鏡鑑の夏と、曼珠沙華

水無月彩椰

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八月二十七日

人間なんて

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踏切を道路沿いに歩いて雨宮家の門を過ぎると、村の規模からして大したものではなくとも、住宅街と呼べるような所に差し掛かった。ところどころが家の間を埋めるように田畑や畦道になっている。どれもこれも一様に古びた建物で、いちばん真新しいものでも築四十年はあろうかという話なのだから、都会の住宅街を見慣れている僕にとっては、やはり、なんというか、慣れない。

いや、慣れないのは、あやめの手を繋ぎながら歩いているせいかもしれないけれど……。なるべく意識しないようにしてきたのに、一度でも関心を向けてしまうとこれだ。お互いに恥ずかしがっているならまだしも、異性に対して耐性のない僕だけが勝手に羞恥の情を抱いているのだから、屈託のない笑みを浮かべている彼女の面持ちを見ていると、自分自身が少々、気弱に思えてくる。


「──なんか、小さい時を思い出すよねぇ」


歩調は五十ほどのBPMを刻みながら、あやめは麦わら帽子に陰った目元を綻ばせた。炎陽がその硝子玉を射す。爛燦とする瞳の向こうに、彼女は何を見ているのだろうかと、そう思った。


「一緒に遊ぶ時、こうして手を繋いでさ、二人で仲良くして、転ばないように、はぐれないように、ってよく言われてたよね。庭先とか、田んぼの畦道とか、駄菓子屋さんとか、神社とか、その近くの小川とか、色々なところに行って、とにかく遊んでた。学校のお勉強以外には、それくらいしかすることがなかったしね」


「田舎だから、余計に」とあやめは苦笑する。


「それと同じことを、いま繰り返してるんだよ。目は見えないけど、二人で遊んでるの。私が転ばないように、はぐれないように彩織ちゃんが手を繋いでくれてて、庭とか、踏切とか、駅とかに連れていってくれてる。それで、ここはこういう風景なんだ──って、私は思い出しながら懐かしんでるの。なんだか昔に戻ったみたいで、結構、楽しいよ。二人だけのさ、秘密の遊びだね」


その清廉無垢な彼女の言葉と笑みを見聞きしているうちに、僕は、僕自身の中に眠らせていた童心を呼び起こしたように思う。だからだろうか、心ごと昔に立ち返ったような晴れ晴れとした気持ちで、手を握ることで生じていた羞恥とかいう感情も、このアスファルトに霞む陽炎のように、いつしか朧気になっていた。


「なんか、二人だけって言われると、少し恥ずかしいな」
「なんで。昔はよく二人だけで遊んでたのに」
「そうだけど……あやめちゃんは昔から変わらないね」
「それはそう。私は私、ずっと変わらないよ」
「ふふっ。まぁ、良いことだよね。そういうのも」


路傍の線路から視線をすべらせていく。少し向こうには、古びた駅舎が夏陽炎に揺らめいて、あのスレート屋根を炎陽が眩しく照らし続けていた。ところどころ塗装の剥げた白塗りの外壁は、ひび割れと黒ずみで何を言うともなく年季を物語っている。辺りにも駅舎にも、人の気配は無い。あれは無人駅で、終着駅だった。

駅前になると、商店が何件か建ち並んでくる。営業はしているらしいものの、人の気配だけは無いままに閑散としていた。昔ながらの精肉店、鮮魚店、八百屋、書店が昭和レトロの風情を残したまま現存している。けれど、商店はそれきりだった。確か、少し向こうの通りを曲がると駄菓子屋があった気もする。小さな郵便局や消防団の詰所も、この村の何処かに存在していたはずだ。


「……駅前でも、人はいないんだ。ちょっとびっくり」
「まぁ、夏だからね。きっと暑くて出たがらないんだよ」
「じゃあ、この暑いのに出てる僕たちは変わってるね」
「そうだね。幽霊と、幽霊に付き合ってくれる人間さん」


面白そうにあやめは含み笑いをする。それなら僕たちは、確かに変わり者だった。傍目に見れば、作務衣姿の少年が一人で文具を持ちながら歩いているだけにしか見えないのだろう。それも、虚空を掴むように手を握って、見えもしない何かと話をしている。変わり者は変わり者でも、村八分にされかねない変わり者だ。やっぱり、気狂いと思われるだろうか。それはそれで、嫌だ。


「あれ、私が幽霊ってことは、窓とか鏡にも映らないのかな」
「……だと思うけど。試してみる?」
「うんっ。普通に気になるもんね」
「じゃあ、こっち。駅舎の窓硝子があるから行こうか」


今日が真夏日で幸いした。そうでなければ、誰か一人くらいは出歩いていたかもしれない。人が見えないのを良いことに、僕は安堵しいしい彼女の手を引いて、ゆっくり駅舎へと向かっていく。照りつける陽線から逃げるように、屋根の下に入り込んだ。心持ち涼やかな風が頬を撫でて、けれども熱気は立ち込めている。

コンクリート製の地面を伝う熱さが、やはりみるように痛い。そうして駅舎に近付いてみると、白塗りの壁はいっそう古めかしいものに見えた。ひび割れと黒ずみで老朽化が甚だしいし、先が飛び出してひさしのようになっているスレート屋根も、内側から見上げてみると外観以上の年季をこれでもかと主張してくる。

そんな小さな駅舎の小さな待合室が見える壁を、窓硝子が肩を揃えて並んでいた。その前に二人は立ち止まる。薄汚れた硝子を彩るような木組みも劣化していて、ところどころ腐っていた。でも、その前に立っているあやめの姿が映らないほどではない。分かっていたことのはずなのに、どうしてこんなにも辛いのだろう。口を開くのが億劫どころか、酷く苦痛に感じてしまった。


「ねぇねぇ。やっぱり、幽霊は窓硝子に映らない?」
「……そうだね。僕だけしか映ってないや」
「まぁ、別にいいけど。分かりきってたことだしね」


彼女は飄々ひょうひょうとした態度で、さも磊落らいらくに笑った。
 「でも」と続けるその顔を、僕は反照する窓硝子に見る。


「だからって問題があるわけじゃないし、窓硝子に映らないくらい、なんてことないもん。今は彩織ちゃんにだけ見えてれば、それでいいんだ。見えなくなっちゃったら、大変だけどねっ」


気恥ずかしそうに笑みを零した彼女の顔が、あまりにも綺麗で、自分だけ変に悄然しょうぜんとしているのも馬鹿馬鹿しく思えてきた。あやめが何も気にしていないのなら、僕が気にする必要などさらさらない。それよりも今を見詰めるべきだと、そう改めて感じる。心做こころなしか、握っている手には力が込められているような気がした。どちらが──と考えるのは野暮なのだろう。恐らく、どちらも。


「大丈夫だよ、きっと」


それは何の根拠もない、無責任で、盲目的な答えだった。かといって今から、そんな起こるかも分からない先のことを考える余裕なんて──たといその余裕があったとしても、そんなことは、考えたくなかった。だから、せめて、何処かに逃げるくらいのことはさせてほしい。その一心で僕は、彼女の手を優しく引いた。


「ここじゃ暑いから、中に入ろう」





『八畳ほどの広さしかない待合室には、プラスチック製の青い椅子が、幾つか連なって並んでいた。それを照らす蛍光灯はたったの二本きりで、うち片方は今にも消えるかと明滅している。その真下には、季節外れの石油ストーブが動かない扇風機と隣り合わせになって置かれていた。壁に掛けてあるエアコンも、やけに古めかしい。あそこの柱時計だけが、ひっそりと動いている。

仄暗い待合室を抜けると、駅のホームに出た。炎陽の白い眩しさに、僕は思わず目をしかめる。目蓋の裏を焼く日差しをようよう手で遮りながら、白飛びした景色をただ茫然と見詰めていた。
 ──途端に、立ち込めた夏の匂いがする。水路の生ぬるい匂いだとか、稲田の青々とした匂いだとか、アスファルトの焼けた匂いだとか、そういうものが綯い交ぜになったようだった。

気が付けば、僕の前には夏が何処までも広がっている。小さな駅の小さなホームから見える情景は、ここには収まりがつかない。
 黄金色の稲田は、地を辷るように低く遥かまで広大に、その中を掻き分けて線路が走っていた。レールと敷石が日差しに鈍く反射している。それをなぞるように頭上には架線が張られていて、遠くにはただ、朦々もうもうと夏陽炎が揺らめいているらしかった。

地平の遥か先を見澄ますと、山あいのところでようやく稲田の色が掻き消されてくる。棒みたく小さな鉄塔が、そこから昊天こうてんを突き抜けるようにそびえていた。その夏空も、これ以上ないほどに青くて、馬鹿馬鹿しいくらいの青さで、思わず笑ってしまいそうになる。だからだろうか、一つきりの入道雲が嫌に映えていた。』


ところどころが錆びている雨よけの下で、誰もいない駅のホームを、僕たちは独占していた。朽ちたトタンの隙間から、木漏れ日のように日差しが射し込んでくる。二人であの青い椅子に腰掛けながら、彼女を彩る僕の言葉だけが、辺りに響いていた。
 
あやめは相変わらず、それを楽しそうに聞いてくれる。何を言うともなく目蓋を閉じて、セピア色の記憶に色を着けるみたいに、ただ静かに──それはまるで、微睡まどろんでいるようにも見えた。彼女の瞳に、どんな景色が映っているのかは分からない。けれど、数ある色の一端でも描いてやれれば、それだけで十分だった。


「──夏だね」


ふと、あやめが呟く。頬を撫でてゆく涼やかな軽風に、彼女は少し、くすぐったそうにしていた。はにかんだその顔が、やはり昔よりも大人びた少女の様で、それが僕にとって嬉しいような、それでいてやや物悲しいような、どっちつかずの気分にさせた。純白のワンピースと麦わら帽子は、昔から、変わらないのに。


「……でも、もう終わっちゃうんだ。どれだけ引き止めようとしても、できないもんね。だって、神様なんかじゃないから」


寂しそうに目を細めながら、あやめは泣き笑いのような表情を浮かべる。そうしてただ、軽風に揺れる稲穂のあたりを見詰めていた。ときおり深い瞬きをして、中指で横髪を掻き上げる──その顔を、僕はいつか見たような気がした。いつだったろうか。遠い昔の話なんかではない。そんなものではなくて、もっと──。

──そうだ、僕はこの横顔を、さっき見たんだ。「人間なんて」と呟いた、あの綺麗で物悲しそうな横顔と、よく似ている。それはやはり、陰鬱いんうつ諦観ていかんにも似通った、彼女らしからぬ色だった。
 けれど、その理由を訊くだけの勇気そのものが、いまの僕にはない。軽率に問い詰めてしまったら、彼女の黒い部分がいきおい露わになってしまいそうで、それがどうしようもなく怖いのだ。

終着駅のホームで、僕たちはただ、何もせずに座っていた。夏の匂いに包まれながら、泡沫にも似た吐息を昊天に洩らしながら、過ぎゆく夏を惜しむように、過ぎた夏を懐かしむように──どこかに妙な居心地の悪さを感じながらも、それ以上に彼女と一緒にいることが、僕にとっての安寧そのもののような気がした。
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