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2.もう二度と、お目にかかることはありません

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「リジー聞いてくれ!」


 そんな言葉と共に、自室の扉が勢いよく開く。エリザベスは顔を上げると、手に持っていた分厚い手紙をそっと机に仕舞った。


「如何しましたか?クロノス」


 エリザベスは立ち上がり、婚約者クロノスへ向けてそっと微笑む。
 漆黒の長い髪、紅い瞳、端正な肉体を持つオオカミのような男。けれど、その瞳は人懐っこく細められている。
 彼とは幼い頃からの付き合いだ。こうした不躾な訪問も、互いの信頼の証なのかもしれない。そう思うと少し、穏やかな気持ちになれた。


「ブラウン公爵から、結婚の打診があったんだ!」


 クロノスは興奮したように捲し立てると、満面の笑みを浮かべる。


「まぁ……それはそれは」


 ブラウン公爵というのは、先々代国王に縁の有力貴族だ。結婚相手となる公爵令嬢はたしか、まだ14歳という若さの、可愛らしく素直な娘である。


「喜ばしいだろう?な?」

「はい。おめでとうございます」


 エリザベスは恭しく頭を垂れると、笑みを浮かべた。


「お父様もさぞお喜びのことでしょうね。クロノス様に続いて二男であるサイラス様まで良縁に恵まれたのですもの。年齢もお似合いですし、私も嬉しいです」

「いや、それは違うぞ?」


 そう言ってクロノスは何故か眉間に皺を寄せた。


「違う、とは?」

「結婚を打診されたのは弟じゃない。この俺だ!」

「…………は?」


 思わぬ言葉にエリザベスは目を見開く。クロノスは我が物顔でソファに腰掛けると、エリザベスを手招きした。


「先日の夜会であちらの御令嬢が俺に一目惚れしたらしい。可愛い娘にせがまれちゃ、公爵も嫌とは言えないだろう?それで今回正式に結婚の打診があった、というわけだ」


 テーブルに備え付けてあった茶菓子を手に取りながら、クロノスは得意げに笑う。エリザベスは唇を引き結びつつ、クロノスの向かいに腰掛けた。


「けれどクロノス。お忘れですか?あなたは私の婚約者ですのに」

「当然忘れてなどいない!」


 まるでこの世の全てを手に入れたかのような婚約者の表情に、エリザベスはため息を漏らす。


「二股などすれば地獄に落ちるからな。リジー、今日はおまえとの婚約を破棄しに来たんだ!」


 聞き間違えようの無いほど、ハッキリと紡がれる言葉たち。恐らくクロノスは、エリザベスへの申し訳なさ等、微塵も感じていない。


(タイミングが良かったと言うべきなのか、悪かったと言うべきなのか――――)


 机に仕舞った分厚い手紙。その内容を思い返しながら、エリザベスは小さく唸った。
 婚約者として過ごしてきたこの数年間を思えば、多少は心が痛む。二人の仲は良好だったし、この良くも悪くも愚直な婚約者を、エリザベスは慕っていた。


「……いくつか確認をさせてください」

「なんだ?リジー?」


 クロノスは微笑みながら首を傾げる。


「あなたのお父様はこのことを御存じなのですか?」

「当然、知らん。俺と公爵との間で決まったことだ」


 やはりそうか、と思いつつもエリザベスは頭がクラクラした。彼の父親とも、幼い頃からの付き合いである。クロノスの父親がこれから味わうであろう心労を思うと、こちらまで心が痛む。なおも得意げな表情を浮かべているクロノスを、エリザベスはそっと見上げた。


「伯爵令嬢である君に比べ、あちらは公爵令嬢だ。おまけに王族にも近しい。未来の家長として、どちらの家と婚姻を結ぶべきかなど、自明の理だろう」

「王族、ですか」


 エリザベスは思わず乾いた笑いを浮かべる。


(まさか今、そんな単語をこの男から聞くことになろうとは)


 クロノスの瞳は、キラキラと希望で輝いている。きっと彼は、周囲からチヤホヤされたり、王族の側近として重用される未来を想い描いているのだろう。エリザベスは何やら気の毒に思えてきた。


「そういうわけだ。リジーのことはとても素敵な女性だと思っている。けれど、俺は君とは結婚できない!」


 この場に全くそぐわない幸せそうな笑み。
 彼には彼の正義がある。これが家のために正しいことだと信じて疑っていない。エリザベスの心を傷つけていることにも気づいていない。


(本当のことを伝えるべきなのだろうか)


 けれど、真実を伝えたところで、彼はエリザベスの話を信じてはくれないだろうし、誰だって手の届くところにある幸せを優先する。


「分かりました」


 ニコリと穏やかな微笑みを浮かべながら、エリザベスは頷く。クロノスは瞳を輝かせると、勢いよく立ち上がった。


「分かってくれるのか?」

「ええ、もちろん」


 そう答えるや否や、エリザベスはクロノスの腕に包まれていた。小さく音を立てて心が軋む。


「ありがとう、リジー!おまえは本当に最高の女だ」


 ひたすらに真っ直ぐで熱い、酷い男。けれど、エリザベスはこの男が嫌いじゃなかった。
 だからこそ、この男にとって一番残酷な形で、制裁を加えることを胸に誓う。


「もう二度と、あなたにお目にかかることはありません」


 クロノスの腕の中でそう呟くと、エリザベスはニコリと笑うのだった。
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