「はい、ご苦労様。今日はこれでおしまいね。また、頼んだよ」
 矢口先生の言葉に、ただ、「はい」と答えるのですら体力をごっそり持って行かれる気分であった。

「っはー、疲れた……」
 風呂に入って汗を流し、クーラーの効いた部屋のソファに横になる。なんとまあ、贅沢なことだろう。
「今日も暑かったもんねえ」
 そう言いながら、母さんは手際よく晩飯の用意をしていた。
「しっかり食べないと、ばてちゃうよ」
「夏バテにはまだ早い……」
 のっそりと起き上がり、食卓につく。
「梅雨も明けてないしな」
 と、父さんが言った。
 テーブルの上には、今日も丼が並んでいる。
「いただきます」
 今日はマグロのづけ丼だ。しかもそれに、オクラと山芋がのっている。なんて元気が出そうなんだ。がっつりしつつも、ひんやり、あっさりしている感じがまたいい。
 まずはマグロから。わさびをつけて……っと。
 うっすら醤油色で、つやつやで、表面が透き通ってすら見えるマグロ。漬けだからかねっちりした食感で、甘い。とろりととろけるようで、少し歯ごたえのある感じ。ピリッとわさびの辛さが際立つ。
 魚の風味に、ご飯。これだけで豪華な気分だ。
 そこにとろろの粘り気。出汁が効いていて、淡白な味わいながらもうま味たっぷりで、サラサラッと入っていく。暑いときのとろろって、どうしてこう、ありがたいんだろう。
 マグロと一緒に食べると、ひんやりが増す。んん、このひんやり、さらっと、ねっちり。ホロッと崩れるごはん。たまらないなあ、おいしいなあ。あ、わさび。ピリッと辛い。ちょっと多すぎたかな、でもうまい。
 オクラの粘り気がすごいな。ザクザク青いところと、プチプチの種。茹でただけのオクラが、こうもうまいとは。
 マグロ、とろろ、オクラ、ご飯。全部まとめて口に入れる。
 あはは、これ、口いっぱい。とろみがあるから余計に。でも、いろんな味がいっぺんに来て、でもあっさりしてて、うまい。
 さて、がっつり飯も食ったし、ぐっすり寝れば、また体力回復するだろ。たぶん。
 まだまだ夏は長い。こんなところで、ばてている暇はないのである。

「ごちそうさまでした」
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