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第一部
それぞれの決断【side:創介】 9
しおりを挟むスマホ越しの無機質な呼び出し音を聞きながら確信する。
雪野は、俺の電話に出るつもりはない――。
何度掛けても繋がらないスマホを、乱暴にジャケットのポケットにしまう。
雪野のいそうなことろは、アルバイト先か、自宅か。土日はたいていアルバイトをしていたはずだ。休日の方が稼げるのだと聞いたことがある。川べりで俺と別れたあとにバイトが入っている可能性もある。
可能性のあるところはすべて当たろう――。
すぐに雪野のアルバイト先に走り出した。
雪野の働く飲食店の前で待つ。本当にそこにいるのか、何時に終わるのか分からない。店舗の裏側に回ると、従業員専用出入り口と思われる所から誰かが出て来た。すぐさまその人間を捕まえようと駆け寄る。
「……兄さん?」
そこから出て来たのは、理人だった。理人に会うのは、ここで鉢合わせて強引に雪野を連れ出した日以来だ。
「こんなところで何をしてるんですか? 今日はお見合いのはずでしょう?」
理人が俺に向ける目は、ただ透明なだけでなんの色もない。表情一つ変えずに、俺に向き合う。
「雪野は――」
「は? あなたって人は、どこまでおめでたいんですか。ここに戸川さんはいませんよ」
理人が俺の前へと一歩進み出た。
「兄さんと戸川さんの関係はもう終わったんでしょう? あなたは宮川大臣の娘と結婚するんだから。兄さんは、いずれそうなることを分かっていて戸川さんとずっと関係を持って来た。こんなにぎりぎりまでずっと。あの人の優しさを貪るだけ貪って、結局最後は、他の女たちにしてきたみたいに捨てたんだろう? なのに、今更どうして彼女に会いに来る? 未練が残っているから?」
歪んだ笑みを浮かべ、冷たい視線を俺に向ける。
「雪野は、今日、バイトじゃないのか?」
ここにはいない。
「分からない人ですね。辞めたんですよ。それもほんの数日前にね」
「辞めた……?」
四月に就職するまでは同じ店で働くのだと言っていた。辞めるだなんて聞いていない。
どうして辞める必要がある? 突然、別れを切り出したのは何故だ――?
「僕には理解できないよ。あんたみたいな男にすべてを捧げた上に、四年間働き続けてきたここも辞める羽目になって。それでもあんたを好きだ言う――」
「辞める羽目になったって……?」
どうして――。
すべてが糸を手繰り寄せるるように繋がっていく。雪野は俺が見合いすることを知っていた。凛子さんを見て、俺の大事な人だろうと言った。きっと、俺が知らずにいる何かがある。そう思えば、居ても立っても居られず走り出していた。
「ちょっと、兄さん――」
まさか――。
頭に過った一つの仮定。どうして、そのことに思いが至らなかったのか。自分の愚かさと能天気さに苛立つ。
倉内か――。
父の側近中の側近。業務上だけの関係ではない。ずっと昔から榊家の中のすべての事情を知っている男。父が直接何かをするわけではない。その命を受け実行するのは、倉内のはずだ。
倉内の携帯電話にすぐさまかけるも繋がらなかった。ただ呼び出し音が流れ、留守番電話へと切り替わる。仕事がすべての男だ。今も、社にいるかもしれない。とにかく、父に会う前にすべての事情を倉内から聞き出さなければならない。社へとただ急いだ。
社長室と同じフロアにある秘書室。薄暗いオフィスの中で、その部屋から明かりが漏れる。ドアを開くと、予想通り倉内が自分のデスクでパソコンに向き合っていた。
「――休みの日のこんな時間まで、熱心だな」
社にいる時は、敬語を使っていた。でも、今は榊家を知る人間として向き合う。
「創介さんこそこんな時間に何か?」
表情一つ変えない、心の内をまったくと言っていいほど見せない男だ。
「戸川雪野。この名前を知っているな?」
倉内の目の前に立ち、見下ろす。
『見合いに来なければ私が直接手を下す』
その父の言葉を鵜呑みにしていた。俺はとんだ大馬鹿だ。父の用意周到さと絶対に他人に隙を与えない性格を知っていたというのに。見合いの前にすべての状況を整え、確実にその日を迎えられるように手を打っていたのだ。
「……私の見込み違いだったかな。戸川さん、あなたに言ってしまったんですか」
冷淡な口調が、静かなオフィスに響く。
「まあ、いいでしょう。遅かれ早かれ知られる可能性があったのも承知の上です」
倉内が椅子から立ち上がった。
「雪野に一体何を言った!」
昂ぶる感情がこの声を大きくさせる。
「宮川家との見合いの五日前、私が戸川さんにお会いしました。そして、榊家の事情と創介さんの置かれた立場をお話したまでですよ。後は、あの方がご自分で判断されたことです。自分の立場をわきまえた賢い方だと思っていたんですがね。それにしても、こんなに早くあなたの耳に入れるとは――」
「ふざけるな! 雪野は俺に何も言っていない!」
頭に血が上り倉内の胸倉を掴む。
「雪野に何を言ったんだ。どうやって脅した?」
「今言った通りです。創介さんにとって、この縁談がどれだけ有益で大切なものかを説明し、戸川さんでは創介さんを幸せにはできないと申しました。創介さんだけではない。丸菱グループの何十万という社員すべてを不安にさせるとね。そして宮川凛子さんが、どれだけ完璧で素晴らしい女性か」
「おまえ……っ」
掴み上げた倉内の胸倉を更に締め上げる。そんなことを言われた雪野が考えることは一つだ。
「私は、一つも間違ったことを言ったとは思っていません。それに、戸川さんは受け取りましたよ」
「……何をだ?」
「丸菱グループからの慰労金です」
「慰労金だと……?」
俺の中の怒りが頂点に達する
「あなたのお父様からのお気持ちです。この三年創介さんの傍にいた方です。息子が世話になった。そのお気持ちからですよ」
「それは、手切れ金ということか?」
一人、突然現れた男に金を差し出された雪野の気持ちを思うと、発狂しそうになる。
「戸川さんは素直にお受け取りになられました。すべてを理解し納得したということです。これ以上、あなたのお父様の意に反することはしないという約束です。ですから創介さんも理解してください」
「そんなこと出来るわけが――」
「あなたも子供じゃないんだ。いい加減にしろ!」
淡々としていた倉内が突然声を荒げた。そんな倉内を見たのは、二十年以上の付き合いの中で初めてだった。
でも――。
「……おまえや父からすれば、たかが一人の女だと思うだろう」
掴んでいた胸倉を乱暴に離す。
「俺にとって雪野は、そんな軽い存在じゃない」
秘書室の扉の前で、もう一度倉内に向き合う。
「あいつを失えば、俺は、ただの肉体をまとっただけの抜け殻になる。そんな男に社の未来を委ねるというのか?」
勢いよく扉を開け、駈け出した。今すぐ雪野に会いたい。
雪野の自宅に向かった。古びた建物の前に来て、メッセージを送信する。メッセージならば、雪野の目には届くはずだ。
”今、家の前で待ってる。雪野が出て来てくれるのを待ってるから”
雪野の性格を考えれば、軽い気持ちで金を受け取ったわけではないだろう。出て来てくれる可能性は低い。でも、このまま会わずに帰ることだけはできない。
二月の夜は心までも冷え込ませる。ところごろこひびの入った建物の一番上の階を見上げる。
そこに、いるんだろう――?
頼むから、顔を見せてくれ。
”これで、最後でも構わない――……”
そう途中まで文字を入力して消去した。その時だった。
「……創介さん」
暗がりから声がする。
「雪野……?」
声の方に目を向けると、雪野が俺を見つめて立っていた。
「来てくれたんだな」
「こんな真冬の夜、外にいたりしたら風邪をひきます」
その声も表情も、いつもとは違う他人行儀なものだ。これまでの自分とは違うとでも言いたいかのように、俺に向ける態度のすべてがよそよそしかった。
それでも雪野は出て来てくれたのだ。この機会を無駄にするわけにはいかない。
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