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日常
第四百二十三話 シャインマスカット
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「えーっ、なんだよそれぇ~」
往来のある廊下で、咲良は不満げに声を上げた。よく通るその声に何人かが振り返り、いぶかしげな視線を向ける者もいて、咲良はハッと口に手を当てる。
視線がよそにそれたところで、咲良は先ほどより声を潜めて言った。
「何で呼んでくんないの?」
「いや、急だったし……」
「俺はたいてい、急な呼び出しにも応じることのできる男だ」
「知らんがな」
咲良はぶすぶすと文句を垂れる。
「大体さあ、春都。お前、山下さん苦手じゃなかった?」
「苦手っていうか……」
どう相手をすればいいのか分からないだけであって、苦手ということではないのだがなあ。というか、ノリとテンションは咲良に似てないこともないのだが。
「俺に助け求めてきてたくせに」
「あれは、会ってすぐのことだったから」
「ちぇーっ。何だよぉ」
と、口をとがらせて咲良は幼い子どものようにすねる。
今日の朝、残っていたアップルパイを食べてきたことは言わないでおいた方がよさそうだ。
ひんやりと冷えたアップルパイもなかなかにうまかった。パイ生地は噛み応えがあり、バターの風味は程よく香り、リンゴは時間がたったというのにみずみずしさを増し、爽やかで、うまかったなあ。
食べ応えもあるから、昼ご飯とかにしてもよさそうだった。
咲良はムッと頬を膨らませ、腕を組んで言った。
「食べたかったなあ、アップルパイ」
「えっ、アップルパイ?」
再び、よく通る声が廊下に響く。しかし今度の声の主は咲良ではなく、百瀬だ。「信じられない」というような表情で、こちらを見上げている。
再びこちらにいぶかしげな視線がむけられる。しかし、百瀬はそんなことなど気にする様子もない。何なら、大声を上げていない俺たちの方がいたたまれない気分になるようだった。
視線が散るのを待たずに、百瀬は声を発した。
「アップルパイって何? 俺今年まだアップルパイ食ってないんだけど!」
「いや知らんよ」
半ば呆れ気味に言うが、百瀬は意に介さず、しつこく続けた。
「いっつも買いに行ってる洋菓子屋があるんだけどさ。あ、そこ、めっちゃ安くてね、ケーキ一個百円セールとかやってるときあんの。お高いケーキもあるにはあるんだけど、小学生が小遣い握りしめてくるような店でね、老舗でね」
「お、おう」
あの咲良にして、百瀬の熱弁に押されている。百瀬は続けた。
「そこのアップルパイがさあ、うまくてうまくて。毎年、リンゴの時季になると買いに行ってるんだけど」
百瀬は両手で丸を作るようなジェスチャーを見せながら言う。
「こう、一つ百五十円でね、丸くて、リンゴがぎっしり詰まってるんだけど、すっごいおいしいの」
周囲の生徒らは百瀬の熱弁を遠巻きに見ていたが、やがて興味を失ったらしく、ざわめきが戻り始める。
「それが、こないだテレビに出たせいで、買い占められててさあ。見たこともないようなナンバーの車があっちこっちに止まってて、店に寄りつくにも精いっぱい」
ふう、と百瀬は一息ついて不服そうな表情を浮かべた。
「で、店に行けるのは夕方ぐらいで、その頃にはもういろいろ売り切れてんの。まあ、アップルパイは午前中に売り切れてるらしいんだけど、他のケーキもほとんどなくてさ」
「あー、テレビに出るとあるあるだよなあ」
咲良がやけに真実味のある口調で同意した。まあ、俺にも心当たりがないでもない。
こういう田舎町にテレビ局が来て、何かと取り上げると、ものすごく人が増える、ということがある。おかげで日常生活がうまく回らなかったり、欲しいものが買えなかったりと、ちょっとした弊害も起こるわけだ。
しかし百瀬にとっては、ちょっとした、という感じではない。とんでもなく重大で、とんでもなく不本意なことなのだろう。むうッと不機嫌さを隠さずに言った。
「だからいまアップルパイ欠乏症なわけ」
「アップルパイ欠乏症」
ファンシーなんだか物騒なんだかわからないネーミングに、思わず繰り返す。
「そ、だからさあ、一条」
百瀬はにっこりと笑い、腕をガシッとつかんで来た。えっ、何、怖い。
「今度アップルパイ作ったらさあ、持ってきて」
「あーっ、抜け駆けだぁ。ずるい!」
すると咲良もこちらになんとも力強い視線を向けてきた。
「俺も! 俺の分も!」
「分かった、分かったから、落ち着け」
家にはまだまだたんまりリンゴがあることだし、パイ生地も買ってくればいい。翌日まで日持ちするし、そう焦らなくても。
「作ってちゃんと持ってくるから」
「やったー!」
まったく、人騒がせなやつらである。
ぐったりとくたびれて家に帰れば、母さんから荷物が届いていた。開けてみれば何と、シャインマスカットではないか。冷やして、今日の晩飯の後にでも食おう。
「おおー、実がパツパツ」
はちきれんばかりの実である。こりゃ期待大だ。
「いただきます」
一つ、ちぎって食べる。口元に持っていっただけでこの香り、爽やかで、甘い香り。たまらん。
パリッと歯切れのよい皮を噛めば、先ほどとはケタ違いの香りが広がる。まるで香りを閉じ込めたカプセルか何かが一気に開いたようである。実もジューシーで、口いっぱいにさわやかな香りとすっきりとした甘みが広がる。
これこれ、これが食いたかった。ケーキとかにのってるマスカットもいいけど、やっぱこのまんま食うの、好きだなあ。
房に付いたまま、かじってみる。なんか新鮮さが違う、気がする。ぜいたくな食べ方だ。どっかのお偉い貴族様にでもなった気分だ。
一口で食べず、噛んで、じっくり味わって、また食べて、というのもいいが、やはり一口でいきたいものである。
口いっぱいに広がる果汁は、幸せしかない。シャキシャキの皮とみずみずしい実。もうたまんないなあ。
旬だからこそ味わえる、贅沢な果物の味。堪能させていただきました。
……あわよくばあと数回、なんて、欲張りか?
「ごちそうさまでした」
往来のある廊下で、咲良は不満げに声を上げた。よく通るその声に何人かが振り返り、いぶかしげな視線を向ける者もいて、咲良はハッと口に手を当てる。
視線がよそにそれたところで、咲良は先ほどより声を潜めて言った。
「何で呼んでくんないの?」
「いや、急だったし……」
「俺はたいてい、急な呼び出しにも応じることのできる男だ」
「知らんがな」
咲良はぶすぶすと文句を垂れる。
「大体さあ、春都。お前、山下さん苦手じゃなかった?」
「苦手っていうか……」
どう相手をすればいいのか分からないだけであって、苦手ということではないのだがなあ。というか、ノリとテンションは咲良に似てないこともないのだが。
「俺に助け求めてきてたくせに」
「あれは、会ってすぐのことだったから」
「ちぇーっ。何だよぉ」
と、口をとがらせて咲良は幼い子どものようにすねる。
今日の朝、残っていたアップルパイを食べてきたことは言わないでおいた方がよさそうだ。
ひんやりと冷えたアップルパイもなかなかにうまかった。パイ生地は噛み応えがあり、バターの風味は程よく香り、リンゴは時間がたったというのにみずみずしさを増し、爽やかで、うまかったなあ。
食べ応えもあるから、昼ご飯とかにしてもよさそうだった。
咲良はムッと頬を膨らませ、腕を組んで言った。
「食べたかったなあ、アップルパイ」
「えっ、アップルパイ?」
再び、よく通る声が廊下に響く。しかし今度の声の主は咲良ではなく、百瀬だ。「信じられない」というような表情で、こちらを見上げている。
再びこちらにいぶかしげな視線がむけられる。しかし、百瀬はそんなことなど気にする様子もない。何なら、大声を上げていない俺たちの方がいたたまれない気分になるようだった。
視線が散るのを待たずに、百瀬は声を発した。
「アップルパイって何? 俺今年まだアップルパイ食ってないんだけど!」
「いや知らんよ」
半ば呆れ気味に言うが、百瀬は意に介さず、しつこく続けた。
「いっつも買いに行ってる洋菓子屋があるんだけどさ。あ、そこ、めっちゃ安くてね、ケーキ一個百円セールとかやってるときあんの。お高いケーキもあるにはあるんだけど、小学生が小遣い握りしめてくるような店でね、老舗でね」
「お、おう」
あの咲良にして、百瀬の熱弁に押されている。百瀬は続けた。
「そこのアップルパイがさあ、うまくてうまくて。毎年、リンゴの時季になると買いに行ってるんだけど」
百瀬は両手で丸を作るようなジェスチャーを見せながら言う。
「こう、一つ百五十円でね、丸くて、リンゴがぎっしり詰まってるんだけど、すっごいおいしいの」
周囲の生徒らは百瀬の熱弁を遠巻きに見ていたが、やがて興味を失ったらしく、ざわめきが戻り始める。
「それが、こないだテレビに出たせいで、買い占められててさあ。見たこともないようなナンバーの車があっちこっちに止まってて、店に寄りつくにも精いっぱい」
ふう、と百瀬は一息ついて不服そうな表情を浮かべた。
「で、店に行けるのは夕方ぐらいで、その頃にはもういろいろ売り切れてんの。まあ、アップルパイは午前中に売り切れてるらしいんだけど、他のケーキもほとんどなくてさ」
「あー、テレビに出るとあるあるだよなあ」
咲良がやけに真実味のある口調で同意した。まあ、俺にも心当たりがないでもない。
こういう田舎町にテレビ局が来て、何かと取り上げると、ものすごく人が増える、ということがある。おかげで日常生活がうまく回らなかったり、欲しいものが買えなかったりと、ちょっとした弊害も起こるわけだ。
しかし百瀬にとっては、ちょっとした、という感じではない。とんでもなく重大で、とんでもなく不本意なことなのだろう。むうッと不機嫌さを隠さずに言った。
「だからいまアップルパイ欠乏症なわけ」
「アップルパイ欠乏症」
ファンシーなんだか物騒なんだかわからないネーミングに、思わず繰り返す。
「そ、だからさあ、一条」
百瀬はにっこりと笑い、腕をガシッとつかんで来た。えっ、何、怖い。
「今度アップルパイ作ったらさあ、持ってきて」
「あーっ、抜け駆けだぁ。ずるい!」
すると咲良もこちらになんとも力強い視線を向けてきた。
「俺も! 俺の分も!」
「分かった、分かったから、落ち着け」
家にはまだまだたんまりリンゴがあることだし、パイ生地も買ってくればいい。翌日まで日持ちするし、そう焦らなくても。
「作ってちゃんと持ってくるから」
「やったー!」
まったく、人騒がせなやつらである。
ぐったりとくたびれて家に帰れば、母さんから荷物が届いていた。開けてみれば何と、シャインマスカットではないか。冷やして、今日の晩飯の後にでも食おう。
「おおー、実がパツパツ」
はちきれんばかりの実である。こりゃ期待大だ。
「いただきます」
一つ、ちぎって食べる。口元に持っていっただけでこの香り、爽やかで、甘い香り。たまらん。
パリッと歯切れのよい皮を噛めば、先ほどとはケタ違いの香りが広がる。まるで香りを閉じ込めたカプセルか何かが一気に開いたようである。実もジューシーで、口いっぱいにさわやかな香りとすっきりとした甘みが広がる。
これこれ、これが食いたかった。ケーキとかにのってるマスカットもいいけど、やっぱこのまんま食うの、好きだなあ。
房に付いたまま、かじってみる。なんか新鮮さが違う、気がする。ぜいたくな食べ方だ。どっかのお偉い貴族様にでもなった気分だ。
一口で食べず、噛んで、じっくり味わって、また食べて、というのもいいが、やはり一口でいきたいものである。
口いっぱいに広がる果汁は、幸せしかない。シャキシャキの皮とみずみずしい実。もうたまんないなあ。
旬だからこそ味わえる、贅沢な果物の味。堪能させていただきました。
……あわよくばあと数回、なんて、欲張りか?
「ごちそうさまでした」
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