一条春都の料理帖

藤里 侑

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日常

第六百二十一話 ステーキ

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 新学期が始まり、授業やら体育祭準備やらに追われていたら、時がたつのはあっという間だ。暑い暑いと思っていたのに、気が付けば吹く風が冷たくなり、セミの声も聞こえず、夜になると鈴虫かツユムシかが鳴き始めた。
 夜寝るときにクーラーを付けなくなり、うっすら開けていた窓を閉めるようになると、寒さが本格化してきたのだなあと実感する。
 そろそろ、冬服を準備しておく必要がありそうだ。

 今年は、体育祭の練習期間が長い。暑さの和らぐ時期に開催を延期したのだそうだ。その分、練習も長くなるので部活動の時間も必然的に増える。
 屋外での練習が始まると仕事量は増える一方だ。他の生徒が来る前にスピーカーとかマイクとかを準備して、テーブルとか出して、CDの確認して、それから……とにかく、外での練習がつつがなく行われるように準備する必要がある。
 こまごまとした機材を倉庫から持ち出す。上靴から外靴に履き替えるその手間も繰り返すとかなりしんどい。
 外に出ると、夜ほどではないが少しひんやりとした風が吹く。それに乗って、甘い花の香りがやってきた。ああ、きんもくせいだ。
 近くの家に咲いているのを見たが、ここまで漂ってくるんだもんなあ。
「なんか今、すげーきんもくせいの匂いしなかった?」
 と、校庭の方からやってきた咲良が言う。
「した」
「なー、きんもくせいってすごいよな~」
「お前、準備は?」
 話しながら校庭に向かおうとするが、咲良は気が進まないらしい。やけに足取りが重い。なんだ、さぼりか? いや、でも矢口先生がいる手前、さぼるはずもなかろう。
 咲良の足取りに合わせていたら、朝比奈もやって来た。
「どうした、朝比奈」
 少し困ったような顔は寒さのせいかとも思ったが、そうじゃないらしい。
「なんか……空気悪くて、つい」
「やっぱり?」
 と咲良は苦笑する。
「なんだ、なんかあったのか」
「それがさあ、ちょっともめてんの」
 咲良は先ほど起きた一部始終……まあ、まだ事は終わっていないらしいが、一連のことを話し始めた。
「何でも、原稿を大幅に変更したいって、体育祭実行委員が言ってきたみたいで」
「変更? なんでまた」
「なんか、もともと違う原稿を準備してたらしいんだけど、提出ミスったみたいで」
「原稿提出の期間に余裕がなさすぎって、文句付き」
 と、朝比奈が補足する。校庭に近づくにつれて、矢口先生と、部員たちの声が聞こえて来た。まだはっきりと言葉は聞き取れないが、いい雰囲気ではないことは確かだ。見れば、確かに実行委員もいる。
「しかもさ」
 咲良は少し声を潜めて言った。
「一年生の逆らえそうもないやつに押し付けるような感じで言ってたらしくて」
「前から約束してた原稿ができたとか何とか言って……」
「それを矢口先生が知ったもんだから、大変で」
「実際、聞いてないんだよな? その、原稿が変更されるって」
 その問いに、二人はそろって頷いた。
 なんというか……学校行事ってどうしてこう、トラブルがつきものなんだろう。そりゃあ、まあ、大勢の人間が動くからトラブルは起きて仕方ないんだろうけど、局所的に不穏な空気になるよなあ。
 それも、学校行事の醍醐味と言われればそれまでなんだけど、巻き込まれる側からすれば、迷惑極まりない話だ。まあ、こういうのも、体育祭の最後の挨拶とかで「様々な困難を乗り越え……」とかそういうふうにまとめられてしまうんだなあ。
「どうなるんだろうな」
 そうつぶやけば、朝比奈が遠い目をしながら言った。
「まあ……どっかで妥協案を探すんじゃない? 実行委員のことをないがしろにはできないだろうし」
「また仕事が増えた……」
 放送を担う部員の仕事が増えるということは、別の仕事が俺たち雑用担当部員に回ってくるというわけだ。
 厄介なことを引き起こしてくれたもんだ。

 結局、原稿騒動は最終下校時間ギリギリまで考えたが妥当な結論は出ず、明日に持ち越しとなった。学校行事の準備期間中、最後に帰るのは放送部というのはよくあることらしい。
 家に帰りついたのは、午後七時を回った頃だった。日暮れが早くなった今、外は真っ暗で寒い。
「ただいまー……あ?」
 扉を開けた途端、なんかすげぇいいにおいが。きんもくせいとかじゃない。俺が最も好きな匂い。おいしい飯の匂いだ。
「おかえり。今日も遅かったね、お疲れ様」
 台所に立つ母さんが笑って言う。手元では何かが焼けていた。
「見てよこれ、ばあちゃんからもらったんだけど、ほら。懸賞で当たったって」
「うっわ、なにこの肉」
 分厚い牛肉がこんがりと、にんにく泳ぐ油の中で焼けている。ばあちゃんが買い物に行った先で、気まぐれに応募した懸賞が当たったんだと。全部は食べきれないから、人数分貰って来たのだそうだ。
「おっ、春都おかえり~」
 風呂から上がった父さんが冷蔵庫に向かう。ビールを取り出しながら笑って言った。
「すごい肉だよなあ。ほれ、さっと風呂入って来い」
「ご飯も炊きたて、肉は焼きたてで待ってるよ」
 と、母さんも言う。そりゃもう、言われなくとも。
 今日も一日外の練習で砂まみれになった体をきれいにし、今日あったいろんな出来事も洗い流したら、とっとと居間に向かう。焼きたての肉は切り分けられ、にんにくと醤油と肉の脂を熱したものがかかっている。マッシュポテトも添えられて、完璧なのではなかろうか。
「いただきます」
 箸でつまんだ時点で、なんか違うって分かる。こう、やわらかいだけじゃなくて、しっかりとした感じもあって、重みもあって……断面がつやつやしている。
 恐る恐る一口。
 カリッと香ばしい表面にはじけるような、その一方で吸い込まれるような肉質。舌になじみ、甘味とうま味があふれ出す。脂は上質でくどくない。赤身の部分は少し噛み応えが合って、むぎゅっむぎゅっとする感じだ。
 それににんにくの風味が相まって、風味がこれ以上ないくらいに良い。すごくいい。匂いだけでご飯が進みそうなくらいだ。でも、俺には肉そのものがある。
 ご飯と一緒に食べてみる。醤油がかかった肉は、米に合うんだな、これが。白米と肉、ただでさえうまい組み合わせなのに、この肉ときたら、すいすい入ってしまう。ゆっくり味わいたいのに、うますぎて箸が止まらない。
ポテトを肉汁につけて食べてみる。これもうまい。肉につけて食べて見ようかな。あっ、これ、正解。うまい! 肉の濃い味わいとポテトのまろやかさがよく合う。
「すっごい、おいしいね」
 母さんが感動したように言うと、父さんが隣で頷いた。
「うん。この肉、おいしい」
「おいしい。すごい」
 俺も言うと、父さんも母さんも笑って頷いた。
 とろけるような肉、とは聞いたことがあるが、まさしくこの肉がそうなのだろう。口当たりがとろけるようなのだ。でもちゃんと肉らしい噛み応えもある。
 いやあ、こりゃ、ばあちゃんに感謝だな。
 あ、原稿のこと、忘れてた。まいっか。うまいもん食う時は、余計なこと考えないに限る。
 最後の一切れ、大事に食おう。またいつか、食べられるといいなあ。

「ごちそうさまでした」
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