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第一部

それぞれの決断 4

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「雪野……?」

創介さんの動きが止まったと同時に、大きな手のひらが私の頬に触れる。

どうして、やめるの――?

そう思って気付く。涙が全然こらえきれていない。創介さんの肩を濡らしていく。

「雪野」

頑なに顔を創介さんの肩に押し付けた。涙を見られるわけにはいかない。

「雪野、顔を上げろ」

ただ頭を横に振る。

「雪野!」

しがみつくように肩に押し付けていた顔を無理やり掴まれて、創介さんの方へと向けられてしまった。

「……泣いてるのか?」

創介さんの目が滲んで見える。心配そうに覗き込むその表情に、私の胸はまた鋭く痛む。

「どうした? 酷くし過ぎたか?」

何度も頭を横に振る。

「なら、なんだ? どうして、泣いてる……?」

いつの間にか肩を優しく抱かれ、さっきまでの猛々しい行為は嘘だったみたいに創介さんの目には不安が灯っていた。

「やっぱり、今日のおまえは変だ。何か、あったのか? ちゃんと答えろ」

その目と視線を合わせる勇気はなくて、懸命に顔を背ける。それなのに創介さんは私の顔を両手で硬く固定する。

「何も、ありません。ただ、あまりに優しくされ過ぎると泣けてくるんですよ」
「優しいって、今日はおまえが煽るから全然気遣ってやれなかっただろ」

無理のある言葉だと分かっている。でも、騙されてほしかった。この夜が終わるまで、まだ別れの言葉は言いたくない。

「ううん。ずっと、凄く優しかったです」

これ以上泣いている顔を見られるわけにはいかない。止まらない涙に苛立ちながら、創介さんの胸に泣き顔を隠した。

 創介さんがゆっくりと私の背中を撫でる。

「……俺は、優しくなんかないだろ。最初から、ずっと」

その声はどこか苦しそうで、私は頭を振った。

「私の中にいる創介さんは、優しい人です。だから――」

結局、こうして私を気遣って。どんなに欲情して興奮しても、私を思い遣る。これまで一度も、創介さんと身体を繋げた時に置いてきぼりにされたことはない。どれだけ激しくされても、いつも温かかった。
 創介さんが、まだ息の整わない私をそっと胸に抱き寄せてくれた。そして、優しく髪を撫でる。創介さんと抱き合う時、私はいつも女としての幸せを感じていた。

「――あ、創介さん見て? もう、外、暗くなってますね」

心に迫る喪失感を振り払うように、明るい声を出した。大きな窓ガラスの向こうは、いつの間にか夜の闇に覆われていた。明かりもつけないでいたから、部屋の中も外からの夜景から零れる薄明りしかない。

「ああ、本当だな。部屋に入るなり、雪野に襲われたから気付かなかった」
「ごめんなさい」

こうして素に戻ってしまえば、大波のように自分の行為の恥ずかしさが押し寄せて来る。

「外の夜景が明るいせいで、明かりをつけていないのにそこそこ部屋が明るいな」

創介さんが私を優しく胸に抱きながら、そう言った。

「まだ、六本木のマンションがあった頃は二人でよく夜景を見ましたね……」

創介さんのまだ火照った胸に頬を寄せた。窓の向こうの夜景が懐かしく感じる。

「そうだったな。ここまで上層階の部屋を取ったのもの久しぶりだし、せっかくだから一緒に見るか」

そう言って創介さんが顔を傾け、私を見つめた。

「はい。見たいです」

あの頃二人で見た夜景を、最後にもう一度見られる――。

「じゃあ」
「ひゃっ」

創介さんが何も纏っていない私の体をそのまま抱き上げてベッドから降りた。

「何も着てなくて恥ずかしいです」
「よく言うよ。さっきは夢中で脱がせ合ったのに」
「もう、さっきのことは言わないでください」

さすがに裸のまま連れられるのはたまらない。小さく抗議すると、創介さんが私を見て笑った。

「分かった。じゃあ、シーツくらい纏わせてやる」

ベッドから大きい白いシーツを剥ぎ取り二人まとめて覆う。そして、私を抱き上げたまま窓際へと向かった。
 天井までの大きな窓ガラスの淵は座れるほどのスペースがある。壁に背を預けて座り、創介さんの脚の間に私を座らせると後ろから抱きしめて来た。お互い素肌のままでシーツだけをまとう。

 すぐ下に広がる夜景と真っ暗な部屋。まるで私たちしかこの世界にはいないようで、いつまでもこうしていたくなる。

「ほんとに、綺麗……」

すぐ間近に見える夜景に目を奪われていると、私の髪に創介さんが鼻を埋めた。

「もう、涙は止まったのか……?」
「はい。ごめんなさい」

創介さんが私の肩に回した腕に力を込める。

「謝ることはない。泣くのはいいが、その理由はちゃんと教えてくれ」
「……はい」
「まさか、理人に何か――」
「いえ、違います!」

勘違いしてほしくなくて、慌てて否定した。

「本当に、あれから、大丈夫なのか?」
「はい。もう、何もないです。だから安心して」
「そうか……」

創介さんが大きく息を吐いた。そして私の首筋に唇を寄せる。それがくすぐったくて、肩をすくめてしまう。

「……それにしても、本当に雪野の焼きそば食いたかった」
「まだ、そんなこと?」

その言い方が駄々っ子みたいで笑ってしまった。

「昼飯食ってないからだな」
「え……?」

驚きのあまり、後ろを振り返る。

「食べてないんですか? なんでもっと早く言ってくれないんですか? 分かっていれば、私……」
「分かっていれば、あんな風に襲い掛かって来たりしなかった?」

意地悪な目が私に向けられる。

「ほんとに……ごめんなさい」
「冗談だ。ああいうおまえが見られたのは昼飯なんかよりずっと貴重だからな。それに――」

申し訳なくて創介さんの顔を見られない。俯く私に、創介さんの手のひらが落ちて来た。

「一刻も早く会いたくて、昼飯のことなんて頭になかったのは俺だ」

普通にしていると怖いほどに鋭い目が細められる。そうやっていつも私を見つめてくれていた。その目に見つめられるだけで、私は天にも昇るほどに浮かれてしまう。出会ってからずっと、その目に包まれていた。

 そのことを甦らせる。だから、そんなことを言わないで――。

 その視線から逃れたくて、振り向いた顔を元に戻そうとすると手を取られた。指と指の間に入り込んで来る、長い指。そのまま創介さんの唇の方へと引き寄せられた。何度も何度も舌で絡めるように、私の指をゆっくりとなぞる。さっきまでの快感の余韻がやっと消えそうになっていたのに、また火をつけられそうになって固く目を閉じた。

「……本当に、雪野は可愛いな」
「私は、可愛くなんか……っ」

咄嗟に身体を引こうとした。でも、それ以上の力で抱き寄せられ創介さんの胸に閉じ込められる。

 窓の外の夜景は、三年前に創介さんのマンションから見たものと変わりない。でも、確実に時は流れて、同じ場所にはいられない。

「雪野。おまえは、俺といると辛いか?」

囁くような創介さんの声に身体が強張る。私を優しく胸に抱いてなだめるように吐き出される言葉が、怖かった。

「……辛い思いをさせて来たよな。これまで、はっきりと俺の気持ちを口にしたことはなかったから――」
「そんなこと、いいんです」

創介さんの胸から勢いよく離れて顔を背ける。

「どうしてだ? おまえには迷惑なことか?」

ただ頭を振る。そんな私の肩を創介さんが強く掴んだ。

「雪野。今月のおまえの誕生日、話したいことがある」

それは二月の下旬だ。もう、創介さんと会うことはない。

今日で最後――それは変えられない現実だ。約束の証である”手切れ金”を倉内さんから渡された。私はそれを受け取った。絶対にこの決意を揺るがせないためだ。

「大事な話だ。おまえにちゃんと聞いてほしいと思っている。聞いてくれるな?」

痛いほどに肩を掴み訴えて来る。

「雪野。こっちを見てくれ、頼むから」

顔を上げ創介さんの目を見つめた。

「誕生日、絶対にあけておいてくれ」

創介さんはその後も、苦しくなるくらい優しく私を抱きしめた。

 決して忘れないようにその温もりを肌に刻む。確かに、私の中に創介さんがいた。それをいつまでも実感できるように。その痕跡が決して私から消えないように――。

 
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