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第一部
それぞれの決断【side:創介】 7
しおりを挟む雪野が俺の目を真っ直ぐに見る。でも、すぐに顔を背けられた。俺に向けられた背中が、もうこれで最後だと訴えて来る。
何を一方的に勝手なことを。俺の気持ちは、何一つ言わせずに、勝手に俺から去ろうとして――。
腹立たしくて、怖くて、苦しくて、我を忘れて雪野を乱暴に抱き留めた。何度も抱いて来たその肩は悲しいくらいに薄くて強張っていた。
「離してっ」
「離さねーよ」
もがく雪野を力づくで押さえ込む。
雪野の匂い。今もこうして感じられるのに、あまりの恐怖に身が竦みそうになる。髪をいつものように一つに縛っているせいで露わになっている首筋に、力のままに顔を埋める。今、逃したら、永遠に俺の手には戻って来ない気がした。
「お願い、創介さん。私を、苦しめないで。このまま行かせて。創介さんとは笑顔のままで別れたかった――」
「ふざけるな!」
後ろから縛り付けるように抱きしめる。
「勝手なことばかり言いやがって。俺はおまえと離れる覚悟なんかしてないんだよ!」
雪野の嗚咽が漏れる。俺がこんなにも泣かせているのだと分かっている。でも、離してやることは出来ない。
俺のような男がおまえのことを好きになってごめん。おまえを欲しいと思ってしまって、ごめん――。
「俺には雪野しかいない――」
感情のままに言葉を紡ぐと、雪野が苦しそうに声を漏らした。
「あの人、創介さんの婚約者でしょう……? あの人はどうなるの? とっても素敵な人でした。とっても優しそうで……そんな人を差し置いて、私は――」
「あの人にはもう全部言ってある。他に想っている人がいるって」
「そんな……」
雪野がさらに身体を強張らせると、身体中から力を振り絞るようにして俺の腕の中から離れた。
「雪野――」
「創介さん、私には無理です。あなたが生まれながらに持っている物、これから守って行かなければならないもの、創介さんが抱えているものを一緒に支え、さらに大きくしていけるのは私じゃない。それなのに創介さんが私を選んだら、必ず後悔する時が来る。創介さんも、それに、私も。だから私はあなたを選ばない。ここから先は、私たちにはなかった。ここで終わりです!」
涙で溢れた目を真っ直ぐに俺に向ける。それは怖いほどに強い眼差しだった。
雪野が初めて見せた、俺への拒絶。物静かだけれど、雪野の中には強くて太い一本の芯のようなものがある。だからきっと、その意思は固い。
いつも控えめだった雪野の、初めて見せる強い意思。それが俺への別れの言葉だとは――。
もう、誤魔化しようがないほどにはっきりと宣告されたというのに。俺では嫌だと言われたのに。
「それでも俺は、おまえを諦めない」
どんどんと小さくなっていく背中に向かって、往生際悪く叫んでいた。
頭の中が真っ白になり呆然としたまま、凛子さんの元へと戻る。
「……申し訳なかった」
こんな場所に一人置き去りにしていたことに気付く。
「あの方……ですか?」
凛子さんが酷く静かな声で問い掛けて来た。
「創介さんの大切な人」
「ああ……」
せっかく雪野があんな芝居をしたというのに、俺のせいで台無しみたいだ。
「創介さんの今の顔、本当に酷い顔」
凛子さんが哀しげに笑う。そして俺に向けていた顔を、川の水面へと移した。
「あの方、なんだか少し、私の友人に似ていました」
「さっき言っていた、特待生の友人ですか?」
「ええ……」
凛子さんがふっと、力を抜くように笑う。
「ああいう人には、きっと敵わないわね。私とは全然違う生き方をしてきた人なんでしょう。私や創介さんのような人間とは違う視点を持って、ものを見て来た方。だから、惹かれる。哀しいけど、なんとなくわかります」
「凛子さん……」
「創介さんの心を奪っている人を、この目で見られて良かった。きっぱり諦められます。どんなに頑張ってもだめだろうって分かったから」
凛子さんが少し明るい声を出す。その声に、胸の奥が痛んだ。
「どんな人か知らずにいたら、ずっと引きずっていたと思う」
凛子さんが自分に言い聞かせるように言った。
「さっき、咄嗟にあの方嘘をついたでしょう? 使用人だなんて言って。きっと創介さんを想ってのことよね。自分よりあなたの立場を慮った」
「……そうですね」
俺も、静かに流れる水面を見つめる。冬の寒さが嘘のように穏やかな川。
雪野のことを想う。
雪野なら、どう考えるか。雪野なら、どうするのか――。
俺が雪野の考えていることを全部理解出来るとは思わないけれど、雪野がどれだけ優しい人間か、どれだけ自分ではなく他人を守ろうとする人間かそれだけは分かっている。そうやって俺は、この三年雪野に守られていたのだ。
だから――。最後の最後まで、雪野を諦めるわけには行かない。
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