4 / 23
八月二十四日
このたび、これから
しおりを挟む
世間話と夕食を満喫した僕は、いつもより遅めの入浴を済ませていた。祖父が買ってくれたらしい作務衣を袖に通しながら、そういえば昔、『僕は短丈の服って好みじゃないんだよね』と言ったのを覚えていてくれたようで、我知らず口元が綻んでいる。脱衣場から居間に戻ると、それに気付いた小夜が声をかけてきた。
「ねぇ、彩織ちゃんさぁ、このノートって何なん?」
既に片されて綺麗になった卓子の傍から、彼女はそれを取り上げた。僕が脱衣場に行った後にでも気が付いたのだろう。
「日記帳。こっちに来る記念に書いてみようかなって」
そう返事し、もと座っていた座布団に腰を下ろす。向かいの叔父と叔母は寝息を立てながら畳の上に寝転がっていた。祖母がいないのは、もう祖父と一緒に寝てしまったのかもしれない。
「へぇ、俺なんか小学校の夏休みきり書いとらん。文章を書くのが好きとか得意とかいうんならなぁ。彩織ちゃんそうなんか?」
「まぁ。本を読むのとか好きだし、文芸部も入ってる」
「ってことは、小説とか書いたりするん? ウチに読まし!」
「ふふっ、嫌だよ、恥ずかしい。書籍化したら読んでね」
「えぇー……。ってことは、何か賞とかに出してるん?」
「うん、何ヶ月か後に締切のやつがあるから、それに向けて新作を書く予定。ただ最近スランプで、上手く書けなくて……」
悄然とした語調でそう零すと、二人は「スランプ?」と口を揃えた。「ホントにあるんか……。どんな感じや?」と叶兄が訊く。
「うーん、文章が上手く浮かばなくなる。筆が乗らないまま時間だけ過ぎてくから、結構辛いよ。なんとか書けたとしても自分で納得できないから、最後には気分転換するしかなくて──」
「……あっ、ウチ分かった。わざわざ四年ぶりに来たの、本当はスランプ克服のためやろ? こういう時に都会は疲れるもんなぁ」
小夜は頬杖を突きながら、「分かるよ、分かる」と頷いている。「いくら都会が羨ましくても、田舎の良さってのはここやね」
実のところ、帰省の理由はまさに彼女の指摘した通りだった。夏と田舎が舞台の小説を書きたいと思って意気込んだものの、唐突なスランプに見舞われてしまったために、こうして気分転換と現地取材を兼ねて、いよいよ四年越しの帰省と相成ったのだ。
だから例の日記帳は、創作ノートの役割も兼ねている。もちろん実地での風景や心情を描写する訓練にもなるし、なにより思い付いたことを即座に書き出せるというのは相当に魅力的だ。それが紙という媒体に残るのも、いち物書きとしてはロマンがある。
「にしても俺、スランプで田舎に帰省とか旅に出るって、ドラマとか映画の話ばかりやと思ってたわ。実際にあるんやなぁ……」
「ウチもや……。こうなると、彩織ちゃんが主人公の物語とか始まるんやない? いや、もう始まっとるんか! あはははっ」
叶兄と小夜は揃って胡座に座り直すと、顔を見合わせて笑った。なるほど、確かに始まっているのかもしれない。たとい帰省先で麦わら帽子をかぶった白ワンピース姿の少女に出会わなくとも、近所に散歩へ出かけるだけでも物語の一頁にはなる。だからこうして皆と談笑しているのもきっと、同じ理屈だろう。明日からは、久しく訪れたこの近辺を色々と散策してみようと思った。
──不意に洩れた欠伸を、やや噛み殺しながら手で隠す。旅程の疲労が、ようやく安堵した今になって出てきたらしい。そう自覚したら、途端に目蓋が重くなってきたような気がする。それを目ざとく察してくれたのだろう、叶兄はまたも笑いながら言った。
「あははっ! 彩織ちゃん、おねむか。兄ちゃんと寝るか?」
「ふふふっ、もう寝ないよ……。そんな歳じゃないし」
「じゃあ小夜と寝たらえぇ! 昔は三人で一緒に寝てたろう」
「えー! ウチだってもう一人で寝んと落ち着かんもん……」
「はぁ、どう考えても冗談やろ。本気にするんがおかしいわ」
呆れたように首を横に振った叶兄は「まぁ、ええか」と苦笑すると、まずは僕を指さして、それから指先を上に向けた。「彩織ちゃんの部屋は、二階や。そんでもっていちばん奥な。しばらく泊まるやろうから、余裕のある部屋にしといた。来客用のなっ」
「おぉー、ありがとう」
「布団とかは押し入れに入っとるから」
「うん、行ってくる。おやすみ」
日記帳を手に持って、僕は緩慢と立ち上がる。叶兄の「おう、おやすみ!」という覇気のある声と、小夜の「おやすみぃー」という抜けたような声を背中に受けながら、居間を後にした。廊下から階段を上っていくと、三部屋あるうちの一つだけ扉が開け放たれている。どうやら、あそこが僕に割り与えられた部屋らしい。
照明を点けてみると、そこは何の変哲もない八畳間の和室だった。部屋の中央に座卓と座椅子があって、右手側に押し入れがある。叶兄が言うには、布団などはそこに入っているようだ。正面の窓枠には障子で仕切りがされていて、外の様子は見えない。だからだろう。部屋の中はまだ、僅かに熱気の籠った感じがした。
生ぬるい空気が肌にまとわりついてくる。僕は日記帳を座卓に置くと、小走りで窓に駆け寄った。障子の開く小気味良い音と、鍵を下ろした軽快な音とが連なって、窓を開けるまでの煩わしさというのも、不思議なことに忘れている。頬に伝い始めた水滴を手の甲で拭った途端に、吹き込んできた涼風は確かに匂っていた。晩夏の宵をあるたけ運んできたような、そんな匂いがする。
窓枠から身を乗り出すと、そこには黒洞洞たる夜ばかりが広がっていて、まるで自分が盲目か何かになってしまったのではないか──と、ほんの一瞬間だけでさえも勘違いしてしまうほどには、僕は森閑の音色というものを聞きすぎるくらい聞きすぎていた。
黄昏に映えた絳霄すらも呑み込んで、宵はその遺骸でさえも遺してはくれない。ただ、強いて言うならば──微かに瞬く端白星と、銀砂みたような星屑だけが、白昼の昊天の残骸に思えた。けれど、それすらもまた、いずれは暁に呑まれていくのだ──。それと同時に僕の意識も、脳髄を蝕む睡魔に喰われかけていた。
「ねぇ、彩織ちゃんさぁ、このノートって何なん?」
既に片されて綺麗になった卓子の傍から、彼女はそれを取り上げた。僕が脱衣場に行った後にでも気が付いたのだろう。
「日記帳。こっちに来る記念に書いてみようかなって」
そう返事し、もと座っていた座布団に腰を下ろす。向かいの叔父と叔母は寝息を立てながら畳の上に寝転がっていた。祖母がいないのは、もう祖父と一緒に寝てしまったのかもしれない。
「へぇ、俺なんか小学校の夏休みきり書いとらん。文章を書くのが好きとか得意とかいうんならなぁ。彩織ちゃんそうなんか?」
「まぁ。本を読むのとか好きだし、文芸部も入ってる」
「ってことは、小説とか書いたりするん? ウチに読まし!」
「ふふっ、嫌だよ、恥ずかしい。書籍化したら読んでね」
「えぇー……。ってことは、何か賞とかに出してるん?」
「うん、何ヶ月か後に締切のやつがあるから、それに向けて新作を書く予定。ただ最近スランプで、上手く書けなくて……」
悄然とした語調でそう零すと、二人は「スランプ?」と口を揃えた。「ホントにあるんか……。どんな感じや?」と叶兄が訊く。
「うーん、文章が上手く浮かばなくなる。筆が乗らないまま時間だけ過ぎてくから、結構辛いよ。なんとか書けたとしても自分で納得できないから、最後には気分転換するしかなくて──」
「……あっ、ウチ分かった。わざわざ四年ぶりに来たの、本当はスランプ克服のためやろ? こういう時に都会は疲れるもんなぁ」
小夜は頬杖を突きながら、「分かるよ、分かる」と頷いている。「いくら都会が羨ましくても、田舎の良さってのはここやね」
実のところ、帰省の理由はまさに彼女の指摘した通りだった。夏と田舎が舞台の小説を書きたいと思って意気込んだものの、唐突なスランプに見舞われてしまったために、こうして気分転換と現地取材を兼ねて、いよいよ四年越しの帰省と相成ったのだ。
だから例の日記帳は、創作ノートの役割も兼ねている。もちろん実地での風景や心情を描写する訓練にもなるし、なにより思い付いたことを即座に書き出せるというのは相当に魅力的だ。それが紙という媒体に残るのも、いち物書きとしてはロマンがある。
「にしても俺、スランプで田舎に帰省とか旅に出るって、ドラマとか映画の話ばかりやと思ってたわ。実際にあるんやなぁ……」
「ウチもや……。こうなると、彩織ちゃんが主人公の物語とか始まるんやない? いや、もう始まっとるんか! あはははっ」
叶兄と小夜は揃って胡座に座り直すと、顔を見合わせて笑った。なるほど、確かに始まっているのかもしれない。たとい帰省先で麦わら帽子をかぶった白ワンピース姿の少女に出会わなくとも、近所に散歩へ出かけるだけでも物語の一頁にはなる。だからこうして皆と談笑しているのもきっと、同じ理屈だろう。明日からは、久しく訪れたこの近辺を色々と散策してみようと思った。
──不意に洩れた欠伸を、やや噛み殺しながら手で隠す。旅程の疲労が、ようやく安堵した今になって出てきたらしい。そう自覚したら、途端に目蓋が重くなってきたような気がする。それを目ざとく察してくれたのだろう、叶兄はまたも笑いながら言った。
「あははっ! 彩織ちゃん、おねむか。兄ちゃんと寝るか?」
「ふふふっ、もう寝ないよ……。そんな歳じゃないし」
「じゃあ小夜と寝たらえぇ! 昔は三人で一緒に寝てたろう」
「えー! ウチだってもう一人で寝んと落ち着かんもん……」
「はぁ、どう考えても冗談やろ。本気にするんがおかしいわ」
呆れたように首を横に振った叶兄は「まぁ、ええか」と苦笑すると、まずは僕を指さして、それから指先を上に向けた。「彩織ちゃんの部屋は、二階や。そんでもっていちばん奥な。しばらく泊まるやろうから、余裕のある部屋にしといた。来客用のなっ」
「おぉー、ありがとう」
「布団とかは押し入れに入っとるから」
「うん、行ってくる。おやすみ」
日記帳を手に持って、僕は緩慢と立ち上がる。叶兄の「おう、おやすみ!」という覇気のある声と、小夜の「おやすみぃー」という抜けたような声を背中に受けながら、居間を後にした。廊下から階段を上っていくと、三部屋あるうちの一つだけ扉が開け放たれている。どうやら、あそこが僕に割り与えられた部屋らしい。
照明を点けてみると、そこは何の変哲もない八畳間の和室だった。部屋の中央に座卓と座椅子があって、右手側に押し入れがある。叶兄が言うには、布団などはそこに入っているようだ。正面の窓枠には障子で仕切りがされていて、外の様子は見えない。だからだろう。部屋の中はまだ、僅かに熱気の籠った感じがした。
生ぬるい空気が肌にまとわりついてくる。僕は日記帳を座卓に置くと、小走りで窓に駆け寄った。障子の開く小気味良い音と、鍵を下ろした軽快な音とが連なって、窓を開けるまでの煩わしさというのも、不思議なことに忘れている。頬に伝い始めた水滴を手の甲で拭った途端に、吹き込んできた涼風は確かに匂っていた。晩夏の宵をあるたけ運んできたような、そんな匂いがする。
窓枠から身を乗り出すと、そこには黒洞洞たる夜ばかりが広がっていて、まるで自分が盲目か何かになってしまったのではないか──と、ほんの一瞬間だけでさえも勘違いしてしまうほどには、僕は森閑の音色というものを聞きすぎるくらい聞きすぎていた。
黄昏に映えた絳霄すらも呑み込んで、宵はその遺骸でさえも遺してはくれない。ただ、強いて言うならば──微かに瞬く端白星と、銀砂みたような星屑だけが、白昼の昊天の残骸に思えた。けれど、それすらもまた、いずれは暁に呑まれていくのだ──。それと同時に僕の意識も、脳髄を蝕む睡魔に喰われかけていた。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
くろぼし少年スポーツ団
紅葉
ライト文芸
甲子園で選抜高校野球を観戦した幸太は、自分も野球を始めることを決意する。勉強もスポーツも平凡な幸太は、甲子園を夢に見、かつて全国制覇を成したことで有名な地域の少年野球クラブに入る、幸太のチームメイトは親も子も個性的で……。
もしもしお時間いいですか?
ベアりんぐ
ライト文芸
日常の中に漠然とした不安を抱えていた中学1年の智樹は、誰か知らない人との繋がりを求めて、深夜に知らない番号へと電話をしていた……そんな中、繋がった同い年の少女ハルと毎日通話をしていると、ハルがある提案をした……。
2人の繋がりの中にある感情を、1人の視点から紡いでいく物語の果てに、一体彼らは何をみるのか。彼らの想いはどこへ向かっていくのか。彼の数年間を、見えないレールに乗せて——。
※こちらカクヨム、小説家になろう、Nola、PageMekuでも掲載しています。
【書籍発売中】バーン・ホワイトウェイブ ─夏の終わりに消滅した、花のような彼女─
水無月彩椰
ライト文芸
「──大丈夫です。私、八月三十一日に、寿命で消滅しますから」
人付き合いが苦手な高校生・四宮夏月が引き取ったのは、”白波”と名乗る祖父の遺産、余命一ヶ月のバーチャル・ヒューマノイドだった。
遺品整理のために田舎の離島へと帰省した彼は、夏休みの間だけ、白波のマスターとして一つ屋根の下で暮らすことに。
しかし家事もままならないポンコツヒューマノイドは、「マスターの頼みをなんでも叶えます!」と、自らの有用性を証明しようとする。夏月が頼んだのは、『十数年前にこの島で遊んだ初恋の相手』を探すことだった。
「──これが最後の夏休みなので、せめて、この夏休みを楽しく過ごせたら嬉しいです」
世界規模の海面上昇により沈みゆく運命にある小さな離島で、穏やかに消滅を迎えるヒューマノイドは、”最期の夏休み”をマスターと過ごす。
これは夏の哀愁とノスタルジー、そして”夏休みの過ごし方”を描いた、どこか懐かしくて物悲しい、狂おしくも儚い夏物語。
【書籍情報】
https://amzn.asia/d/ga9JWU6
歌え!寮食堂 1・2・3(アイン・ツヴァイ・ドライ)!
皇海宮乃
ライト文芸
一年間の自宅浪人を経て、かろうじて補欠で大学入学の切符を掴んだ主人公、志信。
アパート住まいは経済的に無理だと親に言われ、付属の学生寮に入らなかったら往復三時間を超える電車通学をするしかない。
無事入寮が決まり、鞄一つで郷里から出てきたものの……。
そこは、旧制高校学生寮の気風残る、時代錯誤な場所だった。
寮食堂での昼食、食事の前には『寮食歌』なるものを歌うと聞かされ、あらわれたのは、学ラン、ハチマキ無精髭のバンカラ風男子大学生。
アイン、ツヴァイ、ドライ!
食堂には歌が響き、寮内暴走族? 女子寮へは不審者が?
学生寮を舞台に起こる物語。
浴槽海のウミカ
ベアりんぐ
ライト文芸
「私とこの世界は、君の深層心理の投影なんだよ〜!」
過去の影響により精神的な捻くれを抱えながらも、20という節目の歳を迎えた大学生の絵馬 青人は、コンビニ夜勤での疲れからか、眠るように湯船へと沈んでしまう。目が覚めるとそこには、見覚えのない部屋と少女が……。
少女のある能力によって、青人の運命は大きく動いてゆく……!
※こちら小説家になろう、カクヨム、Nolaでも掲載しています。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
となりのソータロー
daisysacky
ライト文芸
ある日、転校生が宗太郎のクラスにやって来る。
彼は、子供の頃に遊びに行っていた、お化け屋敷で見かけた…
という噂を聞く。
そこは、ある事件のあった廃屋だった~
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる