鏡鑑の夏と、曼珠沙華

水無月彩椰

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八月二十四日

旅路、第一歩

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踏切から真っ直ぐに進むと、目指していた集落の入口に、ひときわ目立つ建物があった。荘厳な瓦葺きの数奇屋門が照明に淡く照らされて、そこの表札には『雨宮』と、僕の父方の苗字が彫られている。これこそ祖父母の邸宅で、話に聞く限り、昔は地域の有力者だったらしい。今はどうなのか分からないけれど。

門扉を抜けると、玄関まで飛び石が敷いてある。玉砂利が辺りの間接照明に仄明るく見えて、子供の頃はこの風情が少しだけ怖かったことを思い出した。飛び石の間を跳ねるように跨ぎながら、心持ち昔に戻ったような気分で、玄関の呼び鈴を軽く押す。

──奥から慌ただしく足音を立てて出迎えてくれたのは、何故か紋付羽織袴と日本酒の匂いに身を包んだ祖父だった。四年前に会った時と殆ど変わらない。少し白髪が増えたくらいだろうか。老眼鏡は掛けていたが、フレームを少し別のものに変えたらしい。


「やぁー、彩織いおりか! 久々だなぁ。最後に会ったんは中学に行く前か。今年は高校も受かったんだってな。美味いもんあるから、早く上がり! んでもって彩織、家でこれから結婚式やるからな──」


早々に状況が飲み込めない。これから結婚式……? 僕は結婚式に来たわけじゃないのだけれど。ともかく和服姿の祖父はいかにもご機嫌そうに「彩織は四年経ってもそんなに変わらねぇなぁ」とか言いながら、僕の腕をとって広い玄関から居間まで連れていく。そうして襖を勢いよく開けると、矢庭に声を張り上げて、


「はい新郎、雨宮彩織のご登壇と相成りましてェ──って、あれ、小夜さよはどこ行ったんだ。叶夜こうや、お前の妹さんはどこだ」
「小夜なら二階に逃げてん。ってか彩織ちゃん、久々やなぁ」


キッチンが隣接している十二畳の居間では、祖母と叔母が調理をしていた。その食器を運んでいるのが四つ上の従兄の叶夜で、小夜は何故だか二階に逃げているらしい。それを横目にして、叔父は徳利で酒を注いでいた。卓子テーブルには既に宴会のような料理が並んでいる。僕が来るから用意してくれたのだろう。


「うん、叶兄も久しぶり。変わんないね」
「そりゃあ彩織ちゃんもやろ。背は少し伸びたんか?」
「……五センチしか伸びなかった」
「はははっ、そりゃ災難やなぁ!」


真っ先に声を掛けてくれたのは、叶兄こと従兄の叶夜だった。叔父とお揃いの甚平を着こなして、芥川龍之介みたく癖の強そうな髪型で満面の笑みを浮かべている。卓子に運んでいた食器を置くと、慌ただしそうな態度でキッチンの方へと向かっていった。すると入れ替わるように、祖母が手拭いで手を拭きながら来て、


「お父さん、着物でいるんだったら大人しく座ってな」
「だってお前、小夜が来ねぇから──」
「そりゃアンタがあんなこと言やぁ、恥ずかしいだろうに」


「小夜ーっ、もう夕飯だから降りてきな!」という祖母の声を横に、僕は卓子の傍にある適当な座布団に腰を下ろす。手にしていた日記帳を畳の上に置くと、階上の方で何やら足音が聞こえ始めた。こちらも準備は整ったらしく、宴会風の食卓を面々が囲み始めている。向かいは叔父夫婦と叶兄、祖父母は顔を合わせるような位置で対称に、しかし僕の隣だけ誰も座っていないのは──、


「はーっ、騒がしいご老人のせいで恥かいたわ……」


盛大な溜息と一緒に柱の向こうから現れた小夜は、四年前の印象と殆ど変わっていなかった。見慣れた茶髪のショートヘアに髪留めをして、しかし毛先をヘアアイロンで巻いているらしいのが、歳頃の少女っぽさを感じる。ゆったりとしたワイドパンツとトップスを合わせているのは、恐らく彼女の部屋着なのだろう。

小夜は入口付近で矢庭に立ち止まると、柱に手をついて居間全体を一瞥した。それから祖父に視線を遣ると、たった一言きり「たばかったな……!」と洩らして、一つだけの空席に足を崩す。柑橘類のような爽涼とした匂いが、一帯を仄かに漂流していった。


「騒がしいつったって、そりゃあ結婚式たぁお祝いだんべな」
「じいちゃんが勝手に酔っ払って勘違いしとるんでしょー!」
「まだ半合しか呑んでねぇもん。こんなんで酔うわきゃねぇ」


と言って、祖父は中身の減った一升瓶を持ち上げる。それを祖母が取り上げて、「あんまり彩織の前で馬鹿やってんじゃないよ。アンタもう寝な! こんだけ酔ってりゃ寝れるだろ」と居間の外に追い出したので、思わず笑ってしまった。叔父も「半合つったら結構あるけどなぁ……」と、またも徳利に口を付けている。

どうやらと言おうか案の定と言おうか、この結婚式騒動は祖父が原因らしい。それにしても、何をどうして結婚式の話になったのか、僕はそこだけが気にかかっていた。小夜が祖父と口論しているのを見るに、彼女が何か言ったのが発端らしいけれども……。


「──んじゃあ、彩織の歓迎会ってことで、はい乾杯!」


祖母が場を仕切り直して、乾杯の号令をかけた。僕を主役にそれぞれグラスを合わせて、まずは一口と中身を飲んでいる。自分はいつもの通り緑茶なのだが、飲み込んだ瞬間に襖の向こうから陶然とうぜんしたような「乾杯ィ!」という声が聞こえてきて、またもや笑ってしまった。僕だけではなかったようで、少し安心した。


「ふふっ……。おじいちゃん、本当にどうしたわけ?」まずは唐揚げでも食べようかしら──と箸を伸ばしながら、僕は尋ねる。
「うん、結婚式な、彩織ちゃんも気になっとるやろ。っていうのも、まぁ小夜がだいたい悪ぃ。根本的な原因は小夜だな!」


叶兄は枝豆を片手にそう笑った。隣の小夜は「はぁー? なんでウチが悪いことになってるん」とチーズ巻きを頬張りつつも不平を零している。「彩織ちゃんと結婚するとまでは言ってない!」
 

「でも彩織ちゃんが来るって言ったら喜んでたじゃん」と叔母。
 「小夜も十六だし、好きな人がいないんだったら適当な男よりも彩織ちゃんの方が良くない? もう結婚できるんだしさぁ、早めに固めとくのも手でしょ──って言ったら、『うーん、まぁ、悪くはないんじゃない?』って。そういうわけだよ彩織ちゃん」


箸を僕に向けて笑いかける叔母には、もはや苦笑するしかない。髪の長さが小夜と殆ど同じだから、余計に母娘らしく見えた。


「それをアンタ聞いてみ、だからお父さんが良い気になって準備してた酒を呑んじゃったわけ。そんで酔っ払ったから『んなら今から結婚式だ!』つって羽織袴とか着始めたから、アタシ面倒臭いから放っておいたんさ。だから酒呑みは馬鹿ね……」と祖母。


なるほど、そういう経緯らしい。祖父から酒の匂いがした理由も、紋付羽織袴を着ていた理由も、謎の結婚式発言も、すべて納得した。取り敢えずは納得した、のだけれど──小夜は『悪くはないんじゃない?』と言えるほど僕のことを好きだったろうか。

さりげなく尋ねてみようかとも思ったけれど、ふいに叔父から質問をされたので、それは後回しにしておいた。改めて見ると、丸っこい顔が子供に好かれそうで優しそうな印象を醸している。


「そういえば彩織くん、なんでこっちに遊びに来たんかな。中学の時は忙しくて来れなかったから、久々に来たくなったんか?」
「うーん、なんだろう……。それもあるけど、ちょっと都会にいるのが疲れたから田舎でのんびりしたくなった、というか」
「へぇー、都会の方が暇しないで楽しそうやけど、彩織ちゃんは嫌なんか……。ウチなら今からでも都市部の方に引っ越したいわ」


感心したように僕を見た小夜は、そのまま磊落らいらくに笑った。
 「お互いに泊まりっこになるかもね」と返事する。


「でも彩織くんが帰る時に一緒に行けばいいんじゃないか。そしたら何やかんやあって同棲して事実婚に──はっはっはっ」
「パパ!」
「あぁはいはい、分かった分かった。まぁ彩織くんがこうして泊まりに来たんだから、たまには遊びに行くんも良いかもなぁ」


叔父はそう微笑んで、別の徳利を用意しに立ち上がった。そのまま襖を少し開けて、「親父はもう寝たんかな。半合も呑みゃあ酔っ払って眠くなるか。俺も食ったら風呂入って寝るかぁ……」と早々に欠伸をしている。何気に早くから呑んでいたようだ。
 

「そういえば彩織ちゃん、どれだけウチんとこに泊まるん?」
「それは分からない。不定期滞在」
「今は夏休みだけどもう終わるだろ。学校どうすんべな」
「休む。親から学校にも話してあるから大丈夫だよ」
「彩織ちゃん、大人しい顔して堂々とやるなぁ」


叶兄の溌剌はつらつな笑い声に、僕もつられて笑みが零れる。キッチンの方で電子レンジの止まる音が聞こえた。久々に食べる祖母と叔母の手料理は、いかにも帰省したという感じがして普段より美味しい。それに、親戚との世間話に花を咲かせるのも悪くないものだ。ひとまず旅路の第一歩は、上々というところだろう──。
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