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第二部
”前夜” 7
しおりを挟む「――それで、着て行く服を選んでほしいと?」
挨拶に行く日の前に、そうにお願いした。
自分の持っている服は、いたって普通の良心的な値段のもの。市役所の職員をしているには困らない。むしろそれがその環境に合わせた服装だ。
必要以上に見栄えをよくしようとは思わないけれど、失礼にあたらないきちんとしたものは着て行きたい。そう思ったら、いろんな女性を見慣れているであろう創介さんに相談するのが一番いい気がしたのだ。
「創介さんなら、会合とか、会食とか。そういうところでたくさんの女性を見ているでしょう? だからと思って……」
「それなら、いいところを一軒知っている」
そう言って、創介がある店に連れて来てくれた。
「俺の知人の店なんだ」
車を降りて、創介さんの後に続く。ガラス張りで、店内は開放感に満ちていた。
「創介。久しぶりだな」
店内に置かれていた白いソファから誰かが立ち上がる。
「休みの日に悪いな。俺には、ここしか思いつかなくて」
「いいよ。姉貴も、おまえが来てくれるって喜んでたし」
そこにいたのは……五年前、二人で話をした木村さんだった。
「雪野ちゃん、お久しぶり」
「お久しぶり、です」
笑顔を向けられて、慌てて頭を下げる。
「聞いたよー。二人、結婚するんだって? 良かったね。君の見返りを求めない強い愛が勝ったんだね。あの時の、君の覚悟は報われたんだ」
もう五年も前だけれど、その時の会話は今でも覚えている。初対面に近い木村さんに、言いたいことを言い放ってしまった。
「――どういうことだ?」
低い声が私と木村さんの会話を遮る。
「いや、まあ、なんでもない。俺と雪野ちゃんとの二人の秘密。ね?」
そんなことを言ったら余計に、創介さんに変に思われる。あの時、二人で話したことはお互い創介さんには言わないことにしていたはずだ。
「秘密? おまえたち、面識なんてほとんどないはずだよな?」
「そんな怖い顔するなよ。別に、おかしなことはしていないから。それより、今日は、雪野ちゃんの服を選びに来たんだろう? 朝から姉貴が張り切ってたぞ」
そう言って木村さんが話を変えると、店の奥から長身の女性が出て来た。
「創介君、立派になっちゃってー。もう、大人の男って感じね」
「華織さん、ご無沙汰しています。今日は、ありがとうございます」
ウエーブのかかったロングの髪が綺麗な女性だった。
「――俺の婚約者の、雪野です。彼女に、似合う服を選んでほしくて。女性が普段
そう紹介されて、緊張のままに頭を下げた。
「戸川雪野と申します。よろしくお願いします」
「とっても可愛らしい人ね。木村華織です」
にっこりと微笑むと親しみやすさまで加わって、とても素敵な人だった。
「木村のお姉さんなんだ。この店を経営してる。華織さんならきっとおまえの力になってくれると思ってここに連れて来た」
そう言って、創介さんが私に教えてくれた。
「よろしくお願いします」
私に優しく微笑みかけてくれるから、肩に入った力が少し和らぐ。
「早速なんだけれど、挨拶はご自宅に行くのよね? 確か、創介君のお父様って――」
華織さんが創介さんにいろいろと確認してくれる。それを元にどういったものがいいのか選んでくれるのかもしれない。
その様子を見ていると、肩をトントンと叩かれているのに気付く。
振り向くと、それは木村さんだった。話し込んでいる創介さんをちらりと見てから、声を潜めて私に言った。
「――あの時は、余計なことを言って悪かったね」
「いえ。いいんです」
あの日木村さんに言われたことは、決して私を陥れようとしたものではない。
「これだけは言っておくよ。あの頃から、創介は君にだけは他の女と違ったのは間違いないから」
私が何も言わずに木村さんを見上げると、にこっと笑った。
「あの時も言っただろ? 創介は君のこと俺たち仲間内にも隠しておきたいみたいだって」
「はい、そうお聞きしました」
「本当に大切なものほど人目に触れさせたくない。できれば隠しておきたいって思うだろう? 誰かに不用意に傷付けられたりしたくないし、奪われりしたくないからね」
あの時から、大事にしてもらっていたのかもしれない。
木村さんの言葉に、その頃の、いつか終わると覚悟していた自分の想いが蘇る。
「あいつを変えたのは君だ。創介という人間を知っているだけに、その凄さに驚いてる。創介も、人の子だったんだなぁ」
そう言って木村さんが笑うから、私もつられて笑ってしまった。
「――二人して、何やってる」
話が終わったのか、いつの間にか創介さんが立っていた。
「いやいや、雪野ちゃんってこんなにキレイな子だったかなってさ。数年見ない間に女って変わるんだねぇ」
「変な目で雪野を見るな」
私の一歩前に出て、創介さんが私を背中に隠す。
「まったく。独占欲丸出しの男だな。みっともないぞー。雪野ちゃん、結婚しても気を付けてね。縛られまくるかもよ?」
「それでも、構わないです……」
創介さんになら、どれだけ縛られてもいいかも――なんて思ってしまう私は重症かもしれない。
「……それはそれは。こっちが恥ずかしくなる」
木村さんは呆れたように溜息を吐いたけれど、結局最後は笑ってくれた。
そうして服装も決まって、なんとか形は整えた。
大丈夫だと何度も自分に言い聞かせる。言い聞かせている時点で、どうしようもなく緊張している証拠だ。でも「大丈夫」と言うしかない。そんな心境で、ここに立つ。
凄いだろうとは予想していた。知らない人はいない、大企業の創業家だ。ちょっとやそっとのお金持ちの家とはわけが違う。そう分かっていた。でも、実際に目の当たりにすると、身がすくむ。
敷地を囲むようにある塀どこまでも続いていて、その中はほとんどうかがい知れない。門構えの脇には、樹齢何年だろうと思うほどの立派な大木がある。都内の一等地、高級住宅街として有名なその場所であっても、創介さんの家は一際大きい。初めて目にした創介さんの生まれ育った家は、私の目の前に大きくたちはだかった。
「――雪野。行こうか」
隣に立つ創介さんが、私を気遣うようにそっと腰に手をあててくれる。
「は、はい」
声までも引きつっている。この先に待ち受けるものに、怯えずにはいられない。
「雪野」
つい力が入ってしまう肩に、創介さんが手を置いた。それに気付いて顔を上げると、創介さんがじっと私を見ていた。
「ここは、おまえの家のように暖かい家じゃない。笑って出迎えたりしてくれるようなこともない。でも、何も引け目を感じることはない。雪野に自分を恥じる部分なんて何一つないんだ。堂々としていろ。いいな?」
「はい」
創介さんの視線が、真剣に私に伝えてくれる。そして肩に添えられた大きな手のひらが私を勇気づけてくれる。
「それに、雪野の隣には俺がいる。一人じゃない」
「はいっ」
――大丈夫。今度は心からそう思える。
私は真っ直ぐに前を向いた。
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