101 / 192
17.それは勘弁してほしい
5.
しおりを挟む
そんなことが続いたある日のこと。
「破談⁉ 兄様とヴァレリア様が⁉」
「……ああ。先方からそのように申し渡された」
苦々し気な表情で伯爵が言う。ルルは思わず目を見開いた。
「だっ……だけど、あんなに上手くいっていたじゃありませんか! わたくしが何度邪魔しても……っ、と」
「――――おまえが二人の結婚を邪魔しようとしていたことは知っている。だが、あちらの翻意はそれとは関係ないとのことだ」
はぁ、とため息を吐きつつ、伯爵は大仰に項垂れる。
「正式な婚約が未だだったのは、双方にとって幸いだった。経歴に瑕がつかないからな。カインの方が翻意するかもしれないと、そう思っていたのだが――――」
そう口にする伯爵の表情は大層暗い。ルルは唇を尖らせつつ、胸に大きな蟠りを抱えていた。
「どうした? 随分浮かない表情じゃないか。おまえはカインの結婚を阻止したかったのだろう? この話を聞いたら喜ぶに違いないと思っていたのだが……」
「――――――そう、ですね。その筈だったのですけど」
答えながら、ルルはそっと胸を押さえた。
(どうしてこんなに、胸が苦しいのでしょう?)
考えつつ、ルルはギュッと目を瞑る。彼女の脳裏に浮かんだのは、兄のカインではなかった。
「何で……?」
これまでずっと、十何年もの間、ルルの心を占拠していたカインの姿が今は見えない。浮かび上がるのは兄とは真逆の――――別の誰かの姿だった。
「旦那様、実は……」
侍女の一人が、伯爵に向かってそっと耳打ちをする。小さな騒めきが聞こえ、それが段々とこちらに近づいてくる。
「――――失礼いたします」
男性の声が室内に響き渡る。その瞬間、ルルはパッと顔を上げた。
「アベル様……」
呟きながら、ルルは密かに瞳を潤ませた。先程まで頭に浮かんでいた人物が、今まさに、彼女の目の前に現れたのである。
「突然の訪問、申し訳ございません。妹がカイン様との婚約を破談にしたと聞きまして……。居ても立っても居られなくて――――」
そう言ってアベルは膝を突く。
「伝えたいことがあるんです。今……どうしても、お伝えしたい」
(……一体、何なのでしょう?)
ヴァレリアの気持ちだろうか?ルルは戸惑いつつも、父親の隣でアベルを見つめた。
「――――正直俺は、妹が居ればそれで良かった。他には何も要らないと、そう思っていました。
けれど、ルル様――――あなたと共に過ごす内に、俺は考えが変わりました」
「……え?」
思わぬ話の展開に、ルルは大きく目を見開く。伯爵も娘とアベルとを交互に見つめた。
「妹とカイン様の結婚が破談になったことで――――俺はかなり戸惑いました。妹の結婚が破談になってしまえば良い……ずっとずっと、そう思っていたのです。喜んで然るべきでした。
それなのに、俺の胸を占領したのは『ルル様にもう会うことができない』という現実と、深い悲しみだったのです。
クルクルと変わるルル様の表情が……屈託のない笑みが――――明るい声がもう聞けないのだと思うと、胸が引き裂かれそうな心地がして。妹の結婚が決まった時より、苦しくて堪りませんでした。
いつの間にかルル様は、俺にとって掛け替えのない大切な人になっていたのです」
アベルはルルの手を握り、真っ直ぐに彼女を見つめる。
「ルル様……どうか俺と、結婚してくださいませんか?」
その瞬間、ルルが大きく息を呑む。
震える声音、熱っぽく揺れ動く紫色の瞳が、彼の想いを物語っていた。
「――――わたくしも、同じです」
瞳に涙を滲ませつつ、ルルはアベルに歩み寄る。
「兄様だけ……兄様が居れば、他には何も要らないと思っていました。あんなにカッコいい人は他には居ないって。
だけど……アベル様はこんなわたくしを受け入れてくれました。一緒に悩んだり、苦しんだり、喜んだり、悲しんだり――――そんな風に自分を真っ直ぐに見せてくれるアベル様に、わたくしは心惹かれたのです」
ルルはそう言って満面の笑みを浮かべる。アベルも目を丸くしつつ、穏やかな笑みを浮かべた。
「ちょっ……ちょっと、待ってくれ!」
その時、部屋の入り口から慌てふためいた声音が聞こえた。カインだった。顔面蒼白のまま汗をダラダラと搔き、カインは急いでルルの元へと駆け寄る。
「兄様! 一体、どうなさって……」
「ルル! 心惹かれただなんて、そんなまさか……まさかだよな? ルルはこの家を出たりしないだろう? ずっと兄様の側に居るよな、な?」
カインはルルの腕に縋りつくと、今にも泣きださん勢いで捲し立てる。
「兄様、わたくしは……」
「兄様が! 兄様がずっと側に居てやる! だからおまえは結婚なんてしなくて良い! 結婚して妻が出来ても、兄様はずっとおまえだけのものだ! この家で共に暮らせば良い! なぁ、そうだろう?」
ルルの中で、何かが大きな音を立てて壊れていく。隙間風が心の中に吹きすさぶような、そんな感覚がした。
「ごめんなさい、兄様」
ルルはそう言ってアベルのことを抱き締める。断末魔のようなカインの声が邸内に木霊した。
「破談⁉ 兄様とヴァレリア様が⁉」
「……ああ。先方からそのように申し渡された」
苦々し気な表情で伯爵が言う。ルルは思わず目を見開いた。
「だっ……だけど、あんなに上手くいっていたじゃありませんか! わたくしが何度邪魔しても……っ、と」
「――――おまえが二人の結婚を邪魔しようとしていたことは知っている。だが、あちらの翻意はそれとは関係ないとのことだ」
はぁ、とため息を吐きつつ、伯爵は大仰に項垂れる。
「正式な婚約が未だだったのは、双方にとって幸いだった。経歴に瑕がつかないからな。カインの方が翻意するかもしれないと、そう思っていたのだが――――」
そう口にする伯爵の表情は大層暗い。ルルは唇を尖らせつつ、胸に大きな蟠りを抱えていた。
「どうした? 随分浮かない表情じゃないか。おまえはカインの結婚を阻止したかったのだろう? この話を聞いたら喜ぶに違いないと思っていたのだが……」
「――――――そう、ですね。その筈だったのですけど」
答えながら、ルルはそっと胸を押さえた。
(どうしてこんなに、胸が苦しいのでしょう?)
考えつつ、ルルはギュッと目を瞑る。彼女の脳裏に浮かんだのは、兄のカインではなかった。
「何で……?」
これまでずっと、十何年もの間、ルルの心を占拠していたカインの姿が今は見えない。浮かび上がるのは兄とは真逆の――――別の誰かの姿だった。
「旦那様、実は……」
侍女の一人が、伯爵に向かってそっと耳打ちをする。小さな騒めきが聞こえ、それが段々とこちらに近づいてくる。
「――――失礼いたします」
男性の声が室内に響き渡る。その瞬間、ルルはパッと顔を上げた。
「アベル様……」
呟きながら、ルルは密かに瞳を潤ませた。先程まで頭に浮かんでいた人物が、今まさに、彼女の目の前に現れたのである。
「突然の訪問、申し訳ございません。妹がカイン様との婚約を破談にしたと聞きまして……。居ても立っても居られなくて――――」
そう言ってアベルは膝を突く。
「伝えたいことがあるんです。今……どうしても、お伝えしたい」
(……一体、何なのでしょう?)
ヴァレリアの気持ちだろうか?ルルは戸惑いつつも、父親の隣でアベルを見つめた。
「――――正直俺は、妹が居ればそれで良かった。他には何も要らないと、そう思っていました。
けれど、ルル様――――あなたと共に過ごす内に、俺は考えが変わりました」
「……え?」
思わぬ話の展開に、ルルは大きく目を見開く。伯爵も娘とアベルとを交互に見つめた。
「妹とカイン様の結婚が破談になったことで――――俺はかなり戸惑いました。妹の結婚が破談になってしまえば良い……ずっとずっと、そう思っていたのです。喜んで然るべきでした。
それなのに、俺の胸を占領したのは『ルル様にもう会うことができない』という現実と、深い悲しみだったのです。
クルクルと変わるルル様の表情が……屈託のない笑みが――――明るい声がもう聞けないのだと思うと、胸が引き裂かれそうな心地がして。妹の結婚が決まった時より、苦しくて堪りませんでした。
いつの間にかルル様は、俺にとって掛け替えのない大切な人になっていたのです」
アベルはルルの手を握り、真っ直ぐに彼女を見つめる。
「ルル様……どうか俺と、結婚してくださいませんか?」
その瞬間、ルルが大きく息を呑む。
震える声音、熱っぽく揺れ動く紫色の瞳が、彼の想いを物語っていた。
「――――わたくしも、同じです」
瞳に涙を滲ませつつ、ルルはアベルに歩み寄る。
「兄様だけ……兄様が居れば、他には何も要らないと思っていました。あんなにカッコいい人は他には居ないって。
だけど……アベル様はこんなわたくしを受け入れてくれました。一緒に悩んだり、苦しんだり、喜んだり、悲しんだり――――そんな風に自分を真っ直ぐに見せてくれるアベル様に、わたくしは心惹かれたのです」
ルルはそう言って満面の笑みを浮かべる。アベルも目を丸くしつつ、穏やかな笑みを浮かべた。
「ちょっ……ちょっと、待ってくれ!」
その時、部屋の入り口から慌てふためいた声音が聞こえた。カインだった。顔面蒼白のまま汗をダラダラと搔き、カインは急いでルルの元へと駆け寄る。
「兄様! 一体、どうなさって……」
「ルル! 心惹かれただなんて、そんなまさか……まさかだよな? ルルはこの家を出たりしないだろう? ずっと兄様の側に居るよな、な?」
カインはルルの腕に縋りつくと、今にも泣きださん勢いで捲し立てる。
「兄様、わたくしは……」
「兄様が! 兄様がずっと側に居てやる! だからおまえは結婚なんてしなくて良い! 結婚して妻が出来ても、兄様はずっとおまえだけのものだ! この家で共に暮らせば良い! なぁ、そうだろう?」
ルルの中で、何かが大きな音を立てて壊れていく。隙間風が心の中に吹きすさぶような、そんな感覚がした。
「ごめんなさい、兄様」
ルルはそう言ってアベルのことを抱き締める。断末魔のようなカインの声が邸内に木霊した。
0
お気に入りに追加
1,070
あなたにおすすめの小説
英雄になった夫が妻子と帰還するそうです
白野佑奈
恋愛
初夜もなく戦場へ向かった夫。それから5年。
愛する彼の為に必死に留守を守ってきたけれど、戦場で『英雄』になった彼には、すでに妻子がいて、王命により離婚することに。
好きだからこそ王命に従うしかない。大人しく離縁して、実家の領地で暮らすことになったのに。
今、目の前にいる人は誰なのだろう?
ヤンデレ激愛系ヒーローと、周囲に翻弄される流され系ヒロインです。
珍しくもちょっとだけ切ない系を目指してみました(恥)
ざまぁが少々キツイので、※がついています。苦手な方はご注意下さい。
【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです
大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。
「俺は子どもみたいな女は好きではない」
ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。
ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。
ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。
何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!?
貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。
【本編完結】若き公爵の子を授かった夫人は、愛する夫のために逃げ出した。 一方公爵様は、妻死亡説が流れようとも諦めません!
はづも
恋愛
本編完結済み。番外編がたまに投稿されたりされなかったりします。
伯爵家に生まれたカレン・アーネストは、20歳のとき、幼馴染でもある若き公爵、ジョンズワート・デュライトの妻となった。
しかし、ジョンズワートはカレンを愛しているわけではない。
当時12歳だったカレンの額に傷を負わせた彼は、その責任を取るためにカレンと結婚したのである。
……本当に好きな人を、諦めてまで。
幼い頃からずっと好きだった彼のために、早く身を引かなければ。
そう思っていたのに、初夜の一度でカレンは懐妊。
このままでは、ジョンズワートが一生自分に縛られてしまう。
夫を想うが故に、カレンは妊娠したことを隠して姿を消した。
愛する人を縛りたくないヒロインと、死亡説が流れても好きな人を諦めることができないヒーローの、両片想い・幼馴染・すれ違い・ハッピーエンドなお話です。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。
仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
距離を置きましょう? やったー喜んで! 物理的にですけど、良いですよね?
hazuki.mikado
恋愛
婚約者が私と距離を置きたいらしい。
待ってましたッ! 喜んで!
なんなら物理的な距離でも良いですよ?
乗り気じゃない婚約をヒロインに押し付けて逃げる気満々の公爵令嬢は悪役令嬢でしかも転生者。
あれ? どうしてこうなった?
頑張って断罪劇から逃げたつもりだったけど、先に待ち構えていた隣りの家のお兄さんにあっさり捕まってでろでろに溺愛されちゃう中身アラサー女子のお話し。
×××
取扱説明事項〜▲▲▲
作者は誤字脱字変換ミスと投稿ミスを繰り返すという老眼鏡とハズキルーペが手放せない(老)人です(~ ̄³ ̄)~マジでミスをやらかしますが生暖かく見守って頂けると有り難いです(_ _)お気に入り登録や感想、動く栞、以前は無かった♡機能。そして有り難いことに動画の視聴。ついでに誤字脱字報告という皆様の愛(老人介護)がモチベアップの燃料です(人*´∀`)。*゜+
皆様の愛を真摯に受け止めております(_ _)←多分。
9/18 HOT女性1位獲得シマシタ。応援ありがとうございますッヽ(*゚ー゚*)ノ
【完結】許してください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
そんなつもりはなかったの。
まさか、こんな事になるなんて。
私はもっと強いと思っていた。
何があっても大丈夫だと思っていた。
だけど、貴方が私から離れて行って、
やっと私は目が覚めた。
もうしない。
貴方の事が大事なの。
やっと私は気がついた。
心の底から後悔しているの。
もう一度、
私の元へ帰ってきて。
お願いだから
振り向いて。
もう二度と間違えない。
だから、、、
お願い、、、
私の事を、、、
許してください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる