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第六章 決壊

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 和樹さんの仕事が忙しくて、顔をほとんど合わすことのないこの状況にどこかホッとしていた。朝は顔を合わせるけど、ゆっくり話をするような時間はない。いつかは話し合わなければならないことは分かっていても、それにはもう少し時間が欲しかった。


 あの夜から一週間ほど経ったこの日、いつものように少し買い物をして帰宅した。
 ここ最近は毎日のように和樹さんの帰りが遅いから、インターホンを鳴らさなくなっている。そのまま玄関ドアを開けると、明かりがついていた。
 和樹さんが帰宅している――そう思うだけで、引き返したくなる衝動に駆られる。だからと言って、そんな大人気ない行動を取る訳にも行かない。

 深呼吸をしてリビングへと向かう。
 そっと扉を開けると、窓ガラスの向こうを眺めながら立っている和樹さんの姿があった。声を掛ける前に、その横顔を遠くから見つめる。その目はどこを見ているのだろうか。今、何を思っているのだろう。背中をピンとさせた長身の姿。だけど、その目は深く哀しみを滲ませているみたいに見えた。

「……柚季?」

突然、私の方に振り向いた。

「おかえり」
「は、はい、今、帰りました」

こうして落ち着いて向かい合うのはあの夜以来だ。

「柚季が帰って来るのを待ってた」

和樹さんが私の方へと近付いて来る。

「……あれからずっと、忙しくて悪かった」
「い、いえ」

これくらいのことで激しく動揺して、ぎこちなくなる自分が嫌になる。その身体が近づくだけで、おかしくなったみたいにドクドクと胸が鳴り始めた。

「これから、深夜の便でアメリカに行く」
「出張ですか?」

和樹さんの話の内容にどこか安堵する。

「そう。これからアメリカでピアノの国際コンクールがあるから、うちのピアノを出場者に選んでらえるようにPR活動してくる。本当は僕は行く予定じゃなかったんだけど、急遽現地から呼ばれて」
「気をつけて行って来てください」

国際コンクールともなると、全世界にコンクールの模様を生配信される。その時、どれだけ多く伊藤楽器のピアノが映るか。それがかなりの宣伝効果になる。

「――それで、僕が出張から帰って来たら、ちゃんと柚季と話をしたい」

――話。

きっと、これからのことだ。もう逃げられない。きちんと向き合わなければならない。

「……時間をとってくれる?」

和樹さんの手が私の肩に触れた。

「はい。もちろんです」
「ありがとう」

肩に触れていた手が腕を滑り、私の手のひらをそっと握りしめた。


 和樹さんの出張中、ずっと考えていた。

 自分がどうするべきなのか。どうしたいのか。逃げずに自分に向き合いたいと思った。

 あの夜、和樹さんに抱かれたことは、自分の中に少しの後悔もない。その気持ちは今でも変わらない。和樹さんの愛がなくても、たった一度きりでも。それでも構わないくらいあの人が好きだった。

 今なら、私の本当の気持ちを伝えてもいいだろうか。

この結婚を解消するとしても、伝えるだけなら許されるのかな。そんなこと許されるのか――。

答えが出ない。


 和樹さんが出張で不在の週末。日曜日の朝早くに、自宅の電話が鳴り響いた。
 自宅の電話が鳴ることは滅多にない。それにしても、休日の朝に自宅への電話なんていったい誰からだろう。悪い知らせのように思えて身構える。恐る恐る受話器を取ると、名乗る前に声が飛んで来た。

(柚季さん、お願い。助けて……)

それは、和樹さんのお姉さんだった。

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