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第五章 崩れて行くバランス
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しおりを挟む三村さんから指定された待ち合わせの場所は、東京郊外のJRの駅だった。勤務先から50分ほどかかってしまった。各駅停車しか停まらない小さな駅。普通なら仕事帰りの人で溢れていそうな時間帯だ。それなのに、改札を通過する人はまばらだった。
「柚季さん」
券売機の側で立っていると、駆け寄って来る三村さんの姿が目に入った。
「こんなところまで来させてすみません」
「ううん。ちょっとした小旅行みたいで、少し楽しかった。来たことない場所だったし」
私の前に立つなり頭を下げる三村さんに笑いかける。
街灯と郵便ポスト。一軒のコンビニと駅前駐車場。そんなものくらいしか目に入らない駅前を抜け、住宅街へと進んでいった。
「小さい頃この辺に住んでいて。穴場の場所があるんです。楽しみにしていてください」
二人きりで会うのは初めてなのに、この誘いの意味を三村さんは特に口にしなかった。
川沿いに出て公園が現れた。
「ここです。ほんと、普通の公園なんですけど、この先は結構広いんですよ」
住宅街の中にある特に有名でもない公園は、ひっそりと静まりかえっていた。園内の遊歩道を歩くときに聞こえて来るのは木々が風でざわめく音だけで、酷く遠くまで来たような感覚に陥る。
「到着です」
視界が開けた先にあったのは広い芝生の広場だった。そこを取り囲むように桜の木が並んでいた。それらはまさに今が真っ盛りのように淡いピンクで埋め尽くされている。
「……綺麗」
月の明かりと夜の闇と、薄桃色の花びら。その幻想的な光景に目を奪われた。名所などではない郊外の公園。私たち以外に誰もいない。
「すごい。こんな贅沢な夜桜、見たことないよ……」
あまりの綺麗さに「すごい、すごい」と声をあげてしまった。
「喜んでもらえてよかった。柚季さん、笑顔になってくれてよかった……」
そう静かに囁いた三村さんを見上げる。
「この前の居酒屋で、ずっと辛そうな顔で笑ってたから。ちゃんと笑ってもらいたかった。さあ、せっかく来たんし、もっと桜のそばに行こう」
二人で桜の木の下まで歩く。春の夜風が本当に気持ち良かった。
「……ビール買ってきたんです。それからレジャーシートも。どうですか?」
三村さんがパンパンに膨らんだ通勤バッグを見せてくれた。
「最高だね。いただきます」
桜の木の根元にレジャーシートを敷いて、二人で座った。花びらが間近で降り注いで、本当に贅沢な空間だった。
三村さんが手渡してくれた缶ビールで乾杯をする。
「お花見、できてよかったー」
「俺も」
そう言って笑い合うと、三村さんが首元のネクタイを緩めた。そういえば、三村さんのスーツ姿を見たのも初めてだ。こうして改めて見てみれば、できるビジネスマンって感じだ。美久の言う通り、本人の意識さえ変われば、いくらでも素敵な恋人ができそうだ。
「……この前は、結局、俺の話ばかりで。本当は、柚季さんが何か辛いことがあったんじゃないかって。ずっと気になってたんです」
私の方は見ずに、三村さんがそう口にした。あの時、三村さんも辛い過去を話してくれた。それに、今、こんな非現実的な場所にいる。自分の話をしてしまいたくなった。
「……私のこと、美久からどこまで聞いてる?」
「ああ……柚季さんが契約結婚をしている、ということだけです。その結婚の詳しい事情は聞いていません」
美久、全部話していたわけじゃないんだ――。
手の中の缶ビールを口に運び一口飲んで、ふっと息を吐いた。
「私も、三村さんと同じなの」
「え……?」
三村さんがこちらを向いたのに気づく。
「私も、小中高、大学までずっと女子校育ちで。性格も見た目も地味で、人付き合いが苦手。男の子と話すなんてもう、本当に全然ダメだった。大学に入って始めたバイト先で出会った人が、今、契約結婚をしている夫なの」
「それって……」
ゆっくりと三村さんの方へと顔を向けると、その表情はどこか強張っていた。
「うん。初めて好きになった人。うまく男の子と話せないでいつも隅にいるような私にも、彼は分け隔てなく接してくれたの。もう十年片想いをしてる」
「どうして、そんな――」
絶句している三村さんに、笑ってみせる。
「自分に自信ないから、そもそも彼に想いを告げる勇気もなかった。新しい出会いを探して忘れようとしてもダメだった。そんな時、彼が苦しんでいることを知った」
その後の結婚までの経緯を、美久に教えたのと同じことを三村さんに伝えた。
「どうせ見ているだけの恋だった。だったら、どんな理由でもそばにいたいって。それが好きな人の幸せに繋がるならこんなに嬉しいことはないなんて思って、嘘をつき続けることを決めた。誰でもない自分で決めたことなんだよ」
なのに――。
「バカだよね。もう辛くなってるの。ホント浅はか。どれだけ考えなしで軽はずみなことをしたんだろうって――」
笑い飛ばしてしまいたいのに、この声が次第に掠れて行く。
「なんで、そんなに不器用なんですか……!」
三村さんの腕が飛んできて、気づけば抱きしめられていた。ひどくぎこちないのに力だけは強くて、たまらない気持ちになる。
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