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第二章
曖昧な決意
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「……ふー」
朝日の射し込む部屋のなかで、僕はその眩しさに目を細めながら、ベッドの上でブランケットを剥ぎ取った。体感温度はかなり高い。嫌な蒸し暑さを感じつつ、窓を開けたその向こうにある、群青色の夏空を見た。吹き込んでくる潮風が、汗ばんだ肌に触れてとても涼しい。
時刻を確認すると、八時半くらいだった。
「ふぁ……」
誰もいないからと、気の抜けた欠伸をする。結局、ろくに一睡もできなかった。昨夜は別に、特筆すべき大きな出来事もなくて、圭牙たちと別れたあとも、いつものようにいつもと同じ夜を過ごした。それがどこか心地よくて、普段通りの彼女に安堵していたという節はある。
……ただ、就寝のために白波と離れてからは、妙な不安のようなものが僕の胸の内を巣食っていった。彼女への告白を、どうすれば無事に遂行できるのか。こんな関係で、ここから上手く告白に話を繋げられるのか。それを考えるだけで、まったく眠れなかった。しかも、何も思いつかない、最悪の状況を迎えてしまったわけで。
「……何とかなるかなぁ」
不安を紛らわそうと敢えて声を出しながら、まだ白波の起きていないであろうリビングに向かう。このことを考えるだけで胸が締め付けられるし、動悸が酷い。水でも飲んで落ち着かせようか……と思いながら、そのままキッチンへと移動した。蛇口にグラスをかざして、自動で出てきた水道水を、二口、三口と一気に飲み干していく。
呼吸が、少しだけ楽になったような気がした。それにどこか安堵して、僕は腰に手を当てながら、リビングの窓硝子まで歩を進める。いつもは開けないはずのそこを、今はなんだか、全開にしたくなった。昔から変わらない手動の錠を下ろして、やや重たい扉を横に引く。カランカランと鳴りながら、微かな潮の匂いがした。
「──すーっ、はぁー……」
火照った身体が、だんだんと爽凉の気を帯びていく。群青色の夏空と、それを映した海の青、朦々と立ち昇るような入道雲は、いつ見ても変わらない。たとえこの島が海底に沈もうと、この青さだけはずっと残っていく。
……我ながら、変なことを考えるものだ。
いつもよりも格段に心地よい朝を迎えながら、僕は何を考えるでもなく、ソファに腰掛ける。そうしてふと、物寂しいな、と、一瞬だけ思った。隣に座ってくれる白波が、まだ起きていない。それをどうにか紛らわせようとして、真っ先に思いついたのは──一人じゃんけん。
「最初はグー、じゃんけんポン」
あいこだ。一人でやると、こんなものだろう。そう苦笑しながら、何がなしにリビングの入口を見る。
「……朝から何やってるんですか、マスター」
──そこには珍妙なものを見たかのような顔で、白波が少しだけ後ずさりしながら、僕の方を見ていた。
◇
『私の一人じゃんけんは可愛いからいいんです。でも、マスターがそれをやるのはちょっと怖いです……』という彼女の弁を聞かされながら、僕たちはまた、朝食を済ませてから日課の散歩をしていた。普段なら何気ないはずのこのルーティンも、今となっては、少し気まずい。
今日のうちに、白波に告白をする──ということは、事前に圭牙たちに伝えていた。その時の二人の盛り上がり方に面食らったけれど、実行するなら早い方がいい。ただその代わり、今日だけは直接会うのはやめてね、という条件付きで、現在、こうして彼女と過ごしている。
「マスター、今日って何をするんですか?」
拳一個ぶんほど違う目線の高さで、白波は僕を上目に見る。ご機嫌そうに足を高く上げながら、アスファルトに掠れた白線の上をなぞっていく。縁石があれば、その上を歩いていく。子供じみたことだけれど、そういうところもやっぱり、可愛らしい。昔とは少し違うから。
「今日は……んー、圭牙も凪も来れないって言ってたから、久々に二人きりかな。行きたいところ、ある?」
「マスターと一緒なら、どこでもいいですよっ」
「嬉しいけど、普通に行き先に困る返事だね……」
「じゃあ、まだ行ってないところ行きましょう!」
「……神社とか」
「ですっ!」
適当に答えたけれど、確かに神社はまだ行ってない。高台のガードレール越しに見える海と少し向こうの横断歩道とを横目に見ながら、あの掲示板と公衆電話のある集会所の通りに出る。神社はここからすぐ近くにあったはずで、この集会所を左に折れた道の先だ。
「白波はこっち、初めて行くの?」
「たぶん……。なかなか外出はなかったですし」
「じゃあ今日は、行ったことないところに行こう」
「はいっ。男女の二人がお出かけすることを、人間は特に『デート』と呼びますが、それですか?」
「っ、君ねぇ……。あまりそういうこと言わないの」
「あっ、ごめんなさいごめんなさい……! そうですよね、私は人間の女の子じゃありませんでした……。デートは人間同士にのみ成立するんですよね。私なんかがそんな……おこがましいことを……申し訳ございません」
なぜか手を振って必死に否定している。彼女のなかで人間とヒューマノイドは、明確に区別されているのだろう。……いや、恐らく、ほとんどの人間もそうなのかもしれないけど。幼少期に白波と出会っていた僕にとっては、彼女もほとんど、人間に近い感覚だ。そもそも感情表現が、ヒューマノイドにしては豊富すぎる。
「別に……なんで謝るの。人間とかヒューマノイドとかそういうのじゃなくて、軽々しく僕を煽るようなことは言わないでね、って意味。分かった?」
「……? 分かりましたっ!」
元気だけは立派な白波に苦笑しつつ、僕たちはそのまま進んでいく。左右を民家に挟まれている、けれど、あまり人気がない。このあたりに住んでいた人は、みな散り散りに、本土へ移住してしまったのだろうか。
頭上を伸びていく電線の影を踏みながら、さらに高台へと続くコンクリート製の階段を指さす。手すりと柵代わりになっている金属の表面が、錆びきった鉄棒のような色をしていた。あれを登った先に神社がある。
「マスター!」
「なに」
「おてて、繋いでくれませんっ?」
「なんで」
「……転んじゃいそうなので。えへへ」
差し出された右手を前にして、僕はほんの少しだけ逡巡する。けれど、いつものように平静を装いながら、きめ細かで、柔和で、人肌程度に温かい、彼女のその手を取った。嬉しそうに笑うその顔で、僕もつられて笑みがこぼれてしまう。日常の、ほんの些細な幸せだ。
小柄な二人で通れるほどの幅を、熱を帯びた手すりに掴まりながら、一段一段、ゆっくり登っていく。段差につまづかないように、しっかりと手を握って──傍から見れば、それこそ昨日、凪が言っていたように、介護のそれにも似ているかもしれない。けれど僕たちは、何気ないこの瞬間を、明らかに楽しんでいた。
「二十八、二十九──よしっ、登りきりました!」
「僕が手を繋いでてもつまづくんだね……」
「これはもう、どうにもできないというか……。てへ」
わざとらしく笑いながら、白波は手を繋いだまま言う。手のひらと指先の感触を、強く感じた。
「今日はずーっと、おてて、繋いでましょう」
「……僕がいちばん恥ずかしい思いするんだけど」
「えぇー、いいじゃないですかぁ。いいですよねっ、マスターの左手さん! ……ほら、いいって言ってる」
「言ってない」
「ですね、神社にはまだ行ってませんね! 早く行きましょうっ。えっと……あれが入り口なのかな……?」
僕の言うことをまったく聞かないまま、彼女はマスターの左手を勝手に引っ張っていってしまう。階段を登った先は、裏山へと続く遊歩道がすぐに見えた。青青と眩しい木々の枝葉が、そよ風とともに、蝉時雨の音色をいっそう強くしている。緩やかな左カーブの坂ばいに沿って歩いていくと、開けた先に石造りの階段が見えた。
「あ、マスター! 鳥居です! 鳥居っ!」
何を見ても嬉しそうにはしゃぐ白波を可愛らしく思いながら、少しだけ暑さに火照った肌を、手扇で扇ぐ。松の木が頭上をうねるように伸びていて、それらが真夏の日射しを受け止めていた。木陰の涼しさを肺に吸い込みつつ、僕と彼女はまた、手を繋いだまま階段を上がる。
木漏れ日が、石畳を淡く照らしている。そこをなるべく避けながら、さほど高さのない石段を、わざと大袈裟に、足を高く上げながら進んでいく。御影石の鳥居が近付くにつれて、なんだかそれが馬鹿馬鹿しくなって、二人で顔を見合せながら笑った。土草の匂いがしていた。
段々と拝殿が見えてくる。立派なものなんかじゃなくて、小さな島にお似合いの、小さな祠なようなもの。けれど確かに時代を感じる程度には、古ぼけていた。参道を左右から挟む阿吽像を撫でながら、白波は無言で笑う。それって撫でるものなんだろうか……。
「ここに来たってことは、やることは一つですねっ」
「……悪いんだけど、僕、お金持ってきてない。神社に行くとは思わなかったし、手ぶらだった……ごめん」
「えぇーっ!? でもまぁ、そうですか……確かに」
繋いだ手をぶんぶんと振り回しながら、彼女はせめてもの抵抗というように語気を強めた。けれどひとたび納得してしまうと、途端に腕を振る力も弱くなる。正直だ。
「お賽銭はありませんけど、誠心誠意、心を込めて、神様にしっかりとお願いすればいいんですよね?」
「そう。作法はわかる?」
「鈴を鳴らして頭を下げて鈴を鳴らして手を叩く!」
「迷惑な参拝客だね……」
ドヤ顔で冗談を言うあたり、かなりご機嫌だなと思った。今まで行けなかったところに行けるから、それはやはり、嬉しいのだろう。そういう彼女を見ていると、僕も嬉しくなる。デートだとか告白だとか、そういうことを気にせずに、純粋に楽しめているような感じがした。
拝殿の前で背筋を正す。着物を着ている白波の姿は、そこにまったく違和感がない。ひとまず鈴を鳴らそうと、絡めていた指先をほどく。二人で紐を掴みながら、僕は控えめに、彼女は子供らしく大胆に揺すっていく。
そして二礼二拍手一礼、これが最低限の参拝作法。僕は目を閉じて、凪いだ心持ちのまま頭を下げた。そして二度目のお辞儀をしようとして、腰を曲げた瞬間。
「──えいっ!」
ガランガラン、と、鈴がけたたましい音を立てる。ちょっと待って、あの発言は冗談じゃなくて本気だった? 僕がそう動揺している最中にも、軽快な柏手が聞こえる。
「マスターと、今日も明日も明後日も、ずーっと楽しく過ごせますようにっ。神様よろしくお願いします!」
願いごとを声に出しながら、白波は満面の笑みで祈っていた。それからとても満足そうな、晴れやかな顔になると、呆然としている僕を見て、楽しそうに言う。
「ねぇねぇ、マスターは何をお願いしたんですかっ?」
「えっと……その、白波と同じ、かな」
間違いではないけど、咄嗟についた嘘だった。
朝日の射し込む部屋のなかで、僕はその眩しさに目を細めながら、ベッドの上でブランケットを剥ぎ取った。体感温度はかなり高い。嫌な蒸し暑さを感じつつ、窓を開けたその向こうにある、群青色の夏空を見た。吹き込んでくる潮風が、汗ばんだ肌に触れてとても涼しい。
時刻を確認すると、八時半くらいだった。
「ふぁ……」
誰もいないからと、気の抜けた欠伸をする。結局、ろくに一睡もできなかった。昨夜は別に、特筆すべき大きな出来事もなくて、圭牙たちと別れたあとも、いつものようにいつもと同じ夜を過ごした。それがどこか心地よくて、普段通りの彼女に安堵していたという節はある。
……ただ、就寝のために白波と離れてからは、妙な不安のようなものが僕の胸の内を巣食っていった。彼女への告白を、どうすれば無事に遂行できるのか。こんな関係で、ここから上手く告白に話を繋げられるのか。それを考えるだけで、まったく眠れなかった。しかも、何も思いつかない、最悪の状況を迎えてしまったわけで。
「……何とかなるかなぁ」
不安を紛らわそうと敢えて声を出しながら、まだ白波の起きていないであろうリビングに向かう。このことを考えるだけで胸が締め付けられるし、動悸が酷い。水でも飲んで落ち着かせようか……と思いながら、そのままキッチンへと移動した。蛇口にグラスをかざして、自動で出てきた水道水を、二口、三口と一気に飲み干していく。
呼吸が、少しだけ楽になったような気がした。それにどこか安堵して、僕は腰に手を当てながら、リビングの窓硝子まで歩を進める。いつもは開けないはずのそこを、今はなんだか、全開にしたくなった。昔から変わらない手動の錠を下ろして、やや重たい扉を横に引く。カランカランと鳴りながら、微かな潮の匂いがした。
「──すーっ、はぁー……」
火照った身体が、だんだんと爽凉の気を帯びていく。群青色の夏空と、それを映した海の青、朦々と立ち昇るような入道雲は、いつ見ても変わらない。たとえこの島が海底に沈もうと、この青さだけはずっと残っていく。
……我ながら、変なことを考えるものだ。
いつもよりも格段に心地よい朝を迎えながら、僕は何を考えるでもなく、ソファに腰掛ける。そうしてふと、物寂しいな、と、一瞬だけ思った。隣に座ってくれる白波が、まだ起きていない。それをどうにか紛らわせようとして、真っ先に思いついたのは──一人じゃんけん。
「最初はグー、じゃんけんポン」
あいこだ。一人でやると、こんなものだろう。そう苦笑しながら、何がなしにリビングの入口を見る。
「……朝から何やってるんですか、マスター」
──そこには珍妙なものを見たかのような顔で、白波が少しだけ後ずさりしながら、僕の方を見ていた。
◇
『私の一人じゃんけんは可愛いからいいんです。でも、マスターがそれをやるのはちょっと怖いです……』という彼女の弁を聞かされながら、僕たちはまた、朝食を済ませてから日課の散歩をしていた。普段なら何気ないはずのこのルーティンも、今となっては、少し気まずい。
今日のうちに、白波に告白をする──ということは、事前に圭牙たちに伝えていた。その時の二人の盛り上がり方に面食らったけれど、実行するなら早い方がいい。ただその代わり、今日だけは直接会うのはやめてね、という条件付きで、現在、こうして彼女と過ごしている。
「マスター、今日って何をするんですか?」
拳一個ぶんほど違う目線の高さで、白波は僕を上目に見る。ご機嫌そうに足を高く上げながら、アスファルトに掠れた白線の上をなぞっていく。縁石があれば、その上を歩いていく。子供じみたことだけれど、そういうところもやっぱり、可愛らしい。昔とは少し違うから。
「今日は……んー、圭牙も凪も来れないって言ってたから、久々に二人きりかな。行きたいところ、ある?」
「マスターと一緒なら、どこでもいいですよっ」
「嬉しいけど、普通に行き先に困る返事だね……」
「じゃあ、まだ行ってないところ行きましょう!」
「……神社とか」
「ですっ!」
適当に答えたけれど、確かに神社はまだ行ってない。高台のガードレール越しに見える海と少し向こうの横断歩道とを横目に見ながら、あの掲示板と公衆電話のある集会所の通りに出る。神社はここからすぐ近くにあったはずで、この集会所を左に折れた道の先だ。
「白波はこっち、初めて行くの?」
「たぶん……。なかなか外出はなかったですし」
「じゃあ今日は、行ったことないところに行こう」
「はいっ。男女の二人がお出かけすることを、人間は特に『デート』と呼びますが、それですか?」
「っ、君ねぇ……。あまりそういうこと言わないの」
「あっ、ごめんなさいごめんなさい……! そうですよね、私は人間の女の子じゃありませんでした……。デートは人間同士にのみ成立するんですよね。私なんかがそんな……おこがましいことを……申し訳ございません」
なぜか手を振って必死に否定している。彼女のなかで人間とヒューマノイドは、明確に区別されているのだろう。……いや、恐らく、ほとんどの人間もそうなのかもしれないけど。幼少期に白波と出会っていた僕にとっては、彼女もほとんど、人間に近い感覚だ。そもそも感情表現が、ヒューマノイドにしては豊富すぎる。
「別に……なんで謝るの。人間とかヒューマノイドとかそういうのじゃなくて、軽々しく僕を煽るようなことは言わないでね、って意味。分かった?」
「……? 分かりましたっ!」
元気だけは立派な白波に苦笑しつつ、僕たちはそのまま進んでいく。左右を民家に挟まれている、けれど、あまり人気がない。このあたりに住んでいた人は、みな散り散りに、本土へ移住してしまったのだろうか。
頭上を伸びていく電線の影を踏みながら、さらに高台へと続くコンクリート製の階段を指さす。手すりと柵代わりになっている金属の表面が、錆びきった鉄棒のような色をしていた。あれを登った先に神社がある。
「マスター!」
「なに」
「おてて、繋いでくれませんっ?」
「なんで」
「……転んじゃいそうなので。えへへ」
差し出された右手を前にして、僕はほんの少しだけ逡巡する。けれど、いつものように平静を装いながら、きめ細かで、柔和で、人肌程度に温かい、彼女のその手を取った。嬉しそうに笑うその顔で、僕もつられて笑みがこぼれてしまう。日常の、ほんの些細な幸せだ。
小柄な二人で通れるほどの幅を、熱を帯びた手すりに掴まりながら、一段一段、ゆっくり登っていく。段差につまづかないように、しっかりと手を握って──傍から見れば、それこそ昨日、凪が言っていたように、介護のそれにも似ているかもしれない。けれど僕たちは、何気ないこの瞬間を、明らかに楽しんでいた。
「二十八、二十九──よしっ、登りきりました!」
「僕が手を繋いでてもつまづくんだね……」
「これはもう、どうにもできないというか……。てへ」
わざとらしく笑いながら、白波は手を繋いだまま言う。手のひらと指先の感触を、強く感じた。
「今日はずーっと、おてて、繋いでましょう」
「……僕がいちばん恥ずかしい思いするんだけど」
「えぇー、いいじゃないですかぁ。いいですよねっ、マスターの左手さん! ……ほら、いいって言ってる」
「言ってない」
「ですね、神社にはまだ行ってませんね! 早く行きましょうっ。えっと……あれが入り口なのかな……?」
僕の言うことをまったく聞かないまま、彼女はマスターの左手を勝手に引っ張っていってしまう。階段を登った先は、裏山へと続く遊歩道がすぐに見えた。青青と眩しい木々の枝葉が、そよ風とともに、蝉時雨の音色をいっそう強くしている。緩やかな左カーブの坂ばいに沿って歩いていくと、開けた先に石造りの階段が見えた。
「あ、マスター! 鳥居です! 鳥居っ!」
何を見ても嬉しそうにはしゃぐ白波を可愛らしく思いながら、少しだけ暑さに火照った肌を、手扇で扇ぐ。松の木が頭上をうねるように伸びていて、それらが真夏の日射しを受け止めていた。木陰の涼しさを肺に吸い込みつつ、僕と彼女はまた、手を繋いだまま階段を上がる。
木漏れ日が、石畳を淡く照らしている。そこをなるべく避けながら、さほど高さのない石段を、わざと大袈裟に、足を高く上げながら進んでいく。御影石の鳥居が近付くにつれて、なんだかそれが馬鹿馬鹿しくなって、二人で顔を見合せながら笑った。土草の匂いがしていた。
段々と拝殿が見えてくる。立派なものなんかじゃなくて、小さな島にお似合いの、小さな祠なようなもの。けれど確かに時代を感じる程度には、古ぼけていた。参道を左右から挟む阿吽像を撫でながら、白波は無言で笑う。それって撫でるものなんだろうか……。
「ここに来たってことは、やることは一つですねっ」
「……悪いんだけど、僕、お金持ってきてない。神社に行くとは思わなかったし、手ぶらだった……ごめん」
「えぇーっ!? でもまぁ、そうですか……確かに」
繋いだ手をぶんぶんと振り回しながら、彼女はせめてもの抵抗というように語気を強めた。けれどひとたび納得してしまうと、途端に腕を振る力も弱くなる。正直だ。
「お賽銭はありませんけど、誠心誠意、心を込めて、神様にしっかりとお願いすればいいんですよね?」
「そう。作法はわかる?」
「鈴を鳴らして頭を下げて鈴を鳴らして手を叩く!」
「迷惑な参拝客だね……」
ドヤ顔で冗談を言うあたり、かなりご機嫌だなと思った。今まで行けなかったところに行けるから、それはやはり、嬉しいのだろう。そういう彼女を見ていると、僕も嬉しくなる。デートだとか告白だとか、そういうことを気にせずに、純粋に楽しめているような感じがした。
拝殿の前で背筋を正す。着物を着ている白波の姿は、そこにまったく違和感がない。ひとまず鈴を鳴らそうと、絡めていた指先をほどく。二人で紐を掴みながら、僕は控えめに、彼女は子供らしく大胆に揺すっていく。
そして二礼二拍手一礼、これが最低限の参拝作法。僕は目を閉じて、凪いだ心持ちのまま頭を下げた。そして二度目のお辞儀をしようとして、腰を曲げた瞬間。
「──えいっ!」
ガランガラン、と、鈴がけたたましい音を立てる。ちょっと待って、あの発言は冗談じゃなくて本気だった? 僕がそう動揺している最中にも、軽快な柏手が聞こえる。
「マスターと、今日も明日も明後日も、ずーっと楽しく過ごせますようにっ。神様よろしくお願いします!」
願いごとを声に出しながら、白波は満面の笑みで祈っていた。それからとても満足そうな、晴れやかな顔になると、呆然としている僕を見て、楽しそうに言う。
「ねぇねぇ、マスターは何をお願いしたんですかっ?」
「えっと……その、白波と同じ、かな」
間違いではないけど、咄嗟についた嘘だった。
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