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第十一章 泡沫の夢

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「――これが、ご褒美?」
「うん。ご褒美、第一弾ね」
「第一弾ということは、第二弾もあるの……?」
「そうなるね」

テラスに置かれていたロングチェア。和樹さんが腰掛けたその脚の間に座らされて。後ろから抱きしめられるというこの体勢、非常に落ち着かない。

「二人だけのプライベート空間だから。ここにいる間は、何をする時も、できるだけくっついていたいわけ」

な、何をする時も――?!

それは爆弾発言だ。

「……第一弾は、くっつきながら話をする、というご褒美」

和樹さんは、そういうタイプだったのか……。

不意に胸をよぎる思いの断片を瞬殺する。後ろから回された腕に、突然力が込められて我にかえった。

「柚季」
「は、はい」

首筋に感じる和樹さんの吐息に、身体がびくんと震えた。

「子供の名前……考えてみない?」
「ああ……でも、まだ、男の子か女の子かわからないんです」

健診でも、もう少し先だと言われていた。

「だから、楽しいでしょ? 男の子と女の子、両方考えられるから」
「確かに」

なるほどと相槌を打つ。

「柚季は、気付いてた? 僕ら、なんとなく名前が似てるってこと」

大きなのてひらが私の肩を優しく、そして強く抱きしめる。

「あ、本当ですね。今まで意識してませんでした!」

“ゆずき“と“かずき“

確かに似ている。

「せっかくだから、男の子でも女の子でも、“き“の付く名前にしないか? 三人、お揃い」
「わあ、いいですね。じゃあ、なんだろ……。女の子だったら、」

和樹さんが顔が顔を私の肩に載せるから、すぐ間近にある。振り向いたら、至近距離にその目があった。

「女の子だったら、柚季の漢字をもらおう。みずき、とか、はずき、とか」
「か、かわいいですね」

今にも触れそうな唇。そこにばかり意識が向いてしまって、咄嗟に顔を背けようとしたら、そのまま顔を掴まれた。

「……んっ」

思いのほか深く口づけをされて驚く。こんなタイミングで、そんなキス、不意打ちも同然だ。目の前には湖しかない静かな場所で、絡み合う淫靡な音だけが耳に届いて体温が上がる。

「ん……はぁ」

ようやく離された唇。離れた視線が私を捕らえて、囁く。

「ごめんね。家を出た時から、ずっとキスしたかったから」
「は、話の途中だったのに。それに、ご褒美は、話をすることだって……」

和樹さんの肩に手を置くと、包み込むようにその手に触れてきた。

「くっつくと、我慢するのは無理だろ?」

そんなことを爽やかな笑顔で言われても、否定も肯定もできない。だから、話を強引に元に戻した。

「お、男の子なら、和樹さんの字をもらいましょう。まさき、とか、こうき、とか」
「ゆうき、とか、なおき、とか?」

なのに、両頬を捕らえられて距離を取れない。この至近距離で会話をさせられている。

世の中の新婚さんは、こんな感じなのだろうか?

甘くてたまらない和樹さんをじっと見つめてしまう。でも、甘いのは、これだけでは終わらなかった。

 ご褒美第二弾は、この、恐ろしいほどの解放感に満ちたお風呂に、一緒に入ることだった。

 贅沢にも、部屋でフレンチのフルコースをいただいた。胃袋が幸せになったらゆっくりリビングエリアで過ごし、食休みも十分取れた至福の時、その甘い声が注がれた。

『そろそろ、ご褒美第二弾ね』
『な、なんでしょうか……』
『一緒に、あの大きな風呂に入ること』

それは、いくらなんでも、ムリ――。

『無理、はナシね』

口にする前に問答無用で跳ね除けられて。

そして、今に至る――。

この状況は、訳が分からなくなるほど恥ずかしい。
 ゆとりあるスペースはまるで意味をなさない。湯船の一角で、和樹さんの胸に背を預ける形で腰掛けさせられて。もちろん、お互い全裸だ。とてもじゃないが、和樹さんの方に振り返ることなどできない。もう、素肌で触れ合っているだけで、キャパオーバーなのだから。

――ちゃぷん。

お湯が揺れる音と共に和樹さんの手のひらが回されて、鎖骨の辺りで止まる。

「……お腹、少し膨らんできた?」
「は、はい……っん」

撫でるように鎖骨から手のひらが滑り、腹部に到達する。そう、ただ辿るように撫でられただけ。胸を触れられたわけじゃない。それだけなのに、どうしてこんなに身体は敏感に反応してしまうのだろう。

「この子に、感謝しないとな」

まだわずかな膨らみしかないそこを、愛おしそうに大きな手のひらが覆う。そして、もう片方の手のひらがふわりと肩を抱く。それは決して官能的な触れ方じゃないのに。私の身体は、ドクドクと脈打つ。

「僕と柚季を結びつけてくれたから」
「ん……っ」

囁かれる言葉が吐息となって、耳元にかかった。

「もし、この子が宿ってくれなかったら。僕らは、本当の気持ちを伝えないままで、あのまま離れていたかもしれない」
「か、和樹さん……?」

その声が不意に苦しげなものに変わって、思わず振り向こうとしたら強く抱きしめられた。

「柚季が僕のことを好きだったなんて、全然気づけなかったから。君が、他の男と幸せになりたいと言うのを鵜呑みにして、柚季を手放していたかと思うと、ゾッとする」
「……この子のこと、そんな風に言ってくれて。すごく、救われます」

和樹さんの声と温もりに、そう言葉を漏らしていた。

「この子が、和樹さんを縛ってしまうのかって思ったら、耐えられなかったから……」

本当なら妊娠は嬉しいことのはずなのに、嬉しさより苦悩の方が先に立った。この子には何の罪もないのに、あたかも、困った出来事のように思って罪悪感を持って。和樹さんとお姉さんに罪悪感を持って。結局、私の心は、いつも罪悪感に埋め尽くされていた。

「だから、僕に黙っていたんだな」

私を抱きしめていた手が頬にあてがわれる。私の本能が、“この人を愛している“と叫んで大好きな人の手をぎゅっと握りしめた。

「ごめんなさい。本当の気持ち、どうしても言えなかった。和樹さんを好きだったこと、ずっと言えなかったから……」
「正直、柚季の嘘には驚いた。柚季の気持ちを考えたら苦しくもなったけど、でも、本当に嬉しかったんだ」

しみじみと深く心に染み入るような声に思いが昂り、遠慮なんてせず、罪悪感を投げ捨てて、心のままに叫び出したくなる。

「だから、柚季。『好きだ』と言って」

すべてを打ち明けたあの日以来、和樹さんにその言葉を向けたことはなかった。

「……好き、です」
「もう一度、」
「好き……和樹さん、好きです」

心のどこかで、この気持ちを和樹さんに口にすることが憚られて、自分を押しとどめていた。心の奥深い部分で、甘えることはいけないことだと思っていた。
 こうして想いを外に出せることは、とんでもなく幸せなんだと知る。そうさせてくれた和樹さんの優しさを知る。

「僕も好きだよ」
「……好き、大好き」

和樹さんの首に腕をきつく回す。素肌と素肌がぴたりと重なり、心も身体も激しく満たされる。

「……柚季のカラダ、見るのも触れるのも、あの夜以来なんだよ。どうしようもなく昂る」

私の腰を持ち上げ、自分の膝に跨らせた。和樹さんの唇が私の唇から頬へ、そして耳たぶへと移動して、ちゅっと音を鳴らしていく。それが首筋の敏感な皮膚を優しく噛んで、ピリピリとした快感が走る。

「……んっ、あっ」
「柚季が感じてる顔、可愛くてたまらないんだ」

キスが鎖骨から胸へと滑り落ちて、甘く息を吐く。

「好きだ。柚季」
「私も、あなたのことが、好きでたまらない」

そして、真正面から向き合い見つめ合う。

「いつか、僕の気持ちを、何のわだかまりもなく、他のどんなものも入り込ませず、受け取らせたい」
「和樹さん……」

その目は私に微笑みかけてくれているけれど、少し切なさも滲む。

和樹さんは、私の心全部を見透かしている――。

和樹さんが私に甘い言葉をくれる時、とびきり優しくしてくれる時。ほんの一瞬、私の胸によぎること。ほんの僅か、勝手に傷ついていること。私には、和樹さんとの間に常にお姉さんがいる。

「他の感情が入り込む隙がないくらい、柚季の心を僕の愛情でいっぱいにしたい」

そっと和樹さんの頬に手のひらを添えた。

「大好きな人と一緒にいられる。十分、幸せです」

初めて、自ら和樹さんにキスをした。


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