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「壱?」
次の日の朝、玄関先で伸ばされた手を取らずに立ち上がった。
「俺、もう大丈夫だから」
「……」
大きく息を吸って、吐き出して。しっかりとした足取りで横を通り過ぎる俺を無言で見送る。だが途中で我慢できなくなったのか、光司が俺の腕を引いた。
「壱、急にどうしたの? いきなり無理しなくても……」
「無理なんてしてない。前からずっと言おうと思ってた。大丈夫だから離して」
ずるり、と光司の腕が離れる。
そこからは学校に着くまでずっと、お互い無言だった。そうして漸く俺の教室の前にたどり着いた時、いつものように光司が手作り弁当を俺に渡してくれる。
「ありがとう」
「うん。じゃあ、お昼休みにね」
「光司」
「なに?」
「昼飯、今日から他のやつと食べて」
「……なんで?」
今までずっと一緒に食ってたけど、彼女ができたならそっちと一緒に食いたいんじゃねぇの? そう喉元まで出かかった言葉は飲み込んだ。まだ、本人から何も教えてもらっていないのが悔しかった。
「クラスの奴と食べるって約束したから」
光司は驚きに目を見開いた。そりゃそうだろう、もうずっと俺には友達と呼べる相手なんていなかったから。ずっと、俺には光司しかいなかったから。近くで見てきた光司が一番よく知っている。
「それに帰りも、今日は別で帰ろう」
今度こそヒュッと息を吸った光司に、俺は笑ってみせる。
光司、俺はもう大丈夫だから。だからもう、俺の世話なんてしなくていいからな。
「壱っ!?」
放課後。兎川と笑いながら卵焼きを焼いていたら、調理室に道着を着たままの光司が転がるように入ってきた。
「光司……」
「うわ、マジですげーイケメン」
間近で見ると迫力すげーな、なんて言って驚いている兎川には目もくれず、光司は俺だけに責めるような眼差しを向けた。
「壱、なにしてんの!?」
ズカズカと荒々しく入ってきた光司に、俺は自分が焼いたぐちゃぐちゃの卵焼きを見せた。
「見て光司、俺の初卵焼き第一号! 見た目は悪いけど案外味は」
「壱っ!」
初めて聞く光司の大声に、俺はビックリして話す言葉を失なった。驚いたのは俺だけじゃなく、隣に立っていた兎川も同じだった。
「なんでこんなことしてるの? 火傷したらどうするの」
「いや、大丈夫だよ。兎川も一緒だし、俺」
「何が大丈夫なの? よく知らない人と一緒で何が安心なの」
その言葉に反応したのは俺じゃなく兎川だった。
「オイオイ、高二で卵焼き作って火傷って。アンタ大原のママかなんか? 知らない人って俺、大原のクラスメートだよ」
「でも別に仲良くないでしょ」
「ッ、そりゃ、まあ昨日初めて話したけど」
「壱、帰ろう。食事はこれからも俺が担当するし、壱は作らなくていいから」
「光司ッ」
フライパンの前に立っていた俺の腕を、光司が力づくで引っ張る。それを見かねた兎川が光司の腕を掴んだ。
「待てよ本宮、大原が嫌がってる。離してやれよ」
「お前こそその手を離せ、壱は嫌がってなんかいない」
「アンタまさか、大原のこと飼い殺しにする気か?」
「飼い殺し……? なんの話か分からないけど」
目の前でバチバチと音を立てて視線を交わらせる二人に、俺が我慢できなくなった。
「ごめん兎川、俺、帰るから」
「大原……」
もう一度ごめんと謝ると、兎川は光司の腕から手を離した。
「俺、大原と話せて楽しかったよ。これからは教室でも話しかけるし、いつでも調理部に遊びに来てよ」
「兎川」
「待ってるから」
ニコリと笑った兎川に、俺も笑って応える。その俺の腕を掴む光司の手に、更に力がこもった。
家に着くまでずっと光司は俺の腕を離さなかった。いつもと違って、何を話しかけても無言のままで返事をしてくれない。それが酷く寂しくて辛かった。
滅多と機嫌を損ねない光司が、いま明らかに怒っている。あんなにも声を荒げたのも初めて見た光景だった。
俺の家に着いて漸く離された腕はヒリヒリと痛んで、そこを摩る俺を光司が黙って見ていた。自身の前髪をぐしゃりと掴んで、そのまま俯いてしまう。
「光司……?」
「どうして、あんなことしてたの」
「あんなこと」
「昔も今も、料理したことなんてなかったでしょう」
光司の言う『あんなこと』が料理のことなのだと漸くわかった。でも、どうしてそこまで怒るんだろう。……だっていずれは、
「光司離れ、できるようにしようと思って」
「なに……?」
「ほんとは、もっと早くしなきゃいけないって分かってたんだ。でも何からすれば良いのか分かんなくて……そしたら昨日偶然、兎川と初めて話して、」
チラリと光司の様子を伺うと、こちらを凝視するその目には見たこともない暗い色が浮かんでいた。
「あ……あの、光司、」
「楽しかった……?」
「へ?」
「アイツと話すの……楽しかった?」
「あ、うん、楽しかった」
光司以外の歳近い人とまともに会話するのはどれくらいぶりだろう。久しぶりの会話は確かに楽しかった。ただ、そんな素直な感想を伝えただけのつもりだった。
「そう……そっか……楽しかったんだ」
「光司……?」
光司は一瞬笑おうとして、そして失敗した。綺麗な顔がぐにゃりと歪んで、その瞳からポロポロと涙を零した。
「えっ、な……光司!?」
「ごめんっ、ごめんなさいっ、ごめんなさい……ずっと、俺に縛りつけててごめんなさいッ」
「光司!?」
縛りつけてごめん!? なにそれ、それは俺のセリフだろう!?
床に蹲って泣きじゃくる光司に、一体いま何が起きているのか……俺にはさっぱり分からなかった。
次の日の朝、玄関先で伸ばされた手を取らずに立ち上がった。
「俺、もう大丈夫だから」
「……」
大きく息を吸って、吐き出して。しっかりとした足取りで横を通り過ぎる俺を無言で見送る。だが途中で我慢できなくなったのか、光司が俺の腕を引いた。
「壱、急にどうしたの? いきなり無理しなくても……」
「無理なんてしてない。前からずっと言おうと思ってた。大丈夫だから離して」
ずるり、と光司の腕が離れる。
そこからは学校に着くまでずっと、お互い無言だった。そうして漸く俺の教室の前にたどり着いた時、いつものように光司が手作り弁当を俺に渡してくれる。
「ありがとう」
「うん。じゃあ、お昼休みにね」
「光司」
「なに?」
「昼飯、今日から他のやつと食べて」
「……なんで?」
今までずっと一緒に食ってたけど、彼女ができたならそっちと一緒に食いたいんじゃねぇの? そう喉元まで出かかった言葉は飲み込んだ。まだ、本人から何も教えてもらっていないのが悔しかった。
「クラスの奴と食べるって約束したから」
光司は驚きに目を見開いた。そりゃそうだろう、もうずっと俺には友達と呼べる相手なんていなかったから。ずっと、俺には光司しかいなかったから。近くで見てきた光司が一番よく知っている。
「それに帰りも、今日は別で帰ろう」
今度こそヒュッと息を吸った光司に、俺は笑ってみせる。
光司、俺はもう大丈夫だから。だからもう、俺の世話なんてしなくていいからな。
「壱っ!?」
放課後。兎川と笑いながら卵焼きを焼いていたら、調理室に道着を着たままの光司が転がるように入ってきた。
「光司……」
「うわ、マジですげーイケメン」
間近で見ると迫力すげーな、なんて言って驚いている兎川には目もくれず、光司は俺だけに責めるような眼差しを向けた。
「壱、なにしてんの!?」
ズカズカと荒々しく入ってきた光司に、俺は自分が焼いたぐちゃぐちゃの卵焼きを見せた。
「見て光司、俺の初卵焼き第一号! 見た目は悪いけど案外味は」
「壱っ!」
初めて聞く光司の大声に、俺はビックリして話す言葉を失なった。驚いたのは俺だけじゃなく、隣に立っていた兎川も同じだった。
「なんでこんなことしてるの? 火傷したらどうするの」
「いや、大丈夫だよ。兎川も一緒だし、俺」
「何が大丈夫なの? よく知らない人と一緒で何が安心なの」
その言葉に反応したのは俺じゃなく兎川だった。
「オイオイ、高二で卵焼き作って火傷って。アンタ大原のママかなんか? 知らない人って俺、大原のクラスメートだよ」
「でも別に仲良くないでしょ」
「ッ、そりゃ、まあ昨日初めて話したけど」
「壱、帰ろう。食事はこれからも俺が担当するし、壱は作らなくていいから」
「光司ッ」
フライパンの前に立っていた俺の腕を、光司が力づくで引っ張る。それを見かねた兎川が光司の腕を掴んだ。
「待てよ本宮、大原が嫌がってる。離してやれよ」
「お前こそその手を離せ、壱は嫌がってなんかいない」
「アンタまさか、大原のこと飼い殺しにする気か?」
「飼い殺し……? なんの話か分からないけど」
目の前でバチバチと音を立てて視線を交わらせる二人に、俺が我慢できなくなった。
「ごめん兎川、俺、帰るから」
「大原……」
もう一度ごめんと謝ると、兎川は光司の腕から手を離した。
「俺、大原と話せて楽しかったよ。これからは教室でも話しかけるし、いつでも調理部に遊びに来てよ」
「兎川」
「待ってるから」
ニコリと笑った兎川に、俺も笑って応える。その俺の腕を掴む光司の手に、更に力がこもった。
家に着くまでずっと光司は俺の腕を離さなかった。いつもと違って、何を話しかけても無言のままで返事をしてくれない。それが酷く寂しくて辛かった。
滅多と機嫌を損ねない光司が、いま明らかに怒っている。あんなにも声を荒げたのも初めて見た光景だった。
俺の家に着いて漸く離された腕はヒリヒリと痛んで、そこを摩る俺を光司が黙って見ていた。自身の前髪をぐしゃりと掴んで、そのまま俯いてしまう。
「光司……?」
「どうして、あんなことしてたの」
「あんなこと」
「昔も今も、料理したことなんてなかったでしょう」
光司の言う『あんなこと』が料理のことなのだと漸くわかった。でも、どうしてそこまで怒るんだろう。……だっていずれは、
「光司離れ、できるようにしようと思って」
「なに……?」
「ほんとは、もっと早くしなきゃいけないって分かってたんだ。でも何からすれば良いのか分かんなくて……そしたら昨日偶然、兎川と初めて話して、」
チラリと光司の様子を伺うと、こちらを凝視するその目には見たこともない暗い色が浮かんでいた。
「あ……あの、光司、」
「楽しかった……?」
「へ?」
「アイツと話すの……楽しかった?」
「あ、うん、楽しかった」
光司以外の歳近い人とまともに会話するのはどれくらいぶりだろう。久しぶりの会話は確かに楽しかった。ただ、そんな素直な感想を伝えただけのつもりだった。
「そう……そっか……楽しかったんだ」
「光司……?」
光司は一瞬笑おうとして、そして失敗した。綺麗な顔がぐにゃりと歪んで、その瞳からポロポロと涙を零した。
「えっ、な……光司!?」
「ごめんっ、ごめんなさいっ、ごめんなさい……ずっと、俺に縛りつけててごめんなさいッ」
「光司!?」
縛りつけてごめん!? なにそれ、それは俺のセリフだろう!?
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