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第三章

泡沫にも似た恋模様

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二、三日経って、少しだけ分かってきた。スリープを妨げると、通常の動作や記憶・思考に悪影響を及ぼすこと。その回復のためか、反動として、一回のスリープ時間が半日近くまで伸びてしまうこと。しかし経年劣化のためか、記憶を整理するはずの長いスリープでは、記憶障害を生んでしまうこと。それならばいっそ、適度なスリープをさせておいたほうがマシだった。せめて抗うよりも自然の摂理に任せるのが最善とは、つくづく皮肉だなと思う。

 ──鳥の鳴き声と太陽の光で、目が覚めた。瞳を刺すような日射しに目を細めながら、隣で寝ている白波を眺める。昨夜、僕が入浴している間に寝てから、一度も起きていない。寝顔をじっと見つめているのも悪くはないけど、やはり話せないのは、寂しく感じる。

 指に触れた。髪に触れた。寝ているのをいいことに、そっと頭を撫でてみる。彼女はまるで精巧な人形のようだ、と思って、そういえばヒューマノイドは人形だったな、と苦笑した。 けれど僕にとっては、人形なんかではなくて──たった一人の、初めての、大切な恋人だ。

 遅めの朝ごはんは何にしよう。何を作れば、喜んでくれるだろうか。万が一、すぐには起きなくても、長持ちするような──それでいて、僕が辛くならないような、そんなメニュー。

 ……バリエーション豊富な、おむすびとか?

 白波を起こさないように、そっとベッドから降りる。スプリングが少しだけ軋んだ。その足のままキッチンへ向かって、あらかじめ炊いておいた白米をラップの上に盛る。二人前。三個ずつ。ありあわせのものを駆使して、なんとか作り上げた。シンプルな塩とわかめ、こんぶ……あれ、これもしかしなくても海藻のオンパレードでは……? まぁいいや。

「さて」

 やることがなくなって、一気に暇になる。お味噌汁も付け合せで作っておこう。具材は……お豆腐、これでいいや。おむすびとお味噌汁。朝ごはんとしては充分すぎるだろう。『白波の朝ごはん』とだけ記した紙を、食器の下に挟んでおく。完全に母親の気分だ。

 実家とは違って何もない祖父母宅にいると、つくづく僕のなかで、白波という存在が大きいんだなと自覚した。だからこそだろう、この手持ち無沙汰は、虚無感に少し似ている。

鬱屈した気を紛らわせようと、ふらつく足取りで窓を開けて、潮風を吹き込んで、ソファにくつろいだ。知らず知らずのうちに、朝の日射しはだんだんと、真昼の色に変わりつつある。……僕が焦がれているほど待っている相手は、今になっても、まだ起きてこない。

「いただきます」

 空腹には耐えられないので、先に食べる。冷めてしまったお味噌汁を温め直すと、常温に戻ったおむすびとの温度差が、舌によく伝わった。でも単調な味がして、正直、美味しくはない。一人で食べるご飯がこれほどなものだと知って、どこかショックだった。

 自分の食器だけ手早く洗う。ときおり吹く強い風が、頬に伝わってくる。自然の音だけが部屋のなかに響いて、人の声なんかは聞こえない。それはやっぱり、寂しく感じる。

 寝ている白波の様子を見に行った。まだ、起きない。安らかな顔で寝息を立てているだけ、きっと幸せなのだろう。無表情の機械的な姿だったら、その冷淡さが心に滲みたはずだ。

 彼女の枕元でしゃがむ。目線を合わせる。いま起きたら、驚いてくれるだろうか。指先で頬をつつく。つねる。鼻をつまむ。口に指を入れようとして、やめた。それ以上はいけない。

「……黙ってれば綺麗だよね」

 はしゃいでるところも可愛いけど、と付け加える。少し、白波の口元が緩んだ気がした。聞こえてるんだったら、起きてくれないかな──そう言おうとして、口をつぐむ。無理やり起こすのも、きっと、彼女の身体には悪いのだろう。我慢我慢、と自分に言い聞かせた。

 ……このままずっと起きない、ということもあるのだろうか。嫌な不安が脳裏によぎる。今は長くても半日のスリープだ。それが一日、二日と伸びる可能性だってある。そんな時に僕は、どうやって、彼女のそばにいればいいのだろう。長引けば長引くほど、一緒に過ごす時間が削られていることを実感する。何もできない空白の時間だけが増えていく。

でも、これが最善の選択、のはずだ。白波に無理をさせない。そうすることで進行が和らぐなら、それでいい。お互いに無理をして、辛い思いをするのは、望んでいないだろう。これがいちばん、辛くならない方法。だから、我慢するしかない。彼女のためにも。

……正解なんて分からない。分からない、けど、そう決めた。

「ふー……」

 何がなしに溜息を吐く。その吐息が白波の髪を揺らして、頬に触れた。くすぐったかったのか、軽く顔をしかめる。それから目蓋を固くつむると、緩慢な動作で目を開けた。

「あっ……!」

 起きた。眩しそうに目を細めている。それがとても愛らしくて、思わず笑みがこぼれた。

「おはよう。よく寝れた?」

「……おはよう、ございます。スリープの深度は……ふぁあ……良好でした」

 欠伸混じりに、抑揚なく彼女は言う。寝起きで力が入らないのか、起き上がるのも一苦労らしい。それを背中から支えながら、申し訳なさそうに頭を下げる白波へと首を振った。

「すみません、お手を煩わせてしまって」

「最近は調子が悪そうだし、いつものことでしょ」

「……いつもの?」

「……いつもの」

  彼女は覚えがなさそうに、ほぼ無表情ながら声のトーンをやや下げて答えた。

「私、そんなにマスターのご迷惑、でしたか……?」

「いや、そうじゃなくて……。えっと……」

「──私の調子が悪くなったのは、今回が初めてかと」

「……え?」

 的外れな言葉に、一瞬、唖然とする。心臓を握り潰されたかのような衝撃とともに、一気に血の気が引いていくのを感じた。この感情を囃し立てていく拍動が、脳髄まで振動を伝えていく。平たく言えば、恐怖心。けれどわずかな希望を求めて、僕は掠れ声で問いかける。ほんの一瞬だけ感じた違和感の、答え合わせをするように。逃げ道を、作るように。

「……あの、君は、どこまで……覚えてる?」

 いや──そうじゃない。

「どこまで……僕との間に距離を感じてる?」

 彼女の答えを待つほんの一瞬が、十秒にも二十秒にも感じられた。いや、あるいは、あまりにも淡々とした、いつもの表情よりはぶっきらぼうに見える面持ちだから、そう錯覚したのかもしれない。明らかな違和感を覚えながら、そこから目を逸らしていただけで。

 思案深げに顔を伏せていた白波が、日射しに照る群青色の瞳で、僕を見つめた。

「私は、マスターとヒューマノイドという関係に適切な距離感を保っているだけです。お望みならば、マスターのご要望に応えることもできますが、いかがいた──」

「いい」

 自分のなかで、何かが切れた気がした。弾かれるように立ち上がりながら、相も変わらず面白みのない彼女の表情を横目に、寝室を後にする。雑多な感情が綯い交ぜになって、怒鳴りたいのか、泣きたいのか、逃げたいのか、よく分からなくなった。ただ、白波の前にはいたくない。衝動的に玄関を抜けて、気温も気にせず、炎天下のアスファルトを踏みつける。

「なんで……」

 何が『なんで』なのかは分からない。とにかく人目を避けたい思いで、緩やかな坂道を足早に上る。小学校を越えて、山あいの道に差し掛かって、木陰に伸びた電柱の傍にしゃがみこみながら、僕は大きく溜息を吐いた。胸のなかで乱反射している感情に、収まりはつかない。それがどうにもできないほどに腹立たしくて、握った拳を力の限り叩きつける。一度じゃ足りなかった。痛みに耐えながら、二度、三度と打ち付ける。わけも分からず流れていく涙を手の甲で拭いながら、漏れそうな嗚咽を必死に隠した。自分でももう、分からない。

「あー、くそっ……」

 力任せに頭を掻く。爪が立って、痛い。こんなこと、するはずじゃなかったのに。

 どうせ人なんか来ないと、焼けたアスファルトの上に寝転がる。日射しが目に眩しい。夏の群青は鮮やかすぎる。何かにつけて反抗したくなって、痛いほど固く目蓋を閉じた。

 ──この感覚は、数日前のあれに似ている。一気に突き放されたような、恐怖感。恋人という自己顕示欲と、自己満足。白波のなかで、僕の存在が希薄になっていることが、とても怖かった。怖かったから、目を逸らした。見ないふりも、聞こえないふりもした。

 ──覚悟を決めていく、なんて、あんなの詭弁だ。結局、その場限りの言い訳だった。白波は悪くないと思いながら、それを受け入れられない僕を、都合よく納得させるための言葉に過ぎなかった。覚悟なんて決まっていなくて、現実を素直に受け入れられるほど強くなくて、だから、あの場から離れたくなって、そんな自分が悔しくて、怒りたくなった。

 同時に、白波から僕への態度が一変していることに気が付いて、その関係が重要なものではないと言われた気がして、やっぱり彼女は悪くないのに、それでも、辛かった。今まで見たことのない冷淡な態度で、それなのに、下手に気を使わせてしまった。わざわざ命令してまで、そんな上辺だけの関係で、白波と一緒にいたくない。……でも、彼女は悪くない。

「……馬鹿だ」

 結局、僕がいちばん馬鹿だったのかもしれない。たかがヒューマノイドだ。たかがネットコンテンツだ。そんなものに一喜一憂して、これ以上なく感情移入して、生活のすべてを自分で狂わせていって、そうして最後には破滅する。白波は僕に付き合ってくれているだけにすぎなくて、たとえその態度が本物だったとしても、それは穏やかな消滅を迎えるまでの、いわばお遊びでしかないのだろう。所詮これは、コンテンツとの、仮初めの関係だった。

「あっつ……」

 冷静になればなるほど、自分に落ち度があると実感させられる。何も変わっていない、何も変えられていない、そんな自分の現実を、まざまざと見せつけられていた。背中を覆うアスファルトの熱気、布一枚を隔てて焼かれる肌、だけれどそこから動けない。伝う汗が目に滲みて、それが涙と綯い交ぜになって、夏の群青も、あの入道雲も、区別がつかなかった。ぽつねんと、たった一人で寝転がる僕を嘲笑うように、頭上から蝉時雨が降っている。

「……」

 冷静になればなるほど、暑い。何も考えずに飛び出した僕が馬鹿だった。このままじゃ死ぬ。とはいえ衝動的に白波の前から逃げ出した手前、そのまま家に戻るのも気まずくて、乾きかけの喉を唾でようよう誤魔化しながら、どうしようかと思案に暮れる。下手にそこらを一人でうろついて、圭牙とか凪に会ったりしたら、弁明するのも余計に恥ずかしい。

「死ぬよりはマシか……」

 言い聞かせるように呟いて、立ち上がった。
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