深淵を泳ぐ鳥たち

１

『あのね、鶫。私たちを本当の意味で理解出来るのは、私たち以外には居ないんだよ』

　そう言った兄の言葉を、ほんの少しだって理解出来ていなかったのだと。手遅れでしかないその時まで、僕は気付くことが出来なかった。


　◇


　四脚門をくぐると広がる広大な敷地。
　足元を伸びる石畳の両端は、五月になると目にも鮮やかな躑躅つつじ色に染まる。どこか別の世界へと誘いざなわれてしまいそうなその道も、辺りに広がる静かな美しさを携えた庭園を彩るほんの一部でしかない。
　四季折々の顔を見せる木々や草花に守られ聳え立つ日本家屋は、立派としか言い様がなく。誰しも一度は目を奪われ言葉を失った。

　近くを通った人間の目を、その塀の長さだけで奪ってしまう程広大な敷地の中に暮らす僕ら北大路きたおおじ家は、その家人を知る全ての者から羨望の眼差しを向けられている。
　
　北大路家の前当主であった僕の父は、アルファの頂点に立つ者として若き頃から名を轟かせていたし、その妻となった母もまた、容姿は地味であったものの同じアルファとして有名な淑女だった。
　アルファとアルファの婚姻は珍しくないが、これ程完璧な夫婦は希なものだと言われていたらしい。
　そんな彼らの間に生まれた記念すべき第一子もまた、誰もが羨み息を呑むほどに美しい赤子だった。

　だから誰も疑いもしない。
　その巨大な屋敷の中に、どれほどの闇が渦巻いているかなど……きっと、想像することも無いのだろう。



「ただ今戻りました」

　玄関に入ると、シンと静まり返る冷たい廊下が僕を出迎える。やがて屋敷の奥から和服を纏った女性がやってきて、お帰りなさいませ、と綺麗に腰を折った。
　僕が生まれる前からこの家で働いている、使用人頭の湯江ゆえさんだ。歳はもう少しで六十を迎える頃だろうか。

「湯江さん、季とき兄さんはどこに？」
「書斎におみえです。丁度いま休憩のお茶をお持ちした所ですよ」
「ありがとう」

　教科書やノートが詰まった重い鞄を与ろうとする湯江さんを制し、そのままひと気のない廊下を進む。やがて突き当たった奥の部屋の前で、床に膝を着いた。

「兄さん、鶫つぐみです。ただ今戻りました」

　間を置かず中から入室を許可する声が返ったので、僕は目の前の引き戸に手をかけた。

「失礼します」
「お帰り鶫、こちらにおいで」

　いぐさ香る畳の上、こちらに背を向けて座っていた兄が柔らかく微笑み振り返る。その容姿は、昔アルバムで見た若かりし頃の父そっくりだ。男らしくも美しく、近寄り難い程に気高く、そして気品に満ち溢れている。
　僕と同じ血が通っているとは到底思えぬ出来た造りである彼が、数年前より父から当主の座を譲り受け現当主となった北大路家長兄、北大路季きたおおじときである。

「今日はいつもより帰りが遅かったね？」
「はい。急用のできた友人に代わって、掃除当番を引き受けました」
「そう」

　高等部も来春で卒業を迎えると言うのに、兄は幼子を相手にする様に僕の髪を撫でた。そしてそのまま僕を引き寄せ、首筋に顔を寄せるとスンと鼻を鳴らす。

「兄さん、あのっ」

　慌てて兄を引き剥がそうとすれば、それよりも早く兄の腕から力が抜けた。思っていたよりも近くで互いの目が合う。

「少し香りが付いている」

　分かっていたはずの言葉なのに、僕は思わずゴクリと喉を鳴らした。

「あの……同じ掃除当番の中に、その……」

　言い淀む僕を見る目をスっと細めた兄が、絞り出すように言葉を紡いだ。

「鶫、言いつけは守りなさい。例えどんなことがあっても、絶対に」
「はい……」

　僕が目を伏せると、それを合図に兄が空気を和らげる。そのまま兄の前で俯き座ったままの僕の髪を何度か優しく梳いて、やがて視線を上げた僕ともう一度しっかり目を合わせた。

「早めに切り上げて戻って来なさい。一緒に食事をしよう」

　兄は微笑んで、そして僕の頬にキスを落とした。




　僕の家には、絶対に守らなければならない決まりごとがある。

　『オメガには近づくべからず』

　これは物心がついた頃より、父と長兄から厳しく言い聞かせられている決め事だ。
　学校ではアルファの番として、アルファの運命として、そしてアルファの最大の理解者として教えられるオメガの存在。しかしそんなオメガの存在を、父と長兄は酷く嫌悪していた。そして誰よりもこの僕にオメガが近づく事を嫌がった。

　この世のヒエラルキーの頂点として君臨するアルファ。だがそこにも“絶対”は存在しない。能力に偏りがある者や、無能な者は幾らでも存在する。だからこそ完璧に近いアルファが持て囃される。
　この世に“絶対”などありはしないのだ。

　僕はそんな偏りを持ったアルファの一員で、勉強は出来ても容姿が不出来だった。
　そんな僕の母もまた、アルファでありながら容姿に特別を持たない、所謂“平凡”な女性だった。けれどアルファの家系に産まれ育った母は、誰よりも厳しく教育を受け、何処に赴いても恥じることのない淑女として成長した。
　だからこそ、“最も完璧に近い男”として有名だった父に見初められたのだろう。

　だが僕はそんな母と違い、誰かを惹きつけられる様な特別を持つことは出来なかった。僕程度の能力と教養を持つアルファはざらに存在するのだ。
　だからこそ父と兄の警戒は無駄なものに思えた。こんなにも平凡で特徴の無いアルファを、オメガは求めたりしない。実際同じ学校に通うオメガたちも、出来過ぎた兄たちへの橋渡しに利用しようとする者しか近づいては来なかった。
　しかし、そんな不出来な僕を父と長兄は酷く溺愛した。それこそ異常とも取れる程に。だが、そんなふたりの気持ちも理解できなくはなかった。
　何故なら僕は、母の容姿にそっくりな、彼女の最後の忘れ形見なのだから。


　◇


　廊下の突き当たりにある季兄さんの部屋を曲がった更に奥には、北大路家の者か湯江さんしか行くことが許されない隠し部屋がある。
　そこへ湯江さんが用意してくれた一人分の夕食をお盆に乗せて運ぶのは、週にたった一度だけ、僕に許されたかけがえのない時間。

「失礼します、鶫です」

　僕の小さな呼びかけに返された声を合図に、まるで牢獄の様なその部屋の扉を開錠し体を中に滑り込ませる。
　夕暮れとは言えまだ日の高い時刻だと言うのに、明かり取り用の小さな窓しか無いその部屋には既に煌々と明りが灯されていた。

「お帰り鶫。忙しいのに悪いな」

　そう言ってまるで全てを諦めたように笑うのは、北大路家の次男、夜鷹よたか兄さん。そして彼こそがこの北大路家に渦巻く闇の、最大の被害者だった。

「そんな事言わないでよ、一週間で唯一会える日なのに……」

　北大路家には、四人の後継が生まれた。
　長男の季とき、次男の夜鷹よたか、三男の千鶴ちづる、そして四男である僕、鶫つぐみ。
　だが、世間に知られている北大路家の後継は三人のみ。季と、千鶴、そして鶫。戸籍も三人分しか存在しない。

　北大路家に最大の闇が生まれたのは、長兄・季が生まれてから六年の月日が経った頃の事。アルファ同士で結ばれた父の前に、運命の番であるオメガが現れたのである。
　身寄りのない、みすぼらしいオメガだった。
　父は生涯母しか愛せぬとそのオメガを拒絶したが、オメガは父の番を主張し続け、世間に公表すると脅しをかけた。北大路家の財産が目的であることは誰の目から見ても明らかだったが、そうと分かっているはずなのに、父のアルファとしての本能はそのオメガを求めていた。

　父は自身の本能を激しく嫌悪した。
　そうして自分こそが正当な番だと喚くオメガを葬るべく、屋敷の一番奥の部屋に運命を閉じ込めた。決して自ら外へ出られぬように、家の者以外に悟られぬように。手に入れた幸せを壊さぬために、運命の番を屋敷の最奥へと隠したのだ。
　身寄りの無いオメガがひとり消えた所で誰も騒ぎはしない。そうして漸く北大路家は安寧を手に入れたかの様に思われた。
　だが運命とは……そう容易く避けられるものではなかった。

　閉ざされた奥の部屋の隙間から、本能に従順なオメガのフェロモンが溢れ出す。
　アルファである母を愛しているのに、アルファの本能は“運命”を求めている。そんな心と体がちぐはぐな父は、気付けば閉じ込め封印したオメガの部屋の前に幾度となく立つ様になっていた。そしてやがて、恐れていた事態が起きてしまう。
　発情期を迎えた運命の番のフェロモンに、父の理性が遂に屈したのだ。気付けばオメガは、その腹の中に尊い命を宿らせていた。



「学校はどうだ？　ちゃんと卒業できそうか？」

　意地悪そうに笑う兄の顔は、父とも、そして母ともまるで似ていない。

「失礼だな、勉強だけはそこそこ出来るんだよ」

　ぷう、と頬を膨らませると、それをみた夜鷹兄さんがまた笑う。誰にも似ていないその笑顔は、どうしてか僕を唯一ほっとさせてくれる。

「大学に進学する気なんだろう？」
「うん、千鶴兄さんと同じ大学なら通っても良いって。でも、実はまだ成績がギリギリで……だけどそこ以外は許さないって、季兄さんが」

　それを聞いた夜鷹兄さんは、ああ、と小さく苦笑を漏らした。

「あそこは家から通える範囲だからな。兄さんは鶫を遠くにやりたくないんだ、心配なんだよ」
「うん、分かってる……」

　季兄さんが僕を溺愛しているのは昔からの事で、家族以外にも知れ渡るほど周知の事実となっている。だがその溺愛ぶりが異常な程強くなったのは、矢張りオメガが原因だった。
　出来過ぎた兄を持つ僕は、幾度となくその兄に近づこうとするオメガに利用されてきた。時には脅迫まがいのものを受けたこともある。
　他人を信用してはいけないと言う兄の言葉は最もだと思ったし、何よりオメガは僕ら家族を狂わせた元凶なのだ。嫌悪して遠ざけるのは当然だった。

　けれど最近の季兄さんは、少しオメガに対して過敏すぎる。関わることは勿論、同じ空間に居ることさえも嫌がるようになってきた。学校と言う限られた世界で生活する中で、それを避けることは非常に難しい。
　だが兄は、そうと分かっていても呪文の様に僕に言い聞かせる。
　髪、頬、手の甲、そして首筋へそっとキスを落としながら囁くのだ。

『オメガは決して、私たちの運命などでは無いんだよ』、と。


「鶫、そろそろ戻らないとまずいだろう」
「もう少し居たい、もっと話したいよ」

　ぐずる僕に、兄さんが困ったように眉を下げる。

「俺も話したいよ。でも、季兄さんが待ってる」
「あと少しくらい……」
「千鶴も帰ってくる」
「……分かった」

　夜鷹兄さんへ食事を運ぶのは、千鶴兄さんの役目。
　僕が再びこの部屋に訪れられるのは、一週間先の同じ曜日。唯一千鶴兄さんの帰りが遅くなるその日だけ。
　季兄さんは夜鷹兄さんさえも僕に近づけたがらない。
　何故なら、

「薬、飲み忘れちゃダメだからね」
「分かってる。ありがとな」

　夜鷹兄さんは、オメガだから。