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二章 陸援隊編
第五十五話 菊屋のミネくん
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「ふぅ……こんなもんかな」
清々しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、大きく伸びをした。
目の前には、今しがた干し終わった洗濯物たちがかすかに風にゆられてはためいている。
今日は早朝から、洗い物を請け負うと隊士さんたちに声をかけて回った。
ここ最近は面倒くさがって洗い物を溜め込む隊士さんが多いそうで、長屋周辺から異臭がすると大橋さんが嘆いていたのだ。
居候の身としては、ここで一肌脱ごうと思うよね。
その結果とんでもない数の洗濯物が殺到して一瞬冷や汗をかいたけれど、無事完遂。
頑張ったなぁ、私。
おかげで他人の褌への耐性がついた気がする。
明日からは誰のものでもどんとこいだ!
干した洗濯物を眺めて満足した私は、きびすを返して門のほうへと向かう。
暇なので門前の掃き掃除でもしようと思ったのだ。
途中で玄関脇に立てかけてあった箒を回収し、広い中庭を突っ切って門のそばまで到着すれば、向かいから門をくぐってきた一人の少年と鉢合わせる形になった。
「あ……どうも。お客さんですか?」
年のころは私とそう変わらないであろう少年に向かって、軽く頭を下げる。
さっぱりと切りそろえられた黒髪が艶やかな、まだどこか面立ちに幼さの残る少年だ。
背中には、何やら縦に大きい角ばった風呂敷包みを背負っている。
「おはようございます! ボク、菊屋って書店の峰吉(みねきち)っていいます!」
元気よく声を張り上げて、少年は頭を下げた。
菊屋さんって聞いたことがあるな。
たしか、いずみ屋からそう離れていない位置にある本屋さんだ。
「行商ですか? 少しお待ちくださいね、人を呼んできます」
こんなときは、平隊士さんよりも幹部の誰かに声をかけるべきだよね。
幹部の皆さんは読書家みたいだから。
「中岡さんに用があってきたんですけど、いらっしゃいます?」
玄関のほうへと走り出そうとした私の隣に並んで、峰吉さんは首をかしげる。
それを聞いて、思わず立ち止まった。
「たいちょ……中岡さんは、菊屋さんのお得意様なんですか?」
「そうです! 今日は、頼まれていた本をお届けに」
「そうだったんですかぁ。中岡さんはまだ帰ってきていないので、しばらく中でお待ちいただけますか?」
「もちろん! いくらでも待ちます!」
にこにこと人懐っこい笑みを浮かべて頷く峰吉さん。
つられて、思わずこちらも笑顔になった。いい子だなぁ。
私が先導して案内するまでもなく、彼はすたすたと歩みをゆるめずに玄関のほうへと向かっていく。
重そうな風呂敷包みを抱えながらも表情ひとつ変えずにいるところをみると、普段からよく仕込まれているのだということがよく分かる。
背中の本は一体どんな内容なんだろう。
書物屋さんの取り扱いは絵草紙屋と比べて学術書や専門書のような難しい内容のものが多いから、私にはあまり馴染みがない。
それでも、隊長が普段どんな本を読んでいるのかはすごく気になるな。
そんなことを考えながら、玄関戸に手をかけたその時。
「おう! 峰じゃねぇか!」
背後から声がかかった。
振り返った先に立っていたのは、田中先輩だ。
訓練が終わったのか、手ぬぐいで汗を拭きながら峰吉さんに向かって手を振っている。
「ケン兄、久しぶり! 慎太兄ちゃんに会いに来たんだけど、留守だって?」
「ああ、昼前には戻ると思うぜ。中で待ってな」
「うん! 今、女中さんに案内してもらってたんだ」
と、こちらに視線が向く。女中さんだと思われていたんだ、私……。
「コイツは女中じゃねぇよ。ワケあってしばらくウチで預かってんだ」
先輩がそう訂正しながら私の背を叩くと、峰吉さんはふぅんと、さして興味もなさそうに返事をした。
「じゃああなたは、客人扱いなんですか?」
しばし考えて、彼は首をかしげる。
女中でもなく屯所内をウロウロする私の存在が不思議でたまらないといった様子で。
「ちょっと違います。ここのお仲間のつもりです!」
「へー。女の子も入隊できるんですねぇ、ココ」
「いえ。隊士さんではないですけど、お掃除とかお手伝いとか、いろいろやってます」
……そこまで言って、はたと気づく。
やっぱり女中さんと変わらないな、私がやっていることって。
「よくわかりませんが、看板娘みたいなものですか?」
「そんなもんだと思っとけ! まぁ立ち話もなんだし、中入れよ」
朝っぱらから汗だくな先輩は、手のひらで顔を仰ぎながらずかずかと玄関口へ入っていく。
峰吉さんも小走りでそれに続いた。
それにしても、看板娘かぁ……。
いずみ屋時代を思い出して、今後はみなさんにお茶をついでまわったりした方がいいかなぁ。
なんて考えながら、先を行く二人の後を追う。
――どうやら峰吉さんは、何度も屯所に来たことがあるみたいだ。
先輩とも親しげに話をしているし、視線を泳がせることもなく慣れた様子で足早に屋敷の中を歩いていく。
その口ぶりから、ここがどんな場所であるのかも分かっている様子だけど……。
どうしてそんなにも幹部のみなさんと懇意なのだろう。
もともと陸援隊は、人の出入りには厳しいほうだ。
屯所の付近を練り歩く行商人さんに声をかけて、おかずなんかを購入する隊士さんは多いようだけど、基本的に売買は敷地の外で行われている。
門をくぐることが許されているのは、土佐藩邸からの使いの人か、幹部の関係者だけらしい。
うーん、関係者……か。
隊長は特に読書家のようだから、本屋さんだけは特別扱いということなのかな。
薄暗く静まり返った廊下を抜け、私たちはひとまず田中先輩の部屋へと通された。
ここで好きなだけ時間をつぶしていいと告げられて、峰吉さんはその場で風呂敷包みを背中から下ろす。
「お疲れでしょう。お茶を淹れますから少しお待ちくださいね」
楽になった肩を揉みながら深い息を吐く峰吉さんに小さく笑いかけて、私は部屋をあとにする。
すぐさま背後から「オレの分もな!」と先輩の言葉が飛んできた。
廊下を進みながら、威勢よく返事を返しておく。
もうじき螢静堂に出かけなければならない時間だ。
それまでに隊長が帰ってきてくれるといいんだけど……。
二人分の湯飲みをのせたお盆を持って部屋に戻ると、そこには訓練着からよそ行きの着物に着替えた田中先輩が座っていた。
汗も引いているし、髪の毛もきれいに整っている。身支度が早いなぁ。
「どうぞ、お茶です」
私は彼らの正面に座り、順に湯飲みを手渡す。
「おう、ありがとよ」
「ありがとうございます!」
二人はそれを受け取るやいなや、ぐっと勢いよく傾けて中身をあおった。
よほど喉が渇いていたんだな。
飲み干して空になった湯飲みの中に急須から二杯目を注いでいると、峰吉さんが小首を傾げながらこちらに言葉をかける。
「看板娘さん、お名前を聞いても?」
「あ、私、天野美湖っていいます」
「美湖さん! いいお名前ですねぇ。ちなみにお歳は……? ボクと同年代かなぁと思うんですけど。ちなみにボクは十七です」
「わぁ! それじゃ、同じ歳です! そっかぁ、私も、同じくらいかなぁって思ってて!」
二人して、ぱっと花が咲いたように笑いあう。
陸援隊に来てからは年長者とばかり接してきたから、気兼ねなく話せる相手に会えて少し嬉しい。
「じゃあ、お互い敬語はやめよっか。みこちゃんって呼んでもいい?」
「うん!」
「ボクのことは皆、峰(ミネ)って呼ぶんだ。みこちゃんも峰でいいよ」
「わかった。ミネくん、よろしくね」
なんとなくよそよそしかった距離感は一気に縮まり、私たちはすっかり肩の力を抜いて言葉を交わしていた。
急速に打ち解けるそんな様子を見ていた先輩は、くすりと微笑ましげに口元をゆるめてこちらを見守ってくれている。
「天野、菊屋はいずみ屋から結構近いんだぜ」
「あ、はい。お名前は聞いたことがありました。私、絵草紙しか読まないから書物屋に行く機会がなくて……」
こんなことを、お店の人の前で言っちゃうのは悪い気もするけど。
「みこちゃん、絵草紙好き!? いや、実はボクもね、難しい本よりも明るくはじけた草双紙とかのほうが好きなんだ!」
「本当? 実家が書物屋さんだと、絵草紙なんて読んじゃダメとか言われない?」
「言われない言われない! 世の中こんなに文字で溢れているんだからさ、人の好奇心を刺激する名著に上下なんかないさ!」
ミネくんは両拳を握り締めて熱弁をふるう。
本に上下なんてない……か。
確かに、情報量や専門性と本の売れ行きは必ずしも比例するものじゃないとは思う。
ためになる専門書よりもはるかにたくさんの人に読まれている絵草紙も多いことだし。
どんな本にだって少なからず需要はあるもんね。
「そういや峰は絵草紙にも詳しかったよな。だったら、くそ太郎のことも知ってっかな」
先輩のつぶやきに、ミネくんは目の色を変えて身を乗りだした。
「くそ太郎って、ばかぢからくそたろう!?」
「おう! なんだ、やっぱ知ってたかよ。あれ、面白ぇよなァ」
すごいな、ミネくん。知ってるんだ。それとも、くそ太郎が有名なのかな。
「ただ面白いだけじゃないよ! あの構成は革新的かつ神がかり的で、大人の読者も多いんだ!」
「なんだよ、やけに熱く語るじゃねぇか」
「そりゃそうさ! 望月千夜(もちづきせんや)先生は時代の先端をゆく鬼才と呼ばれててね、今一番話題性のある戯作者なんだよ!」
「へぇぇ……詳しいんだねぇ、ミネくん」
知らなかった情報がどんどん入ってくる。
そういえば、挿絵ばかりに気をとられて戯作者さんの名前はよく見ていなかったな。
望月先生っていうんだ。どんな人なんだろう……。
「ただねぇ、くそ太郎は、巻の五の牛鬼討伐編以降、続きが出ないんだ」
「いまんとこ五作も出てんのか。んで、どんくらい新作を待たされてんだ?」
「もともと望月先生は筆が早くて、三月に一巻くらいの速度で仕上げていたんだけど、もう今年の春くらいから新巻は出てないね」
今年の春頃……といえば、思い当たるふしがある。
「父が体を壊して床に臥しがちになったのが今年の皐月くらいで、その頃からあまりお仕事に時間を割けなくなっていったんですけど、もしかして……」
「それが原因じゃねぇか!? 挿絵がねぇから続きが出せねぇっつうことだろ!」
合点がいった、という具合に先輩は大きく膝をうった。
いっぽう隣に座るミネくんは、ぽかんとした様子で私たちを眺めている。
「え、なに? みこちゃんの父親、版元さんと関わりがあったりするの?」
「あ、ううん。えっとね、絵師の天野川光は、私のお父さんなんだ」
「え!? えええええええっ!?」
ミネくんが仰天して固まってしまった。
彼はそのまま真偽を確かめるように先輩のほうに顔を向け、「間違いない」と頷き返されて、今度は小さく悲鳴に似た声をあげた。
「天野、くそ太郎のほかに何かオヤジさんの証明になるようなモンはもってねぇのか?」
「あ、はい。ちょっと待っててくださいね」
風呂敷の中に何かしらあるはずだと、私は腰を上げて隣の自室への襖を開いた。
ミネくんはさっきから「うそだ、信じられない」とつぶやきながら困惑の表情を浮かべている。
言われてみれば確かに、急に聞かされてそうですかと納得できるような話じゃないよね。
自室の文机の脇に置いてある風呂敷包みをあけて、中身をあらためる。
完成間近の肉筆画と、父が亡くなる直前まで描いていた版下が数枚ずつ。
版下は、それをもとにして印刷用の版木を彫ってもらうための下絵なので、墨一色のくっきりとした一本線で描かれている。
この仕事まで終わらせて死にたいと、父は何度ももらしていたっけ。
それらの絵を重ねて、先輩の部屋へと戻る。
「ここに何枚か、未完の絵があります。父の形見のようなものです」
そう言って二人に絵を渡せば、受け取った彼らの表情は、みるみるうちに夢を語るきらきらとした少年のそれに変貌していった。
玩具絵も絵草紙の挿絵も、父は少年に向けて描いたものが多かったから、やっぱり男の人のほうが喜んで見てくれるものなのかな。
「うわあぁぁっ!! すっごい!! すごいっ!! ほんとに天野先生の絵だぁ!!」
「上手ぇなやっぱ! お、こっちの線だけのヤツは、もしかしてくそ太郎じゃねぇのか?」
そう言って先輩が掲げてみせた一枚に、いっせいに視線が集中する。
気になった私もすぐさま彼の隣へと移り、腰をおろした。
見ればそれは、ふんどし一丁の筋肉質の男が、荒地の中央で大岩を持ち上げている絵だった。
なるほど……たしかに巻の一で見たくそ太郎の容姿と一致する。
「これはどう見てもくそたろうだ! じゃあ、天野先生は亡くなる間際まで挿絵に手を入れていたんだね!」
誰よりも早く感嘆の声をあげたのは、ミネくんだった。
何度も納得したように頷きながら、心なしかうっすらと涙ぐんでいるように見える。
ほんとうに愛読者だったんだなぁ。
「うん、そうなの。この絵だけは完成させたいって言ってたから、くそ太郎の挿絵の続きを描けないことは父にとっても心残りだったはずだよ」
「そっか……残念だな。ボクは、天野先生が亡くなっていたこと自体初耳でさ……なんていうか本当に、悲しいよ」
ミネくんは言葉に詰まりながらも心情を吐露し、がくりと肩を落としてうなだれた。
それを慰めるように、そっと肩を叩いたのは田中先輩だ。
「人が一人死ぬっつうことは、単純じゃねえからな。残されたたくさんの人間の今後に影響する。にしても、こういう場合どうなんだろうな? 話の続きは出るもんなのか?」
「続きは、戯作者さん次第だと思います。途中で絵師を変える長篇は多いですから」
様々な事情から、絵師の交代というのは珍しくないことらしい。
父は生前、こなしきれないであろう仕事についてはきちんと版元さんに話を通しておいたそうだ。
だからおそらく、くそ太郎の挿絵も新しい絵師さんが担当する手筈になっているはずだ。
「でも、どうかなぁ……望月先生は、天野先生の絵を気に入っていたようだから、交代絵師を決めるにしてもだいぶ揉めてるかも」
「そうなの?」
「うん。だってほら、天野先生の描くくそたろうって、話の中からそのまま抜け出てきたみたいに生き生きしてたでしょ」
「確かにな! おはなちゃんをさらおうとするゴロツキをまとめて投げ飛ばすこの場面の絵なんか、すげえ迫力だ!」
畳の上に広げられたくそ太郎巻の一をぱらぱらとめくりながら、先輩は声をあげて笑う。
――そう言われてみれば、話の中で動き回るくそ太郎は、父の挿絵の印象そのままだった。
場面場面で、作者の意図をうまく読み取った絵が描かれていたと思う。
娘の私が言うのもなんだけど、父はそういった情景の切り出しがうまい絵師だ。
似た系統の絵を描く人を近場で探すとなると、少し時間がかかってしまうかもしれない。
「そうだ、みこちゃん! 版元さんにこの未完の版下を持ってってみない?」
ひらめいた、と両手を打ってミネくんは立ち上がった。
メラメラとやる気に満ちた目をしている。
「版元さんに? でも、いまさら行っても私、お仕事の話をできるわけじゃないし……」
「いいんだよ、それでも! いまのところ交代絵師の問題がどうなってるか聞くだけでもいいしさ」
「うーん……もし新しい絵師さんが決まっていたら、この版下が参考になったりするかな?」
「するする、絶対! ね、行ってみよう!!」
もはや行動する気まんまんなミネくんは、絵の束をまとめて私の手を掴み、ぐいと引っ張って強引に立ち上がらせた。
それを見ていた先輩も、反論することなくその場を立つ。
「ま、どのみち螢静堂に出かけなきゃなんねぇし、ついでに版元に話聞きに行ってみっか」
「そう、ですね……でもミネくんはいいの? 中岡隊長に本を持ってきたんでしょ?」
「いいのいいの! 本はここに置いてくから、あとでケン兄から渡しといて」
と、巨大な風呂敷包みの中から三冊ほどを取り出して文机の上に置けば、先輩は了解したと深く頷いてみせた。
話の流れで思わぬ事態になっちゃったけど、私としてもやっぱり父の仕事に関係する問題は無視できない。
一日も早く本の続きが出版されるように、なにかお手伝いができるといいんだけど――。
清々しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、大きく伸びをした。
目の前には、今しがた干し終わった洗濯物たちがかすかに風にゆられてはためいている。
今日は早朝から、洗い物を請け負うと隊士さんたちに声をかけて回った。
ここ最近は面倒くさがって洗い物を溜め込む隊士さんが多いそうで、長屋周辺から異臭がすると大橋さんが嘆いていたのだ。
居候の身としては、ここで一肌脱ごうと思うよね。
その結果とんでもない数の洗濯物が殺到して一瞬冷や汗をかいたけれど、無事完遂。
頑張ったなぁ、私。
おかげで他人の褌への耐性がついた気がする。
明日からは誰のものでもどんとこいだ!
干した洗濯物を眺めて満足した私は、きびすを返して門のほうへと向かう。
暇なので門前の掃き掃除でもしようと思ったのだ。
途中で玄関脇に立てかけてあった箒を回収し、広い中庭を突っ切って門のそばまで到着すれば、向かいから門をくぐってきた一人の少年と鉢合わせる形になった。
「あ……どうも。お客さんですか?」
年のころは私とそう変わらないであろう少年に向かって、軽く頭を下げる。
さっぱりと切りそろえられた黒髪が艶やかな、まだどこか面立ちに幼さの残る少年だ。
背中には、何やら縦に大きい角ばった風呂敷包みを背負っている。
「おはようございます! ボク、菊屋って書店の峰吉(みねきち)っていいます!」
元気よく声を張り上げて、少年は頭を下げた。
菊屋さんって聞いたことがあるな。
たしか、いずみ屋からそう離れていない位置にある本屋さんだ。
「行商ですか? 少しお待ちくださいね、人を呼んできます」
こんなときは、平隊士さんよりも幹部の誰かに声をかけるべきだよね。
幹部の皆さんは読書家みたいだから。
「中岡さんに用があってきたんですけど、いらっしゃいます?」
玄関のほうへと走り出そうとした私の隣に並んで、峰吉さんは首をかしげる。
それを聞いて、思わず立ち止まった。
「たいちょ……中岡さんは、菊屋さんのお得意様なんですか?」
「そうです! 今日は、頼まれていた本をお届けに」
「そうだったんですかぁ。中岡さんはまだ帰ってきていないので、しばらく中でお待ちいただけますか?」
「もちろん! いくらでも待ちます!」
にこにこと人懐っこい笑みを浮かべて頷く峰吉さん。
つられて、思わずこちらも笑顔になった。いい子だなぁ。
私が先導して案内するまでもなく、彼はすたすたと歩みをゆるめずに玄関のほうへと向かっていく。
重そうな風呂敷包みを抱えながらも表情ひとつ変えずにいるところをみると、普段からよく仕込まれているのだということがよく分かる。
背中の本は一体どんな内容なんだろう。
書物屋さんの取り扱いは絵草紙屋と比べて学術書や専門書のような難しい内容のものが多いから、私にはあまり馴染みがない。
それでも、隊長が普段どんな本を読んでいるのかはすごく気になるな。
そんなことを考えながら、玄関戸に手をかけたその時。
「おう! 峰じゃねぇか!」
背後から声がかかった。
振り返った先に立っていたのは、田中先輩だ。
訓練が終わったのか、手ぬぐいで汗を拭きながら峰吉さんに向かって手を振っている。
「ケン兄、久しぶり! 慎太兄ちゃんに会いに来たんだけど、留守だって?」
「ああ、昼前には戻ると思うぜ。中で待ってな」
「うん! 今、女中さんに案内してもらってたんだ」
と、こちらに視線が向く。女中さんだと思われていたんだ、私……。
「コイツは女中じゃねぇよ。ワケあってしばらくウチで預かってんだ」
先輩がそう訂正しながら私の背を叩くと、峰吉さんはふぅんと、さして興味もなさそうに返事をした。
「じゃああなたは、客人扱いなんですか?」
しばし考えて、彼は首をかしげる。
女中でもなく屯所内をウロウロする私の存在が不思議でたまらないといった様子で。
「ちょっと違います。ここのお仲間のつもりです!」
「へー。女の子も入隊できるんですねぇ、ココ」
「いえ。隊士さんではないですけど、お掃除とかお手伝いとか、いろいろやってます」
……そこまで言って、はたと気づく。
やっぱり女中さんと変わらないな、私がやっていることって。
「よくわかりませんが、看板娘みたいなものですか?」
「そんなもんだと思っとけ! まぁ立ち話もなんだし、中入れよ」
朝っぱらから汗だくな先輩は、手のひらで顔を仰ぎながらずかずかと玄関口へ入っていく。
峰吉さんも小走りでそれに続いた。
それにしても、看板娘かぁ……。
いずみ屋時代を思い出して、今後はみなさんにお茶をついでまわったりした方がいいかなぁ。
なんて考えながら、先を行く二人の後を追う。
――どうやら峰吉さんは、何度も屯所に来たことがあるみたいだ。
先輩とも親しげに話をしているし、視線を泳がせることもなく慣れた様子で足早に屋敷の中を歩いていく。
その口ぶりから、ここがどんな場所であるのかも分かっている様子だけど……。
どうしてそんなにも幹部のみなさんと懇意なのだろう。
もともと陸援隊は、人の出入りには厳しいほうだ。
屯所の付近を練り歩く行商人さんに声をかけて、おかずなんかを購入する隊士さんは多いようだけど、基本的に売買は敷地の外で行われている。
門をくぐることが許されているのは、土佐藩邸からの使いの人か、幹部の関係者だけらしい。
うーん、関係者……か。
隊長は特に読書家のようだから、本屋さんだけは特別扱いということなのかな。
薄暗く静まり返った廊下を抜け、私たちはひとまず田中先輩の部屋へと通された。
ここで好きなだけ時間をつぶしていいと告げられて、峰吉さんはその場で風呂敷包みを背中から下ろす。
「お疲れでしょう。お茶を淹れますから少しお待ちくださいね」
楽になった肩を揉みながら深い息を吐く峰吉さんに小さく笑いかけて、私は部屋をあとにする。
すぐさま背後から「オレの分もな!」と先輩の言葉が飛んできた。
廊下を進みながら、威勢よく返事を返しておく。
もうじき螢静堂に出かけなければならない時間だ。
それまでに隊長が帰ってきてくれるといいんだけど……。
二人分の湯飲みをのせたお盆を持って部屋に戻ると、そこには訓練着からよそ行きの着物に着替えた田中先輩が座っていた。
汗も引いているし、髪の毛もきれいに整っている。身支度が早いなぁ。
「どうぞ、お茶です」
私は彼らの正面に座り、順に湯飲みを手渡す。
「おう、ありがとよ」
「ありがとうございます!」
二人はそれを受け取るやいなや、ぐっと勢いよく傾けて中身をあおった。
よほど喉が渇いていたんだな。
飲み干して空になった湯飲みの中に急須から二杯目を注いでいると、峰吉さんが小首を傾げながらこちらに言葉をかける。
「看板娘さん、お名前を聞いても?」
「あ、私、天野美湖っていいます」
「美湖さん! いいお名前ですねぇ。ちなみにお歳は……? ボクと同年代かなぁと思うんですけど。ちなみにボクは十七です」
「わぁ! それじゃ、同じ歳です! そっかぁ、私も、同じくらいかなぁって思ってて!」
二人して、ぱっと花が咲いたように笑いあう。
陸援隊に来てからは年長者とばかり接してきたから、気兼ねなく話せる相手に会えて少し嬉しい。
「じゃあ、お互い敬語はやめよっか。みこちゃんって呼んでもいい?」
「うん!」
「ボクのことは皆、峰(ミネ)って呼ぶんだ。みこちゃんも峰でいいよ」
「わかった。ミネくん、よろしくね」
なんとなくよそよそしかった距離感は一気に縮まり、私たちはすっかり肩の力を抜いて言葉を交わしていた。
急速に打ち解けるそんな様子を見ていた先輩は、くすりと微笑ましげに口元をゆるめてこちらを見守ってくれている。
「天野、菊屋はいずみ屋から結構近いんだぜ」
「あ、はい。お名前は聞いたことがありました。私、絵草紙しか読まないから書物屋に行く機会がなくて……」
こんなことを、お店の人の前で言っちゃうのは悪い気もするけど。
「みこちゃん、絵草紙好き!? いや、実はボクもね、難しい本よりも明るくはじけた草双紙とかのほうが好きなんだ!」
「本当? 実家が書物屋さんだと、絵草紙なんて読んじゃダメとか言われない?」
「言われない言われない! 世の中こんなに文字で溢れているんだからさ、人の好奇心を刺激する名著に上下なんかないさ!」
ミネくんは両拳を握り締めて熱弁をふるう。
本に上下なんてない……か。
確かに、情報量や専門性と本の売れ行きは必ずしも比例するものじゃないとは思う。
ためになる専門書よりもはるかにたくさんの人に読まれている絵草紙も多いことだし。
どんな本にだって少なからず需要はあるもんね。
「そういや峰は絵草紙にも詳しかったよな。だったら、くそ太郎のことも知ってっかな」
先輩のつぶやきに、ミネくんは目の色を変えて身を乗りだした。
「くそ太郎って、ばかぢからくそたろう!?」
「おう! なんだ、やっぱ知ってたかよ。あれ、面白ぇよなァ」
すごいな、ミネくん。知ってるんだ。それとも、くそ太郎が有名なのかな。
「ただ面白いだけじゃないよ! あの構成は革新的かつ神がかり的で、大人の読者も多いんだ!」
「なんだよ、やけに熱く語るじゃねぇか」
「そりゃそうさ! 望月千夜(もちづきせんや)先生は時代の先端をゆく鬼才と呼ばれててね、今一番話題性のある戯作者なんだよ!」
「へぇぇ……詳しいんだねぇ、ミネくん」
知らなかった情報がどんどん入ってくる。
そういえば、挿絵ばかりに気をとられて戯作者さんの名前はよく見ていなかったな。
望月先生っていうんだ。どんな人なんだろう……。
「ただねぇ、くそ太郎は、巻の五の牛鬼討伐編以降、続きが出ないんだ」
「いまんとこ五作も出てんのか。んで、どんくらい新作を待たされてんだ?」
「もともと望月先生は筆が早くて、三月に一巻くらいの速度で仕上げていたんだけど、もう今年の春くらいから新巻は出てないね」
今年の春頃……といえば、思い当たるふしがある。
「父が体を壊して床に臥しがちになったのが今年の皐月くらいで、その頃からあまりお仕事に時間を割けなくなっていったんですけど、もしかして……」
「それが原因じゃねぇか!? 挿絵がねぇから続きが出せねぇっつうことだろ!」
合点がいった、という具合に先輩は大きく膝をうった。
いっぽう隣に座るミネくんは、ぽかんとした様子で私たちを眺めている。
「え、なに? みこちゃんの父親、版元さんと関わりがあったりするの?」
「あ、ううん。えっとね、絵師の天野川光は、私のお父さんなんだ」
「え!? えええええええっ!?」
ミネくんが仰天して固まってしまった。
彼はそのまま真偽を確かめるように先輩のほうに顔を向け、「間違いない」と頷き返されて、今度は小さく悲鳴に似た声をあげた。
「天野、くそ太郎のほかに何かオヤジさんの証明になるようなモンはもってねぇのか?」
「あ、はい。ちょっと待っててくださいね」
風呂敷の中に何かしらあるはずだと、私は腰を上げて隣の自室への襖を開いた。
ミネくんはさっきから「うそだ、信じられない」とつぶやきながら困惑の表情を浮かべている。
言われてみれば確かに、急に聞かされてそうですかと納得できるような話じゃないよね。
自室の文机の脇に置いてある風呂敷包みをあけて、中身をあらためる。
完成間近の肉筆画と、父が亡くなる直前まで描いていた版下が数枚ずつ。
版下は、それをもとにして印刷用の版木を彫ってもらうための下絵なので、墨一色のくっきりとした一本線で描かれている。
この仕事まで終わらせて死にたいと、父は何度ももらしていたっけ。
それらの絵を重ねて、先輩の部屋へと戻る。
「ここに何枚か、未完の絵があります。父の形見のようなものです」
そう言って二人に絵を渡せば、受け取った彼らの表情は、みるみるうちに夢を語るきらきらとした少年のそれに変貌していった。
玩具絵も絵草紙の挿絵も、父は少年に向けて描いたものが多かったから、やっぱり男の人のほうが喜んで見てくれるものなのかな。
「うわあぁぁっ!! すっごい!! すごいっ!! ほんとに天野先生の絵だぁ!!」
「上手ぇなやっぱ! お、こっちの線だけのヤツは、もしかしてくそ太郎じゃねぇのか?」
そう言って先輩が掲げてみせた一枚に、いっせいに視線が集中する。
気になった私もすぐさま彼の隣へと移り、腰をおろした。
見ればそれは、ふんどし一丁の筋肉質の男が、荒地の中央で大岩を持ち上げている絵だった。
なるほど……たしかに巻の一で見たくそ太郎の容姿と一致する。
「これはどう見てもくそたろうだ! じゃあ、天野先生は亡くなる間際まで挿絵に手を入れていたんだね!」
誰よりも早く感嘆の声をあげたのは、ミネくんだった。
何度も納得したように頷きながら、心なしかうっすらと涙ぐんでいるように見える。
ほんとうに愛読者だったんだなぁ。
「うん、そうなの。この絵だけは完成させたいって言ってたから、くそ太郎の挿絵の続きを描けないことは父にとっても心残りだったはずだよ」
「そっか……残念だな。ボクは、天野先生が亡くなっていたこと自体初耳でさ……なんていうか本当に、悲しいよ」
ミネくんは言葉に詰まりながらも心情を吐露し、がくりと肩を落としてうなだれた。
それを慰めるように、そっと肩を叩いたのは田中先輩だ。
「人が一人死ぬっつうことは、単純じゃねえからな。残されたたくさんの人間の今後に影響する。にしても、こういう場合どうなんだろうな? 話の続きは出るもんなのか?」
「続きは、戯作者さん次第だと思います。途中で絵師を変える長篇は多いですから」
様々な事情から、絵師の交代というのは珍しくないことらしい。
父は生前、こなしきれないであろう仕事についてはきちんと版元さんに話を通しておいたそうだ。
だからおそらく、くそ太郎の挿絵も新しい絵師さんが担当する手筈になっているはずだ。
「でも、どうかなぁ……望月先生は、天野先生の絵を気に入っていたようだから、交代絵師を決めるにしてもだいぶ揉めてるかも」
「そうなの?」
「うん。だってほら、天野先生の描くくそたろうって、話の中からそのまま抜け出てきたみたいに生き生きしてたでしょ」
「確かにな! おはなちゃんをさらおうとするゴロツキをまとめて投げ飛ばすこの場面の絵なんか、すげえ迫力だ!」
畳の上に広げられたくそ太郎巻の一をぱらぱらとめくりながら、先輩は声をあげて笑う。
――そう言われてみれば、話の中で動き回るくそ太郎は、父の挿絵の印象そのままだった。
場面場面で、作者の意図をうまく読み取った絵が描かれていたと思う。
娘の私が言うのもなんだけど、父はそういった情景の切り出しがうまい絵師だ。
似た系統の絵を描く人を近場で探すとなると、少し時間がかかってしまうかもしれない。
「そうだ、みこちゃん! 版元さんにこの未完の版下を持ってってみない?」
ひらめいた、と両手を打ってミネくんは立ち上がった。
メラメラとやる気に満ちた目をしている。
「版元さんに? でも、いまさら行っても私、お仕事の話をできるわけじゃないし……」
「いいんだよ、それでも! いまのところ交代絵師の問題がどうなってるか聞くだけでもいいしさ」
「うーん……もし新しい絵師さんが決まっていたら、この版下が参考になったりするかな?」
「するする、絶対! ね、行ってみよう!!」
もはや行動する気まんまんなミネくんは、絵の束をまとめて私の手を掴み、ぐいと引っ張って強引に立ち上がらせた。
それを見ていた先輩も、反論することなくその場を立つ。
「ま、どのみち螢静堂に出かけなきゃなんねぇし、ついでに版元に話聞きに行ってみっか」
「そう、ですね……でもミネくんはいいの? 中岡隊長に本を持ってきたんでしょ?」
「いいのいいの! 本はここに置いてくから、あとでケン兄から渡しといて」
と、巨大な風呂敷包みの中から三冊ほどを取り出して文机の上に置けば、先輩は了解したと深く頷いてみせた。
話の流れで思わぬ事態になっちゃったけど、私としてもやっぱり父の仕事に関係する問題は無視できない。
一日も早く本の続きが出版されるように、なにかお手伝いができるといいんだけど――。
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