6 / 84
第一章 衝動的で切実な提案
5
しおりを挟む疲れた顔をして目を閉じている伊藤さんを、ずっと見ていた。
結局、ソファに運んで寝かせた。
夜が明けて、伊藤さんが正気に戻って、私を見て迷惑そうな顔をしたとしてもそれでもいい。
仰向けに眠る前髪が流れて、綺麗な額が露わになる。上がるでもなく下がるでもないまっすぐな眉と二重瞼が、伊藤さんの優し気な雰囲気を作る。そんな柔らかな雰囲気にいつも胸をときめかせて来た。
伊藤さんは、その優しい微笑みの裏で激しい恋をしていた。
”ただそばにいて守りたい”
ある意味、一番純粋で強い愛情なのかもしれない。
――父が外で作った子供が僕だ。僕の本当の母親が病気で死んで、後から伊藤の家に入った。もちろん継母は、父の愛人の子だった僕を良くは思っていない。それは姉も同じはずなのに、孤独な家でいつも僕を励まし支えてくれた。孤独から救ってくれた恩人みたいな人だーー
お姉さんと伊藤さんの間にある愛情は、きっと普通のものとは違う。そんな特別な感情を簡単に捨てられるわけがない。
だんだんと明るくなる空が、広いリビングを照らし始めていた。
「……っ」
結局一睡も出来ないままでソファの近くにいると、伊藤さんから呻き声のようなものが聞こえて来た。
「大丈夫ですか?」
「あ……」
こめかみを押さえながら、伊藤さんが身体を起こした。
「水、持って来ましょうか?」
「ごめん。迷惑をかけたよね」
やっぱり、気まずそうな顔をさせてしまった。
「この部屋に泊まらせて。どう謝ったらいいか――」
「いいんです。私が勝手にしたことなので」
伊藤さんは、ソファに座り姿勢を正すと私に向き合った。
「途中までしか覚えていないけど、君に変な話を聞かせてしまったと思う。正気でいられなくなるほど飲むなんて、どうかしてた」
おそらく、酔った勢いで私に話してしまったことを後悔しているはずだ。人に話すにはあまりに重過ぎる。
「……お見合い。もう、時間はないんですか?」
ここで、気にしてませんなんて言ったところで、伊藤さんの心は決して楽になんてならないだろう。事実、私は聞いてしまった。
「ああ。それで追い詰められて、酒に逃げるなんてろくでもないだろ」
「本当にお見合いするしかないんですか? そんなこと、本当に出来るんですか? お姉さんは哀しみませんか?」
私は関係ない部外者だ。踏み込むべきじゃない――そう思うけれど、心が急いて仕方ない。居ても立ってもいられない。
「僕には交際相手はいないことになっている。縁談を勧められて断るのは不自然だ。何より、疑われているこの状況で僕が縁談を断れば、認めるようなもの……って、ごめん。君には関係ないのに悩ませてしまって。忘れてくれ。家まで送って行くよ――」
「それなら、私と結婚するというのはどうですか?」
この瞬間に思い付いた。咄嗟に浮かんだことだけれど、それが私にとって一番の願いだという確信だけはあった。
「伊藤さんは秘密を私に言ってしまって、いくら私が黙っていると言ってもこれからずっと不安を抱えるはずです。でも、私と結婚したら、そんな不安はなくなります。まさか、自分の夫のそんな話、人に言うわけないですから」
伊藤さんに否定させたくなくて、間髪入れずに続ける。
「私と結婚すれば、この先ずっと縁談の心配をしなくて済みますよ。私との結婚をカムフラージュにして、これからもお姉さんのそばにいられます」
「……君も、冗談言うんだね」
その涼しげな瞳を少し伏せながら、伊藤さんが笑う。
「冗談じゃないです。思いつきにしては良い提案だって思います」
「思いつきで言うようなことじゃない」
「でも、お互いにとってベターな選択じゃないですか?」
衝動から口走った言葉を、無かったことにするどころか本物にしようと必死になる。
どんな理由でも、馬鹿げたことでも、彼の近くにいられるなら構わない。こんなチャンスもう二度と訪れない。
ただそばにいられるなら――。
その一心だった。
「本気……?」
「本気です」
「そんなことして、君に何のメリットがある?」
「メリットならあります!」
これから私は、人生をかけた嘘をつく。伊藤さんを助けるために。そして何より、伊藤さんのそばにいられるために。
「私も、人に言えない恋をしています。相手は女性なんです……っ!」
「え?」
少しでも躊躇ったら怖気付く。私は喋りまくった。
「男の人を好きになれません。誰にもこんなこと言えませんでした。だから、伊藤さんの話を聞いても気持ち悪いなんて思いません。私もどうせ結婚できない。伊藤さんと形だけの結婚ができたら、この先の人生、生きやすい。親に『結婚はまだ?』なんて言われなくて済みますから。伊藤さんも他に好きな人がいるから、私は自由です。ほら、私にもメリットしかありません!」
一息にそう言った。私の人生で、こんなにも捲し立てたことはない。伊藤さんが顔色をなくし呆然としている。
「……君の相手は? 君が誰かと暮らすのは嫌だろ?」
私の勢いに押されながらも、伊藤さんが私に聞いた。
「恥ずかしながら、私の片想いです。相手はノーマルな人なので、この先も想いを告げるつもりはありません。友情を壊せませんから。あの子です。昨日、一緒にいた」
ごめん、美久ーー。
心の中で詫びる。
「あ、ああ……」
「ですから、お姉さんにも伝えてください。私は男の人がダメな人間ですから、何の心配もする必要ないって。私のような冴えない女だって女は女ですから、お姉さんだっていい気はしないはず。だから私のこと、全部話していいです」
肩で息をして、懸命に呼吸する。
「……君がこんなに喋るのを初めて見たよ」
「はい。私にとって、こんなチャンスはないですから。必死です」
伊藤さんが、私の目を探るように見つめて来る。絶対に逸らさないように、必死に見返した。
「だから、考えてみてください」
衝動からでも。どんな理由であろうとも。決して私のものにはなってくれなくても。伊藤さんの傍にいられるのなら、私はこの道を選ぶ。
0
お気に入りに追加
51
あなたにおすすめの小説
ちょっと味見したかっただけですわ〜伯爵令嬢の無謀な婚活〜
コプラ
恋愛
奔放だった前世の記憶を頼りに、より良い結婚は身体の相性だと、斜め上に頑張る社交界デビューする伯爵令嬢の話。野望の助言者になった、秘密めいた年上男性を翻弄しつつ、溺愛ハッピーエンド?
〜深層の令嬢アンナマリーの目指す、奔放な体験実録。アンナマリーの味見は上手くいくのか、周囲の人間を巻き込んで波乱を巻き起こす、食うか食われるかのサバイバルデビュタント物語。
救国の大聖女は生まれ変わって【薬剤師】になりました ~聖女の力には限界があるけど、万能薬ならもっとたくさんの人を救えますよね?~
日之影ソラ
恋愛
千年前、大聖女として多くの人々を救った一人の女性がいた。国を蝕む病と一人で戦った彼女は、僅かニ十歳でその生涯を終えてしまう。その原因は、聖女の力を使い過ぎたこと。聖女の力には、使うことで自身の命を削るというリスクがあった。それを知ってからも、彼女は聖女としての使命を果たすべく、人々のために祈り続けた。そして、命が終わる瞬間、彼女は後悔した。もっと多くの人を救えたはずなのに……と。
そんな彼女は、ユリアとして千年後の世界で新たな生を受ける。今度こそ、より多くの人を救いたい。その一心で、彼女は薬剤師になった。万能薬を作ることで、かつて救えなかった人たちの笑顔を守ろうとした。
優しい王子に、元気で真面目な後輩。宮廷での環境にも恵まれ、一歩ずつ万能薬という目標に進んでいく。
しかし、新たな聖女が誕生してしまったことで、彼女の人生は大きく変化する。
ヌエの首継ぎ
堅他不願(かたほかふがん)
歴史・時代
キャッチコピー
のしあがれ、二代目!
粗筋
主人公・与無蔵(よむぞう)は、二十歳の男性にして江戸裏社会の一員である。彼の父・頭吉(とうきち)は、江戸中の賭博場を束ねる闇組織『猿組(ましらぐみ)』の初代筆頭親分であった。
頭吉は陽気で子分思いの、しかし裏切者には残虐極まる、任侠然とした男だ。
父、頭吉が生きているあいだは、ただ二代目修行に励んでいればよかった。そこに満足も不満もない。無邪気な冗談を口にした幼少期は、とうに過ぎさっている。
その父が、元文四年(一七三九年)四月二十八日、夜中の路上で護衛ごと何者かに殺害された。
彼の死は、一介の親分の死ではすまされない。与無蔵にとっても、父の死という悲劇だけで終わることではなかった。
そもそも頭吉が治めていた『猿組』は、ほかに芸事や運輸といった別々の職能に基づく三つの組と手をとりあって、『ヌエ』なる集団を作っていた。『ヌエ』は、奉行所に賄賂を払ったり、組同士の利害を調整したりするのを目的としている。すなわち彼の死は江戸裏社会の混乱を意味した。
与無蔵はすみやかに父の葬儀を開いた。頭吉の直属幹部や猿組の直参組長はもちろん、ヌエを構成するほかの三つの組……芸事と岡場所の狸組、港湾労働と水運業の虎組、医療の蛇組……の各筆頭親分または名代が続々と参列。
手ぎわよく葬儀をこなしつつ、父の思い出を回想する与無蔵は、裏社会の人間がたどりつく『満足』とはなにかを考察する。
それは、血で血を洗うヌエの内部抗争が始まったことを意味した。
※本作は拷問などの残虐場面、性的に倫理観の逸脱した人物の登場などを含みます(ただしベッドシーンはありません)。
※本作はフィクションであり、いかなる登場人物、筋、演出においても現実のそれとは一切関係ありません。
婚約破棄を突きつけに行ったら犬猿の仲の婚約者が私でオナニーしてた
Adria
恋愛
最近喧嘩ばかりな婚約者が、高級ホテルの入り口で見知らぬ女性と楽しそうに話して中に入っていった。それを見た私は彼との婚約を破棄して別れることを決意し、彼の家に乗り込む。でもそこで見たのは、切なそうに私の名前を呼びながらオナニーしている彼だった。
イラスト:樹史桜様
もしも○○だったら~らぶえっちシリーズ
中村 心響
恋愛
もしもシリーズと題しまして、オリジナル作品の二次創作。ファンサービスで書いた"もしも、あのキャラとこのキャラがこうだったら~"など、本編では有り得ない夢の妄想短編ストーリーの総集編となっております。
※ 作品
「男装バレてイケメンに~」
「灼熱の砂丘」
「イケメンはずんどうぽっちゃり…」
こちらの作品を先にお読みください。
各、作品のファン様へ。
こちらの作品は、ノリと悪ふざけで作者が書き散らした、らぶえっちだらけの物語りとなっております。
故に、本作品のイメージが崩れた!とか。
あのキャラにこんなことさせないで!とか。
その他諸々の苦情は一切受け付けておりません。(。ᵕᴗᵕ。)
今更愛していると言われても困ります。
二位関りをん
恋愛
※設定ゆるゆるです。合わないなと思ったらブラバ・各自自衛をお願いします。温かい目で見てやってください。タグ一読推奨
アイリクス伯爵家の夫人・シュネルは結婚してから3年が経過していた。しかし夫であるソアリスからはほとんど無視されており、夫婦の営みも無く処女のまま。彼の両親からはまだ子供が出来ないのかと叱責される鬱屈な日々を送っていた。
ある日、シュネルはソアリスがシュネルの妹であるジュリエッタと仲睦まじく歩いているのを見てしまう。ショックを受けるシュネルは荷物をまとめて屋敷を出る事に決めた。
心機一転、令嬢の地位もしがらみも捨ててやり直すべくたどり着いた先は小さな町の診療所の看護婦としての道だった。そこでシュネルは診療所で医師をしている王子ギルテットと出会う。次第に仲を深めていく2人。
しかしその裏でソアリスはシュネルを必死に探していて…?
『路地裏の野良犬は皇子に成り代わる』
odo
ファンタジー
その日、名無しの何でも屋は王国の騎士であるレイジに成り代わりを依頼された。それも悪名高い第五皇子エル・ラ・ローレン。エル皇子はなかなか暴れん坊らしい。朝昼夜と変わるレディに、尾ひれの付きやすい噂話。暴力的であり、短気な性格を持ち、使用人は次々辞めた。王家代々続く使用人を辞めさせてしまい、王ですら悩みを抱え、つい先日に次問題を起こせば、追放の身となる予定。そんな悪名高いエルの成り代わりすることとなるが――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる