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第二部

欲しいのは、ただ一人の愛おしい人【side:創介】 3

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 その日深夜まで、仕事の道筋を調整し、早朝の便で日本に向かった。
 飛行機の中で、雪野のことばかり考えていた。
 どうしてだろう。こういう時に限って、雪野のはにかんだ笑顔ばかりが浮かんでくる。

『創介さん』

雪野の笑顔は本当に優しげで、それを見ているだけで自分まで良い人間になった気がして。

『少しずつ頑張ります。だから、創介さんも、私に足りないところを見つけたら言ってくださいね』

そう言えば、神原に会わせたあの日、そんなようなことを雪野が言っていた。それは、神原に何かを言われたからだったのだ。改めて考えれば、気付くことばかりで。

 あの後、雪野が珍しく大量に買い物をしていた。

俺に釣り合うようにって、考えたのか――。

結婚してから、雪野なりに努力していたんだろう。俺に迷惑をかけないように、恥ずかしくないように。少しでも、この世界になじめるように。

バカだな――。

バカは、俺だ。もっとちゃんと考えてやればよかった。

もっと、もっと、もっと……。

また、雪野に無理をさせていた。

一人で耐えないでくれ。一人で苦しまないでくれ。俺にも全部分けてくれ――。

そうでなければ、俺は何も知らないままで、雪野の苦しみも知らずに、俺だけが雪野といられる幸せを感じて。

少しずつ擦り減っていく雪野に気付かずに、そしていつか、気付いた時には……。

雪野は俺から去って行く――。

導き出された答えに、身体を恐怖が貫いて行く。

 一睡も出来ずに到着した空港から、自宅マンションへと急いだ。
 そこにあったのは、会いたくてたまらなかった雪野が理人に抱き締められている姿だった。

俺といることに疲れて。擦り減ったその心に優しい男が入り込んで。ふっと、何かが切れてしまって、身を委ねてしまったら。そして、それが、理人だとしたら――。

『こんなに彼女が追い詰められるまで放っておいて。あんたの言う守るって、なに?』

まさに、俺が悔やんでいたことを言い当てられて。そして、雪野が追い詰められていることを、理人は知っていた。そのことが何よりも衝撃だった。その事実に我を忘れた。

 俺は、最低だ。

こんな男だ、雪野が逃げ出したくなるのも当然で――。

あまりに激しい鼓動で、ひりつくように胸が痛い。思わず、雑踏の中で立ち竦む。俺の横を、途絶えることなく人が通り過ぎて行き交っていく。

雪野、どこにいる――?

どこかで、泣いているのか。

『弱り切った彼女を送って来ただけだ』

理人の言った言葉がふっと蘇る。

理人――。

考えたくはない。でも、もしかしたら、理人は何か知っているかもしれない。手掛かりになるものは何でもすがりたかった。それが理人だろうがなんだろうが、ただ必死に電話番号を表示させる。
 耳に強くスマホをあてた。秋の夜の冷たい風が、シャツの襟を揺らす。

この夜空の下、おまえは、どこにいる――?

(どうしたんですか? なんで、僕に電話なんか――)

理人の
敵意に満ちた声に構わず、俺は叫んでいた。

「雪野を知らないか? 雪野がいないんだ」
(……えっ?)

理人の声音が変わる。

(いないって、さっき、あなたが部屋に連れ帰ったでしょう?)
「いなくなったんだ」

スマホの向こうで理人が絶句した。

(どうして……)
「雪野から何か連絡あったか? 何でもいい、雪野が行きそうな場所、知っていることがあったら教えてくれ」

理人が雪野の居場所を知っていたとしたらそれは辛いはずなのに、それでも何でも知りたい。

(――知るはずがない。雪野さんが、僕に連絡なんかして来るはずがないだろう? どれだけ取り乱してるんだ。しっかりしろよ)

分かってる。もう昨日からずっと、正気じゃない。

(もし、本当に雪野さんが出て行ってしまったなら、兄さんの顔を見ているのが辛くなったんだろう。辛いのに、兄さんには何も言えないから)

理人は、やはり何かを知ってる――?

(雪野さん、今日、榊の家に来てた。美枝みえ叔母さんに呼ばれたみたいだ)
「なに……?」

どんなことだって知りたいと思ったくせに、これ以上、何かを知るのを拒絶してしまいそうになる。

(叔母さんとお父さんと、そして雪野さんが居間で話しているのを立ち聞きしたんだ)

理人の低くて強張った声を、ただじっと聞いていた。

(雪野さん、泣いてたよ。兄さんと別れたくないって。離婚したくないって……)

大きな通りの真ん中で、身体がぐらりと揺れる。

(結婚して、現実を知っただろうって。雪野さんが苦労する必要ない。お互いに相応しい相手がいる。新しい道を探せる。でも、兄さんからは絶対に雪野さんを手放さないだろうから、雪野さんから離婚を切り出してくれって――)
「ふざけるな!」

理人に怒鳴りつけたところで、相手が違うのに。もう、俺の心は壊れてしまいそうだった。

(可哀想だったよ。見てられなかった。叔母さんの言う通り、兄さんと雪野さんは結婚しちゃいけなかったんだ。どうしたって、辛い目に遭うのは雪野さんばっかりだ)

スマホを握りしめる手が震える。

(雪野さんが妻だから周囲から軽く見られる。もし、兄さんの妻が宮川さんだったら。もっと、兄さんをサポート出来ただろうってさ。今でも、兄さんのところに嫁ぎたいと思っている家はいくらでもある、そんなことまで雪野さんに言っていたよ。本当にそういうの、反吐が出る)

もう、やめてくれ――!

見てもいないのに、そんな事を言われている雪野の姿が浮かび上がる。

(あんなに酷いこと言われて、離婚しろとまで言われて、それでも雪野さんは兄さんに頼れない。何も言えないんだよ!)
「どうして……っ!」

さっき、俺が何度聞いても、雪野は頑なに”大丈夫だ”と言い張った。そんなことがあったというのに。

赤の他人じゃない、俺の家族にまで――。

(この結婚はお互いが辛くなる。雪野さんだけじゃなくて、兄さんも苦しめることになる。そう言われたからだよ。雪野さんが苦しむ姿を見ていなければならない兄さんも辛い。そして、そんな雪野さんを年がら年中心配していたら、仕事にも集中できないだろうって。そんなこと言われて、雪野さんが兄さんに何かを言えると思う?)

理人の言葉に、呼吸を忘れる。

俺は今日、雪野に何を言った――?

(雪野さんはがんじがらめだ。周囲の心無い視線も、本当なら味方になってあげなくちゃいけない家族からも、あなたじゃないと言われているんだ。雪野さんは兄さんを愛している。ただその気持ちから結婚した。その唯一の支えである兄さんにも、何も言えない。彼女は、一体どこに助けを求める?)

捲し立てた理人が、ふっと息を吐いて、俺を責めるように言った。

(――雪野さん、このままだと間違いなく壊れるよ。僕は、そういう人をずっと傍で見て来たからね)

理人の声が、遠ざかっていく。

(ううん。雪野さんは、僕の母親なんかよりずっと優しくて心が真っ直ぐな人だから、もっと……。彼女を解放してやれよ。雪野さんはもっと幸せになっていい。こんなに辛い目に遭う必要なんか――)

解放――?
何を?

(兄さん、聞いてるのか? もしもし? 僕も探してみるから――)

雪野、ごめん。ごめん――。

俺は走り出していた。

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