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第八章 二人を繋ぐもの
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しおりを挟むとりあえずの住まいとして借りた部屋は、必要最低限のものが備え付けられているワンルーム。今の状況には十分だ。この場所から、前を向いて生きていこう。
転職サイトを調べつつ、これからどんな風に生きて行こうかと漠然と考える。
私ももう、30歳だ。一度立ち止まって考えてみるのもいいかもしれない。
二十代みたいに、ただなんとなく生きるのではなく、地に足付けて生きて行かなきゃ……。
そんな風に、ただ前を見ようと自分を奮い立たせた時だった。
夕食を済ませた後、小さなローテーブルの上に置いたスマホが鳴った。着信の相手は、和樹さんのお姉さんだった。
どうして、お姉さんが……?
その電話に出るのに、激しく躊躇う。でも、無視したところで、また掛かって来そうで。深呼吸をした後、スマホを耳に当てた。
「もしもし……」
(柚季さん。いつ、和樹から離れてくれるの?)
どういうことだ。
(私に和樹を返してくれると約束したでしょう?)
「私、和樹さんのマンションを出ました。今は、一人で暮らしてます」
混乱する頭のまま、なんとかそう答えた。
(本当に……?)
「は、はい」
和樹さんは、お姉さんに連絡を取っていないのだろうか――?
一瞬そう思ったけれど、すぐに今出張中だということを思い出した。
「今、和樹さん、出張中だと聞いています。出張から戻って、落ち着いたらお姉さんと会おうと考えているんじゃないでしょうか」
手短せに済ませられる話でもないだろう。じっくり向き合いたいはずだ。
(……あなたを、信じてもいいのね?)
それは、間違いなくお姉さんの声なのに、なぜだろう。全然別の人の声に聞こえた。ただ明らかなのは、お姉さんの心はまだ辛い状況なのだということだ。普通の精神状態ではないことがすぐに分かる。
「はい。私と和樹さんは、もう離婚しました」
そう告げると、お姉さんが大きく息を吐いたのに気づく。
(柚季さんを信じる。でも、もし、あなたが約束を破ったら――)
あの綺麗だった声が、深く低く唸るみたいなものになって。
(私は、生きていけないから)
吐き出された言葉に、息をするのを忘れた。
(柚季さんは、そんなことはしないって分かってるの。私、今日からゆっくり眠れるわ。あなたに電話してよかった。じゃあ、おやすみなさい)
途端に異様に明るくなった声に、何も言葉を発せなかった。通話の切れたスマホを耳から離す。
そのとき、突然吐き気が襲った。慌てて、トイレへと駆け込む。大して吐けるものないのに、この気持ち悪さが消えない。
何か、もたれるものでも食べただろうか。思い返していれば、ここ数日なんとなく身体がだるかった。でも、それは、いろんなことがあった疲れからだと思っていた。
吐き気なんて、滅多に感じることないのに――。
トイレの前でうずくまる。
翌日、目が覚めても、体調は変わらなかった。時折来る吐き気。少しだけ熱っぽい身体に、だるさ。
そう言えば――。
生理が遅れている。この一ヶ月、いろんなことがあり過ぎて意識していなかった。
まさか……?
備え付けの小さなキッチンの前で立ち尽くす。また襲って来た吐き気にシンクに顔を近づける。
あの夜。初めてのことで、無我夢中で。夜通し抱かれ続けていた。
どうしよう――。
自分の身に迫ることに押しつぶされそうなのに、苦しいほどに喉元に込み上げてきて目尻に涙が溜まる。
不安なままドラッグストアで買って来た妊娠検査薬。検査するのが怖くてたまらなかった。
もし、これが陽性を示したら。これから、一体どうするの――?
私から離婚して欲しいと言って離れた。これから一人で暮らしていこうとしている。お姉さんの声、和樹さんの部屋で泣きじゃくっていた姿。昨日の電話。いろんなことがぐちゃぐちゃに頭を駆け巡る。
恐怖を押し殺して検査して出た結果は、無情にも陽性を示した。
産婦人科に行っても、結論は変わらなかった。
和樹さんとの子供を妊娠した――。
病院を出て、まだ何の変化もない腹部にそっと触れる。私と和樹さんの子供がここにいる。そう思うと、不安で仕方ないはずの気持ちを押しのけて愛おしさが込み上げて来る。検査薬を見たときはあんなに怖くて仕方なかったのに、どうしてもなかったものになんてできなかった。
どれだけ悲しくて辛くても、和樹さんと抱き合ったあの夜を後悔する気持ちだけは私の中になかった。
大好きな人との、唯一無二の存在。どれだけ困難な道でも、この子に会いたい。どうしても。
でも、すぐにお姉さんの姿が浮かぶ。
私と和樹さんとの間に子供ができたなんて知ったら――。
とんでもないことになる。どれだけ、お姉さんをどん底に突き落とすことになるだろうか。
『私は、生きていけないから』
もし、お姉さんが自ら命を絶つようなことがあったら……。
想像もしたくない。誰かを絶望させることなんて、私にできない。お姉さんのためじゃない。自分自身が嫌なのだ。
思わずふるふると激しく頭を振る。人の幸せを奪った人間は、きっと因果応報で自分にそれが返って来る。
それが私ならまだしも、この子に降りかかったら――。
この子を守りたい。どんな悪意からも守りたい。
私は、どうするべき――?
梅雨の晴れ間の空を見上げた。
美久に相談――。
そう思ったけれど、すぐに思い止まる。自分で結論を出すべきことだ。
その日、考え続けた。和樹さんのこと。お姉さんのこと。そして、これからのこと。どれだけ考えても、結局、気持ちは変わらなかった。最初から、私の結論は出ていたのだ。どれだけ甘いと言われても、現実は厳しいと言われても、私はこの子を産みたい。一人で育てて行く。
服の上からそっと撫でる。
心から好きな人との子だから、何に代えても大切に育てるから。だから、許して――。
私のわがままなのは分かっている。この子を父親のいない子にしてしまうことも。それでも、どうか許してほしい。
“和樹さんには伝えずに産む“
そうと決めたら、あとはこれからどうしていくかだ。
返すかどうか迷っていた和樹さんからもらった小切手も、ありがたく使わせてもらうことにした。ここは背に腹は変えられない。これからの生活の足しにさせてもらう。
この妊娠は、しばらくは誰にも伝えない方がいい。両親に伝えれば、間違いなく和樹さんに連絡がいく。美久に伝えてもそれは同じだ。中絶を進められるかもしれない。いずれ知られるにしても、今はダメだ。
もっともっと強くなりたい。これまで、両親に守られて生きてきた。今度は、私がこの子を守らなければならない。私しかいないのだ。
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