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第二部

欲しいのは、ただ一人の愛おしい人【side:創介】 15

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 この日は、久しぶりの、二人でゆっくりできる土曜の夜だ。俺と入れ替わるように風呂に入っている雪野を待っていた。

そう言えば――。

鞄の中にある土産物の存在を思い出して、寝室へと向かう。仕事用の鞄の中から袋を一つ取り出す。


 出張報告を終えた後、一人の若手社員が俺のもとに戻って来た。

『常務、よろしければこれをどうぞ……』

そう言って差し出されたものを手に取り、渡された袋のものを確かめる。

『これ……。どうして?』

不思議に思いその社員の顔をまじまじと見つめてしまった。

『はい。出張の期間中、バンコクの街中で常務がそれをじっと見ているのをたまたま見かけまして。失礼かもしれませんが、常務が欲しいと思うようなものではないと思い、もしかしたら奥様へのお土産にしようとされていたのかなと』

まったくその通りで。雪野への土産にしようと、街に食事に出た帰りに見ては何色にしようかと悩んでいた。それは、以前も一度雪野に買って帰った、タイシルクで出来ている小さな象のぬいぐるみ。雪野は、今ではそれを寝室の自分のチェストの上に飾っている。

――一頭だと寂しそう。二つ並べられたらいいな。

そう呟いていたのを思い出して、探していたのだ。でも、急遽帰国することにしたから、結局買うことが出来なかった。

『深夜まで仕事に追われ早朝の便で帰国されていたので、買う暇がなかったんじゃないかと思いまして。よろしければ、どうぞ』
『いいのか……?』
『もちろんです』

何も買わずにすっ飛んで帰って来た。だから、これは非常にありがたい。

『ありがとう』

雪野もきっと喜ぶだろう。そう思うと自然と口元も緩んだ。

『やはり、奥様へのお土産にされるつもりだったんですか?』

居心地が悪くなるほどのニヤついた笑みを、俺に向けて来た。

『そうだ。以前買って帰った時、えらく喜んでいたからな。他に土産なんて何を選んだらいいのかもよく分からないし』
『やはりそうだったんですね。実は、出張メンバーで密かに話していたんです』

手のひらの象からその社員に視線を移す。

『常務は、絶対奥様には甘いだろうって』
『どうして――』
『食事を御一緒した時、我々が奥様のことをお聞きして、それに答えてくださった時の常務の顔が、仕事の時の顔と全然違ったからです』

そんなところを見られているとは、気恥しい。

一体俺はどんな顔をしてるんだ――。

今更手遅れなのに、無意味に顔をしかめてみる。

『仕事に厳しい常務にあんな表情をさせる奥様はどんな方なのだろうと、勝手に盛り上がっておりました。ぜひお会いしてみたいな、なんて――』
『すみませんが』

そこに神原が現れて、目の前の社員が口を閉じた。

『常務もお忙しいので、そろそろよろしいでしょうか?』

じろりと睨むように見られて、『お忙しいところ長居してすみませんでした』と飛んで帰って行った。

『……まったく、ここの社員は、一体どういう感覚をしているのでしょうか。常務に対して平社員があんなにも馴れ馴れしい態度を取るなんて。本社では考えられないことです』

出て行った扉を見ながら、神原が溜息を吐いた。

『まあ、本社とこことでは組織の規模も社員の数も全然違うからな。距離感も違って当然だろう』

俺としては、そんなことよりも、この手のひらにある象のことばかりに意識が向いていた。雪野を笑わせてやることのできるものを手に入れた。

――というわけで、ここにタイシルクの象がある。

 雪野が既に持っているのはパステルカラーのもの。そして、今回新たに手に入れたものは、原色の青、真っ青な象。

喜ぶだろうか――。

「創介さん、寝室にいたんですね」

一人頭の中でぐるぐると考えていると、雪野の声がした。パジャマ姿の雪野が、俺の方へと近付いて来る。こんなところで突っ立ていた俺を不思議に思ったのか、見上げるように様子をうかがって来た。

「どうしたんですか?」
「――これ、タイの土産だ」
「え? 出張のですか……?」

さっと象を戻しておいた紙袋を雪野に手渡す。その紙袋を受け取っても、雪野は目をぱちくりとさせている。まあ、不思議に思うのも仕方がない。出張土産と言いながら、帰国してから一週間も経っているのだから。

「実は、今日タイから戻って来た部下が、気を利かせて買って来てくれたものなんだ」
「創介さんの部下の方が……?」

雪野が紙袋から中身を取り出す。そして、俺を見上げて目を輝かせた。

「創介さん、これ! タイシルクの象です。前に、創介さんが買って来てくれたもの。私、もう一つ欲しいと思ってたの!」
「そうだろう? だから、俺が――」
「部下の方、わざわざこれを選んで買って来てくれたなんて。どうしてこれを選んでくれたんでしょう? 本当に嬉しい」
「いや、だから、そもそも俺が選んでいたのを、俺の部下が見ていて――」
「ねえ、創介さん!」
「あ、ああ、なんだ?」

ここ数週間見たことがないほどの笑顔で。興奮して、雪野がはしゃいだように俺を呼んだ。

「その方に、お礼をしないと」
「いや、だから――」

雪野は、少し何かを勘違いしているみたいだ。でも、それを正す隙さえ与えないほどに喜んでいて、どうしたものかと右往左往している間に雪野が自分のチェストへと駈け出した。そして、飾ってあったパステルカラーの象の隣に、この新しい真っ青な像を並べて置いていた。

「こうやって並べたかったの。ほら、二頭が仲良く一緒にいるみたいでしょう? 可愛いなぁ……」

そう呟く雪野の背中をなんとも言えない気持ちで見つめる。

「本当に、可愛い。やっぱり、一頭より二頭の方がいいよね」

瞳を弓なりにする、雪野が笑う時の顔。その顔で俺に振り返る。そんな雪野を見ていたら、いい大人が持つ感情だとは思えない感情が沸々と込み上げて来た。

その笑顔は、本当なら俺に向けられるはずだったものなのに。

でもこの笑みは、間違いなく、買って来た部下に対してのもので――。

「ねえ、創介さん。その方に、お礼してくださった? もししていなら、私が何かお礼を用意――」

お礼だって――?

お礼ってなんだ。

あの男性社員に、雪野がお礼――。

これを買って来た部下は、年は確か二十四、五だったか。顔は……そこそこいい男だった。俺とは正反対の毒気なんてまったく感じられない爽やかな好青年と言ったところか。あの部下の笑顔を思い浮かべる。

だめだ。絶対にだめだ――。

「ねえ、創介さん、聞いてますか――んっ」

振り向く雪野を力づくで抱きしめ、そのまま唇を塞いだ。

「ど、どうしたの? なんですか?」

身体は抱き留めたまま唇を離すと、雪野が驚いたように目を見開いていた。

「これは俺が選んでいたもので、本当なら俺が買って来るはずのものだったんだ。それを部下が代わりに買って来た。そういうことだ。代わりに買って来てもらった礼は俺からしておく。雪野が考えることじゃない!」

一息にそう告げると、今度は唖然としたように俺を見つめている。

「ご、ごめんなさい……」

その視線が、痛い。どうしようもないほどに大人げない。雪野もきっとそう思っていることだろう。
雪野が誰か他の男のことで嬉しそうに笑っているのかと思うと居ても立ってもいられなくなって、こんなことを口走っている。情けなくて、本当にどうしようもない。
 働いている雪野が、常日頃から他の男と関わっていることは分かっている。でも、そのことについては敢えて考えないようにしていた。俺の知らないところでのこと。考え始めたら泥沼だと分かっていたからだ。
 でも、俺の部下は、現実の人物として俺の前にいるわけで。嫌でも映像として浮かび上がってしまう。本当に、俺はどうしようもないバカだと思う。つい一時間ほど前に、『不安に打ち勝てるように強くならないと』と思ったばかりではないか。雪野に会わせたこともない部下相手に、こんなに取り乱すなんて。不安に打ち勝つどころか、不安に溺れている。

「……雪野、悪かった。くだらないことでムキになって」

雪野の身体からそっと手を離し、ベッドに腰掛ける。

こんなことでは、本当に雪野に愛想を尽かされる……。

――まるで、独占欲丸出しの男だな。みっともないぞー。

木村に言われた言葉がまざまざと思い出される。

 本当に、いい年をした男がみっともない。

「……創介さん」

項垂れて腰掛ける俺の隣に、雪野が腰を下ろした。

「ごめんね」
「いや、俺が悪かった。雪野も呆れただろう?」

俺は苦笑するしかなくて、そう雪野に言った。

「ううん。私の方こそ、ちゃんと話も聞かずに勝手にはしゃいじゃって、ごめんなさい」

俺の肩に雪野が頭をもたれさせる。
そして、そっと俺の腕に触れた。

「創介さんが、私が言ったことを覚えていてくれたこと、嬉しいです」

雪野の腕が俺の腕に回されて、そこに雪野が身体を寄せる。

「……そうか」

慰められてる――?

そう思えばまた、複雑な感情になるけれど、雪野の温もりを感じて少し安堵もする。

「うん。凄く、嬉しい」
「確かに、あの象を見たおまえは、本当に嬉しそうだった。雪野を笑顔にできたんだから、部下に、感謝しないとな……」

雪野のことになると、それも男が絡むと、まともな思考が出来なくなる。落ち着いて考えれば、感謝こそすれ嫉妬するところじゃないと分かるのに。
 雪野が触れてくれている方とは反対の腕をあげ、雪野の髪を撫でた。そうしたら、雪野が俺の腕に寄せていた顔を上げ、見上げて来た。

「そうすけ、さん……」
「ん?」

間近にある雪野の顔。その唇が、俺の名前を呼ぶ形に動く。見上げる目に、熱が灯る。

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