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第十一章 泡沫の夢
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しおりを挟む『柚季に離婚したいと言われた時、柚季と生きていきたいと言ったのも、こうして強引に再婚したのも、柚季を愛しているからだ』
もう何度、反芻しただろう。まさか、と思った。ううん。今でもまだ信じられない。
“結婚したのは、妊娠させた責任感からでなく、私を愛しているから“
“和樹さんも私のことを好きだった“
その事実はこの心を甘く疼かせ、そして、甘く疼いた自分をもう一人の自分が咎める。その繰り返しだった。
「――ただいま」
玄関の方からドアの鍵が開く音と、和樹さんの声が聞こえて来る。
和樹さんと想いを打ち明けあった日から、週末も含めて和樹さんの仕事が急に忙しくなってゆっくりする時間がなかった。今日は早く帰って来られると聞いていたから、夕食のメニューを頑張っていたところだ。
「柚季、ただいま」
玄関で出迎えようとしたら、もうキッチンに和樹さんが来てしまった。
「お帰りなさい」
「ずっと一人にしててごめん」
「トラブルなら、仕方ないですから、大丈夫です」
真正面に立たれるこの至近距離は、どうにも緊張する。これまで以上に緊張するのは、和樹さんの気持ちを知ったからなのか。
「そう、柚季は大丈夫だったのか。それは残念」
「え……?」
と、声を上げたと同時に、ふわりと抱きしめられる。
「……嘘。柚季に寂しい思いをさせていなかったならよかった。でも、寂しいと思ってほしいとも思う僕の矛盾」
夏なのに、こんなにきっちりスーツを着ていても暑苦しさの欠片もない和樹さんに、私は一方的にドキドキさせられている。
「おもいきり抱きしめたくてたまらなかったんだから。夜は同じベッドで寝られると言っても、君の安眠を妨害するわけにもいかない。君の気持ちを知ったのにこんな風に引き離されて、一体何の罰なのかと思っていた。仕事中も、部下に八つ当たりだよ。さぞ、迷惑だっただろうな」
和樹さんが八つ当たり――そんなの、嘘に決まってる。
「罰だなんて……」
もう、次から次へと甘い言葉を吐かれて窒息しそうだ。
「いや、酷い罰だよ。もう、遠慮しなくていいんだとわかっているのに、君のそばにいられないなんて……」
そう息を吐くように言うと、私を抱きしめる腕に力を込めた。
「柚季。もう、触れてもいいか、なんて聞かなくていいんだよな?」
「……は、はい」
恐る恐る、腕を和樹さんの背中に回す。そのおかげで、より深く和樹さんの胸に顔を埋めることができる。
――僕に愛されることだけは受け入れて。
その言葉を胸に刻む。甘さとセットでやって来る苦味を受け入れる。和樹さんは、そんな私を知っていてくれる。
連日午前様だった和樹さんは、やっぱりその表情に疲労が色濃く滲んでいた。『早めにお風呂に入って、早く寝てください』とお願いした。『だったら、柚季も一緒に早く寝よう』と言われて、私もお風呂も寝る準備も済ませて、今、寝室のベッドに腰掛けている。深夜でもない、夜の10時。訳もなく、勝手に心臓の鼓動が早くなっている。無意識のうちに胸に手を当てる。やっぱり早い。
“好きな人が私を好き“
そんな状況になった経験がない。
想いを確かめ合った日は、私があまりに泣きじゃくりすぎて、あれ以上ちゃんと話もできなかった。昂った感情を宥めるように、夜、寝るときに和樹さんが横についていてくれただけ。つまり、あの夜は何もしてない。
何もしてないって、なんだ。何を想像しているのだ私は。
ブルブルと頭を振る。一人で想像して恥ずかしくなって一人で否定して、馬鹿みたいだ。私は、妊婦だし。和樹さんは紳士だし。何かをしてくるはずもない。そんな姿、これっぽっちも想像できない。第一、和樹さんはすごく疲れている。
そうだよ。
今度はうんうんと何度も頷く。
「……何をそんなに百面相してるの?」
「わ……っ」
突然、目の前に和樹さんが現れた。いつの間にか、寝室のドアも開いていた。パジャマ姿の和樹さんが私の元に歩み寄ってきて、隣に腰かける。ふわりとボディソープの香りがした。
「待っててくれたの?」
「いや……、あ、でも、はい」
覗き込むようして私を見る。和樹さんの少し濡れた前髪が、その目にかかる。ラフな髪型が、また、いつもと違う色気を放出し、色々と視線に困る。
「どっち?」
「ど、どっちも、ですかね」
今までは、どちらかというと他人に近い心の距離感を意識的に保っていた。だから、普通に接することができたとも言える。でも、そんな距離感を取っ払うとなると、もう、心臓はバクバクし、顔は熱くなり、身体は強張る。
「何だよ、それ」
二重の目が優しく細められる。そんな目でじっと見られては、この視線を伏せるしかなくなる。
「……今日は、久しぶりに早く帰れたんですから、早く寝た方がいいです。もう、寝ましょう」
その視線から逃れるように立ち上がると、腕をそのまま掴まれた。
「柚季は、もう眠い?」
腕を押さえられて、またベッドに腰掛けさせられる。
「いや、私のことではなくて、和樹さんのことで――」
「だったらお構いなく。帰宅するまで死ぬほど疲れてたはずなのに、その疲れはどこかに消えた」
「え……?」
掴まれている腕がそのまま引き寄せられて、その目が間近に迫る。
「柚季をもっと見ていたいし、柚季ともっと話がしたい。いい?」
グレーがかった目が私を至近距離で捉える。
「もちろんいいんですけど、これって、話をする距離感ではない気が……」
「柚季といると、刻々としたいことが変わるみたいで。近くにいるから、キスしたくなった」
嫌でも、その動く唇に目が行ってしまう。どうして、この人はこんなに色気にまみれているのだろうか。たった一度の経験しかない人間には、こういう発言にどう対処したらいいのかわからない。
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