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第二部
欲しいのは、ただ一人の愛おしい人【side:創介】 5
しおりを挟むリビングのスタンドライトだけをつけると、ソファに座り込んだ。腰掛けた瞬間にどっと疲れを感じ、そして張り詰めていた緊張が解けた。背もたれに身体を預けて、目を閉じる。
本当に良かった――。
もうずっと、雪野の涙なんて見たことがなかった。いつも俺に笑顔を見せてくれていた。雪野の心の底からの笑顔を見たい。
そのために、出来る事は――。
「――創介さん、お風呂出ました」
雪野の声が聞こえて、目を開ける。自分たちの部屋に戻ると、冷え切った身体をすぐに温めさせるためすぐに風呂に入らせたのだ。部屋着に着替えた雪野が、リビングの扉のところで立ったままでいる。どこか遠慮がちで、こちらへ来ようとしない。
「雪野、おいで」
間接照明だけの温かな明かりが、雪野の不安げな表情を包み込む。雪野が緊張気味に俺の方へと向かって来る。手を伸ばせば届く場所まで来たところで、その腕を引いた。
「……あ、あのっ。創介さんもお風呂――」
「ああ。でも、少しこうしてから」
引き寄せた身体を俺の腕で囲い込んだ。雪野は、身体を丸ませて腕の中でじっとしていた。小さくなった雪野の身体を、俺の身体全部で包み込む。匂いも肌の温もりも、その全部を感じたい。
「なんだか、雛鳥になったみたい」
雪野が囁いた。
「……ほんとだな」
そう言って小さく笑い合うけれど、すぐにそれも消える。二人の間に横たわる哀しみを、一つ一つ取り除かなければ心から笑えない。
「創介さん、本当にごめんなさい」
腕の中で身動き一つしない雪野が、ぽつりと言葉を零した。
「……出張、まだ終わってないのに――」
それを気にしていたのだろう。
「大丈夫だ。ある程度の目途は付けて来た。あとは最終的な事務的作業だけだから。おまえが心配する必要ない」
そう伝えてから、雪野を抱きしめる腕に力を込めた。
「そのままでいいから、聞いてくれ」
まだ少し濡れた髪に頬を寄せた。慈しむように、その細くなった身体を抱きしめる。
「俺の中には一つの道しかない。他の道なんて存在しないんだ」
雪野に分からせたい。もう二度と、その心を揺らがせないように。
「雪野と一緒に生きて行く。それは、何があっても揺らがない」
雪野が息を潜めている。それが身体越しに伝わる。
「雪野を失ったら、俺は俺でなくなる。雪野は俺のすべてだ」
丸めた背中を労わるように触れる。言葉でも、身体でも、すべてで伝えたい。
「おまえが、俺のためにと離れて行ったところで、俺は抜け殻になるだけだ。社長になる気力なんかあるはずもない。だから、"俺のために別れる"ということ自体成り立たない。より俺を苦しめるだけだ」
雪野が肩を強張らせる。
「それだけは、誰に何を言われても忘れるな」
「創介さん……っ」
じっとしていた雪野が何かを堪えるように声を上げた。
「辛い目に遭わせてごめん。ちゃんと守ってやれなくて悪かった。一人でずっと、心細かっただろう」
雪野が受けた仕打ちを知った時、本当はこうして優しく抱きしめてやりたかった。傷付いて疲れた心を、包み込みたかった。
雪野の肩が震え始めて。涙をこらえて唇を食いしばっている。雪野の心を溶かしたい。胸に留めていた、心の痛みを、叫びを吐き出させたい。
「創介さん、私……っ」
「泣いていいんだ。俺の前で、絶対に耐えたりするな」
雪野が激しく肩を震わせて、口元を押さえている。これまでため込んだ分、いろんな思いがその胸を駆け巡っているんだろう。
「創介さんを、苦しめたくない……。創介さんの、傍にいたいから、私といることで、苦しんでほしくなくて――」
懸命に泣き出すのを堪えているみたいに、途切れ途切れの声。それが余計に、苦しさを表しているみたいで。
「心配するのが当たり前だ。愛している以上、心配もするし苦しくもなる。その感情からは一生逃れられることはない。だったら、二人でその苦しみを分かち合いたいと思う。それが、夫婦じゃないか? 俺たちは結婚したんだ。苦労も喜びも共に分かち合うって、誓ったのを忘れたか?」
「創介さん……」
雪野が声を詰まらせて、肩を震わせる。その震える肩をきつく抱きしめた。
「その苦しみを二人で一つ一つ解決していこう。雪野は一人じゃないだろ? おまえの一番近くにいるのは誰だ?」
「創介さん、ごめんね……っ」
雪野が俺の腕をぎゅっと掴み、顔を胸に押し付けた。
「……私、創介さんの奥さんになるのに、ちゃんと覚悟していたつもりだった。でも、結婚して、いろんなことを見て知って、全然うまくできなくて、やっぱり私じゃだめだったんじゃないかって、そんな情けないこと、思って。私といることで創介さんの重荷になることが、辛かった……っ」
――やっと。
やっと雪野の心の声を聞けた気がした。
「――おまえとの結婚のせいで、俺が今の会社に出向になったと聞いたんだよな?」
雪野が俺を見上げて、目を見開く。
「凛子さんのことも、いろいろ言われたか」
その目から大粒の涙を流し、すぐにその目を逸らした。でも、雪野の手のひらがぎゅっと俺の腕のシャツを掴み、声を漏らす。
「……宮川さん、講演会の場で、私を助けてくれたんです。本当に、素敵な人でした。とっても優しくて、温かい人で……」
雪野が声を詰まらせる。雪野の細い肩が痛々しく震えるから、その肩を胸に引き寄せた。
「そうだな。凛子さんはいい人だ。でも、雪野だって誰にも負けないくらい綺麗な心を持ってる――」
「違うんです。私は、そんな綺麗な人間じゃない。あんなに良くしてもらったのに、ありがたいと思うのに、それ以上に、私は、ただ辛かったんです……っ!」
雪野が苦しそうに言った。
「嬉しいよりもありがたいよりも、辛いと思う気持ちの方が大きかった。私は、宮川さんがいい人で、苦しかった。何もかもを持っている宮川さんを、羨みました。周りの人が、『どうして宮川さんじゃないのか』って言う気持ちが分かるから、苦しかった。いっそ、創介さんが宮川さんを選んでくれていたらって、そんなことまで思いそうになって……っ」
雪野が俺の胸に強く顔を押し付けて、感情のままに言葉を吐き出す。雪野がうちに秘めていた苦しい思い。
凛子さんと自分を比べるなんて、馬鹿げている――。
でも、そうさせてしまうほどに追い詰められていたのだ。
「本当の私は、そんなことを思ってしまうような人間です。こんな私、創介さんには知られたくなかった……」
泣く雪野の髪に指を差し入れる。この愛おしくて痛々しい存在を、どうすれば癒せるのか。そのまま頭を支え、雪野の顔をじっと見つめた。
「私、自分はもっと強い人間だと思っていた。でも、本当の自分は、全然違った――」
「俺は雪野がいいんだ。何を聞いたって揺るがないって、言っただろう?」
雪野が涙を流しながら表情を歪める。
「自分の弱さを認められる人間は、決して弱くなんかない。俺たちはまだ新米夫婦だ。おまえだけじゃない、俺もまだまだ未熟だった。でも、最初から何でも上手く行くとは思ってない。失敗しながら、これから一緒に成長していくんだ。何があっても二人で生きて行く。それ以外の選択肢なんかないんだから――」
その両頬をがっしりと挟み、雪野に告げた。
「離婚なんかしない」
「創介さん……」
驚いた雪野に、頷いてみせる。
「この先も、いろんなことを言う奴がいるだろう。でも、他人の言葉に惑わされるな。おまえが一番に信じるべき人間は、俺だ」
強い眼差しで雪野の目を見る。
「雪野には悪いが、おまえを俺から解放してやる気はない」
強く見つめた雪野の目から涙が溢れ出す。
「こんなに辛い目に遭わせてもな。だから、もう諦めて余計なことを考えるな。何かあれば俺を利用するくらいの気持ちでいろ。いいな?」
理人は雪野を解放しろと言った。でも、そんなこと出来るはずもない。自分勝手だろうが鬼だと言われようが、手放すことはできない。その代わりに、俺には考えなければならないことがある。
雪野のために出来ることを――。
「もう、今日はゆっくり寝ろ。おまえが眠るまで傍にいる」
雪野を抱き上げ、寝室へと運ぶ。
「今日は、ゆっくり寝られそうか?」
「……ん。創介さん、ありがとう」
ベッドに横たえた雪野の額に手のひらをあてて前髪をかき上げる。
本当に、疲れた顔をして……。
一人で、毎夜毎夜、思い悩んでいたんだろう。雪野が、安心したように目を閉じた。
「今日は、傷付いていたおまえを余計に傷付けるようなことをして、悪かった」
その瞼にそっと唇を落とす。
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