鏡鑑の夏と、曼珠沙華

水無月彩椰

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八月二十六日

きっと、

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開きっぱなしの障子を抜けて、窓硝子越しに朧気な曙光しょこうが射し込んでくる。それが目蓋の裏を焼いたのか、僕は微睡まどろみのなかで静かな起床の気配を感じていた。分かりやすく眉をしかめる。それから重い腕をようよう持ち上げて、そのまま日差しを手で遮った。

──昨夜は何時に寝たろう。いつの間にか朝になっている。思い出したくもない昨日の話がやけに鮮明に思い出されて、そこからの自分の記憶というものは、面白いくらいに思い出せなかった。
 『あやめちゃんはもう、死んでるんよ』たったそれだけの小夜の言葉が、僕の胸臆きょうおく鬱屈うっくつの二文字に染めきってしまっている。

そっと目蓋を開いて、窓硝子の向こうを眺めてみた。しゃをかけたように仄暗い、暗澹あんたんな様の曇天が一面に広がっているらしい。溜息を吐く気力もなくて、僕はそのまま六時あたりを指している壁掛け時計の文字盤を茫然と見詰めていた。階下では祖父母が何か話している気配がする。正直、降りていく気にはなれない。

──あやめが死んでいるなんて、信じられなかった。この四年間で彼女の訃報なんて耳に入れていないし、何より僕は昨日、あの場所で彼女と会ったのだ。麦わら帽子に純白のワンピースを着て、昔と変わらない眉目良みめよ顔貌かおかたちをして、そこに存在していた。本当にあやめが死んでいるのなら、僕が再会を果たしたあの少女は、いったい、誰なのだろう。幽霊とでもいうのだろうか。

けれど、わざわざ小夜が『あやめちゃんはもう死んでいる』などと、そんな冗談を創り上げるとも思えない。もしかしたら彼女は、本当に死んでいるのかもしれない。──それなのに、僕はあやめのことを認識している。その齟齬そごがあること自体、根本からおかしいのだ。いっそのこと小夜も連れて、彼女にもう一度、会いに行ってみようか。そうすれば何かが分かるかもしれない。

──そんな一縷いちるの望みだけを胸に秘めて、僕は起き上がった。







祖父母には朝の散歩と称して、僕と小夜は早々に家を出る。彼女は昨夜のことを誰にも話していないらしく、こちらが何かを言われることはなかった。ただ、朝早くに居間へと起床していた小夜の面持ちを見るに、何か言い知れぬ不安を胸の内に渦巻かせているらしい。立場は違っても、それは僕だって同じことだった。

瓦葺きの数奇屋門は、この曇天に降られている。鈍色をした紗の向こうから日差しが仄かに照るくらいで、だから枝葉の影も今日は、消え入りそうなほどに薄ぼけた色をしていた。夏の面影はもはや、アスファルトに篭める熱気と埃っぽさ、そうして、何処から匂うかも分からないぺトリコールみたようなそれだけだった。


「──彩織ちゃんは、本当にあやめちゃんに会ったん?」


門を抜けると、小夜は真っ先にそういてくる。


「うん、会った。ずっと一緒にいたし、話もした」
「……死んでるのに?」
「……うん。僕はそんなこと、まったく知らなかったけど」
「だからって、死んだ人が見えて話せるん?」
「まさか。でも──少なくとも僕はそうだった」
「……それで、ウチを連れて試すんかぁ」


いつもの明朗快活な態度とは違って、小夜は珍しく弱気だった。それもそうだろう──死んだはずの人間と『会って話した』と言われれば、誰でもまずは嘘を疑うに決まっている。ただお互いにその相手が嘘を吐くなどとは思えないのだから、こうしておくする以外に仕様がないのだろう。僕だってきっと、そうしていた。


「でも、あやめちゃんが死んだっていうのは変わらないんよ」
「……うん」
「彩織ちゃんは、そのことをウチに伝えたいだけ?」
「……そう、だね」


返答にきゅうして、僕は小夜に諭されていることに気がついた。椎奈あやめは、もう死んでいる。それを自分が知らなかっただけだ。なのに、僕は僕の主張ばかりを繰り広げて、その結果に伝えたいことは、『自分は彼女の存在を認知している』というだけ。僕以外の人間からしたら、それは傍迷惑以外の何物でもないのだ。


「なんか、ごめん。僕もよく分かってなくて」
「……いや、いいんよ」


そのまま二人は、無言で歩いていった。何となく歩調を早めたいような、遅めたいような──そんな雑多な心持ちでいる。アスファルトに硬く鳴る靴音が響いて、何処かで雀がさえずっていて、からすいていた。蝉時雨にはまだ遠くて、それでも頬は生温なまぬるい。あやめの家へと続く坂道が見えてくる。昔も、ここを通ってきた。

鈍色の空を仰いでいる木々は、やはり項垂うなだれて悄然しょうぜんとしている。消え入りそうな影がアスファルトに落ちてはかすかに揺れ、落ちてはまた揺れて、その薄ぼけた色合いとは掛け離れた、妙な胸の重苦しさを感じていた。もしかしたら、彼女はいないのかもしれない──そんな悲観した類推を、どこかで抱いたからなのだろう。

緩やかな坂ばいを進んでいく。青青とした木々の匂いも、立ち込める土草の匂いも、今の僕には届かなかった。ここまで来ても、蝉時雨にはまだ遠い。森閑とした空気の中に、たった何匹かの蝉が鳴いて、たった二人の足音がして、息遣いがして──それだけを聞くともなく聞いているうちに、視界は晴れてきてしまった。

──僕は思わず息が詰まる。

民家の軒先に、あやめはいた。昨日と変わらない場所で、変わらない格好で、ただ、やはり、何処かを茫洋と見詰めている。それがおかしいことに、僕はもう気が付いてしまったのだ。脈搏みゃくはくが段々と速度を増していく。心臓が締め付けられるように痛い。僕はいま、間違いなく彼女のことを凝視しているだろう。そんな自覚を胸の内に抱きながら、いきおい隣に並ぶ小夜へ目配せした。


「……いる、んだよね」


彼女は小声でそう洩らす。たった一言きりで、現状を再確認するのには充分すぎた。僕はそのまま頷いて、遠目にあやめを見る。
 「……そっか」と小夜は呟いた。伏せがちにしたその瞳には、どんな感情の色が現れていたか、よく分からない。そうして矢庭にきびすを返した彼女を、僕はどうしようも出来なかった。ここに引き止める理由も、かと言って引き止めてから素直に行かせる理由も、今の僕には有りはしない。その後ろ姿を、呆然として見送るきりだった。

視線を今一度、あやめに向ける。彼女はもう、死んでいるらしい。まったくそんな風には見えない。鈍い日差しに反照する黒髪も、その一筋一筋までが繊細に靡いていた。健康的な肌も、指先の爪も──とにかく彼女の存在そのものが、生きている人間そのもののように思われて仕様がない。そんな、望みにもならない、憐憫れんびんに値する愚考だけを、幾度も幾度も胸臆に渦巻かせている。

依然として、あやめは僕に気が付いていないらしかった。とにかくもう一度、彼女と話がしたい。その一心で歩を踏み出す。それが嫌に重かった。これはきっと、僕があやめに抱いている愚考の重さなのだろう。分かりきっている現実を直視できていない、自分自身の弱さでもある。それでも、進まなければいけなかった。


「……ぁ」


砂利を踏む足音で、ようやく彼女は僕に気が付いたらしい。不意を突かれたように肩を跳ねさせると、ほんの小さな、声にもならない声を、この虚空に洩らした。たった一、二メートルかそこらの距離を隔てて、お互いの息遣いが夏の朝に融けてゆく。玲瓏れいろうとした少女の瞳は僕を見詰めて、やや彷徨ほうこうしているらしかった。


「……来ちゃったんだ」


あやめは僕から視線を落とすと、気恥ずかしいような物悲しいような、そんな何かが綯い交ぜになったらしい笑みを洩らした。彼女の言葉の意味が、今はよく分かる。──本当は来てはいけなかったのかもしれない。でも僕は、来てしまった。自分の標榜ひょうぼうしたエゴをここまで抱きかかえて、彼女に、会いに来てしまった。


「──来ない方がきっと、幸せだったのにね」


果たしてその言葉を、僕とあやめの、どちらが言ったのだろう。或いは、二人とも言ったのかもしれない。──来ない方がきっと、幸せだった。確かにその通りなのだ。僕も彼女も、きっと。
 あやめは瞑目めいもくするように目蓋を閉じると、それが深く長い瞬きであるかのように、やがて瞳を覗かせる。そうして、もう一度、僕を見上げた。細やかに伸びた指先が、彼女の胸に添えられる。


「──私、もう死んでるんだよ」


脳髄をありったけの力で殴られたような気がした。酷く眩暈めまいがする。血の気が引いていく感覚がする。思わず眉をしかめてしまった。立つのさえ限界だ。分かりきっていたことのはずなのに。
 口の中が嫌に乾いてくる。呼吸が段々と浅くなる。心臓が締め付けられるように痛い。脈搏が幾つを打っているかなどは、意識する余裕すらなかった。現実を直視するのが関の山だった。


「……でも、それだけじゃなかったの」


あくまでも淡々と、彼女は告げる。


「──なんかね、目が見えないんだ」
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