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第二部
繋がっていく絆【side:創介】 1
しおりを挟む四月になり、雪野が仕事を辞めた。
毎朝、玄関先でいいと言うのに、マンションのエントランスまで一緒に付いて来て見送ってくれるようになった。
「奥様、おはようございます」
「おはようございます。今日も、よろしくお願いします」
運転士に笑顔で応える。
「じゃあ、創介さん。いってらっしゃい」
「ああ。今日は、早く帰れる」
「はい」
車に乗り込む間際に俺に見せてくれる微笑み。
”早く帰る”と告げて、笑顔になってもらえるというのは、やはり嬉しい。俺の帰りを待っていてくれるのだと、そう実感できるからだ。
車のドアを閉め、発進する。少しずつ加速度的に離れて行く。後ろを振り返ると、まだ雪野が立っていた。四月になって二週間ほどが経つ。エントランス正面に植えられた桜の木は、もうほとんどの花が散った後で。耐え忍んでいたように付いていた、最後の薄桃色の花びらが雪野の元へと舞って行く。わずかな花びらが舞う中に立つ雪野の姿に、胸が少しだけ締め付けられた。なぜだろう。そんな自分を不思議に思う。
マンションを出て角を曲がると、雪野の姿は見えなくなる。そこで、顔を前に戻した。そして、いつものように新聞を広げる。でも、この日はどうしてだか、この目に雪野の笑顔が焼き付いて仕方がなかった。
その日は朝から経営会議が入っていて、常務室に戻って来た頃にはちょうど昼時になっていた。
この部屋の窓からは、少し先に大きな公園が見える。都心にあるとは思えない緑豊かな公園だ。桜の名所でもあるが、もうここから見ても桃色には見えなかった。
「常務は、お花見はされましたか?」
そんな景色に目をやっていると、神原から声を掛けられた。
「いや、結局行けないままで終わってしまった。雪野は、行きたがっていたけどな」
週末のたびに雨にやられて、順延にしているうちに花は散ってしまっていた。散ってしまってから思っても遅いが、雨の中でも花見に行っておけばよかった。
「今年は、雨の日が多かったですからね。でも、来年も、再来年も、桜は咲きますから」
「そうだな」
慰める神原の言葉を聞きながら、もう一度窓の外に目をやった。
「――では、私は、昼食に出ます。常務は、今日も奥様の手作りのお弁当ですか?」
「ああ」
仕事を辞めてから、雪野は俺に弁当を作るようになった。
――常務なんて肩書の人でも、手作りのお弁当って、持って行っても大丈夫?
そんなことを心配そうに聞いて来た雪野を思い出して、思わず顔がほころぶ。
『ビジネスランチや会食がある時以外は、何の問題もない。昼にまで雪野の作ったものが食べられるなんて最高だ』
そう答えたら、雪野が満面の笑みになった。
「ここ最近、奥様、頑張られていますよね。 先週もこちらにいらしていましたね」
仕事を辞めてから、雪野は時折、昼食時に神原の元を訪れている。丸菱グループ全体のことや交際範囲、幹部の妻として押えておくべきイベント――そういったことを教えてもらっているらしい。
「それに、いろいろと今後のために身に着けるべきことを習われているとか。最初にお仕事辞められたと聞いた時、私のせいではないかと思ったんです――」
苦い表情をした神原にすぐに言った。
「雪野は何をするにも、誰かのせいにするような女じゃない」
「はい。お仕事をお辞めになって、常務の支えになる。そう、覚悟を決められたんですね。これで、鬼に金棒。絶対に、常務が丸菱のトップになられます」
「もう、俺だけの目標でなくなった。雪野と俺は運命共同体、同士だ」
それでもまだ、俺の心には少しの罪悪感が残っている。本当に辞めさせてよかったのかと。雪野には雪野の、したいことがあったんじゃないのか――。
でも、俺は雪野の一番近くにいる人間として、雪野の言葉を信じるべきなのかもしれない。
「ただ、あまり無理はしてほしくないんだが……」
また、俺の知らないところで、頑張り過ぎていなければいいが――。
「それにしても奥様のお弁当、いつも美味しそうで、何より愛情が詰まっていて。見ているこちらが胸がいっぱいになりますよ」
神原が苦笑する。
デスクに弁当を広げて、箸をつけるまえに、一度眺める。それが日課になっていた。
弁当を眺めていればエプロン姿の雪野が目に浮かび、また一人表情を緩ませてしまう。
「春らしい色合いですね。まるで、お花見の時に持って行くお弁当みたいです」
確かに――。
窓の外の景色を見ながら食べたら、美味そうだ。
その時、デスクの上のけたたましい電話の音が鳴り響いた。
「お昼時なのになんでしょうか」
そう言いながら神原が受話器を手にする。その様子を見ていると、神原の表情が一変した。
「常務っ!」
叫びにも似た声が空間を切り裂く。
「どうした――」
「奥様がっ。奥様が倒れられて、今、病院に運ばれたと連絡がありました。常務、今すぐ、病院に行ってください!」
時が一瞬にして止まる。
「な、何を――」
「奥様の状態の詳しいことは分かりません。とにかく、早く行ってください!」
神原の言っていることが理解出来ないでいる俺に、一枚の白い紙きれを押し付けて来た。
「ここが、奥様がいらっしゃる病院です。車は、今、玄関に回させますから。早く行ってください」
雪野が、倒れた――?
今朝だって、いつもと同じ笑顔で見送ってくれて。俺の目の前には、手の込んだ弁当だってある。
雪野が――。
いきなり脳が機能し出したように、俺は常務室を飛び出した。
大丈夫だ。ただ少し、体調を崩しただけ。
ただ少し――。
必死にそう自分に言い聞かせる。自棄になって言い聞かせても、胸の鼓動が激しく乱れ、恐ろしいほどの恐怖ばかりが込み上げて来る。
もしも、雪野がこのまま――。
不意に浮かんだ思いが、俺を闇へと突き落とす。闇へと沈み込んで行きながら、過去の記憶がまざまざと蘇る。
――お母様、僕を置いて行かないで。死なないでっ!
いつも優しい笑顔で包み込んでくれていた母親が、初めて涙を見せながら俺の目の前で息を引き取った。
こんな時に、その時の母の顔と雪野の顔がだぶって見えて。心から大切な人を失う恐怖が鮮明になって俺を襲う。
もう、あんな思いはしたくない。
今、雪野を失えば――。
雪野のいない世界なんて、もう考えられない。
ダメだ。雪野だけはどこにも行かせたりしない――。
どういう状況か何も分からないのに。そんなことばかりを考える自分に怒りすら感じる。
バカなことを考えるな。雪野がいなくなるはずがない。そんなはずは――。
収まらない乱れた鼓動は、俺を追い立て追い詰める。
病院にたどり着くまでのその時間が、途方もない永遠のような時間に感じて。
俺は、ただ、雪野のいない世界を彷徨っていた。
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