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ワインの味
しおりを挟むやる気に満ちていても、やっぱり青山くんの前ではろくに話せる気がしないので、スマホのチャットのIDを紙に書いて渡すことにした。
これだってかなり勇気がいるけど、直接話すよりはいいはずだ。
最悪、紙を無言で突き出せばいいのだから出来そうな気がする。連絡が来たらラッキーくらいの気持ちでいようと思う。もし連絡が来なかったら、その時はまた別の作戦を考えればいいんだ。
「いってきます。」
今日は土曜日だ。おそらく青山くんは出勤しているはずだ。
休日はカフェが混む。だからその忙しさに紛れて例の紙を渡すのだ。
アザリ君はソファーで体育座りをしながら『いってらっしゃい』と手を振った。
リビングのテレビの前のソファーがすっかり彼の定位置になった。
テレビが好きらしくて、私が帰って来た時もたまに画面を見ているのに遭遇する。
ドラマを見て涙ぐんだり、ラブシーンでチャンネルを慌てて変えたりする様はとても可愛らしくて微笑ましい。
「頑張ってね。」
アザリ君は、自分の手でグーを作り『ファイト』とでも言うように私に見せた。
昨日私が紙にIDを書いていたのを彼は見ていたので、それに対する『頑張ってね』なのだろう。
外に出ると梅雨の晴れ間で、青空が見えた。
天気まで私を応援してくれている気がした。
よし。頑張ろう。
私も、自分の手を握りしめ、気合いを入れた。
やはり、青山くんは出勤していた。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。」
近くを通った彼に声を掛け、オーダーを取ってもらう。
「あ、はいっ。あの、アイス、ととと豆乳ラテくだされ。」
だめだ。いつもに増して口が動かない。なんだ『くだされ』って。自分自身に突っ込みを入れる。
でもそんなことより、早くアレを渡さなければ。
オーダーを繰り返し、去って行こうとする青山くんを呼び止めた。
「あああのっ、これっ。」
彼に向かって紙を両手で差し出す。そこには、昨日何度も書き直した自分の名前とチャットのIDが記されている。
もちろん顔は見れないので下を向いたまま、受け取ってもらうのを待つ。手はカタカタと震えている。
「あ、はい。」
それは私の手から呆気なく無くなった。
恐る恐る顔を上げると、青山くんはにっこり笑い『かしこまりました』と言って厨房の方へいなくなった。
受け取って、貰えた。
しかも、私に向かって笑いかけてくれた。
どうしよう、まだ震えが止まらない。
その後、私は別の人が持ってきたアイス豆乳ラテを一気飲みして、会計を済ませ逃げるようにカフェを出た。
やった。
私はやり遂げた。
連絡が来るかどうかはわからないけど、とにかく紙を渡すことができた。
私は高揚感と充実感に包まれて、スキップをして帰りたいくらい上機嫌だった。
そうだ、お祝いをしよう。
そう思い立ち、スーパーに寄り、赤ワインとチーズ、スモークサーモン、鴨のローストなど、勢いに任せて次々にカゴに入れていった。
そして鼻歌を歌いながら、自分の部屋の鍵を開けようとした時、我に返った。
私はこれを、アザリ君と一緒にお祝いと称して食べるつもりだった。そして、さっきの出来事を、嬉々として伝えようとしていた。
でも、そんなことしていいんだろうか。
彼の私に対する"刷り込み"は解けたのだろうか。
契約の話も、もうしてこないし、今日は出掛けに『頑張ってね』とも言ってくれた。あれは私に対する疑似恋愛感情が無くなったことを意味しているような気もする。
しかし、昨日のアザリ君の行動が、どういう意図で行われたものなのか、私は測りかねている。
玄関前で、スーパーの袋を見ながら固まってしまった。
だめだ。
やっぱり、これはただのお昼ご飯として食べよう。そして後で自分の部屋でこっそりワインを開けてお祝いをすることにしよう。
例え杞憂だとしても、同居人をなるべくなら傷つけたくない。
私は、普段通りの顔を作り玄関の鍵を開けた。
「ただい、わっ。」
アザリ君がすぐそこにいた。
「おかえり。帰って来た気配がしたから。早かったね。」
そうか、彼は透視して玄関にいる私を見ていたのか。
少しばつが悪くなった。
「ねぇ、どうだった。紙、渡せた?」
アザリ君は笑顔で聞いてくる。
私は、彼の顔色を伺いながら、こくり、と頷いた。
「爽子さん、凄いっ。」
アザリ君はまるで自分のことのように喜んでくれた。
私はその姿を見てホッとした。
やっぱり気にし過ぎだったのかもしれない。
「アザリ君、ご飯食べる?」
バケットも買ってきて良かった。サンドイッチにしよう。
「えっ、いいの?僕、手伝う。」
そう言いながら、私が持っていた袋を手に取った。
「あ、ワインだ。」
結局、昼からワインを飲んでしまった。
ワインに気付いたアザリ君が、どうしても飲んでみたいと言い出したのだ。
じゃあ、ちょっとだけだからね、と言って飲み始めた訳だけど…。
「美味しい。……でも、赤ワインを飲む悪魔、って衝撃的だよね。」
アザリ君はソファーに座り、ワイングラスを傾けながら、酔ったような口調で話し出した。
その言葉を紡ぐ唇はワインのように赤く、目はとろん、としていてとても色っぽい。
長く見ていてはいけない気がして、視線を手元のスマホに向ける。
「確か、最後の晩餐で神が赤ワインを自分の血だと言って弟子に飲ませたんだっけ?」
「そうだよ。」
神の血を、悪魔が飲む。
確かにそう言う意味では、衝撃的かもしれない。
私はスマホとアザリ君を交互に見ながら、正面に座るアザリ君の話を聞いていた。
まだ青山くんは仕事中のはずだから、メッセージが来るはずがないのに、気になってしょうがない。
そんな私に構わず、アザリ君は話し続ける。
「あのね、魔女になってしまった女の人は、悪魔の流した血を『おいしい』って言って飲むんだって。」
「……血が、おいしい?」
口元には笑みを浮かべているアザリ君だが、ルビーのような瞳は艶かしく誘うように光っている。
今日のアザリ君は、私の中の悪魔のイメージに近い気がする。
人を魅了するような佇まいとでもいうのだろうか。
それが、彼が人間ではないことの証拠のように思えてくる。
「そう。今、爽子さんが飲んでるワインみたいに、ね。」
体液を飲んでも魔力を得られるのだから、血液にも、もちろん魔力が含まれているのだらう。でも、それをワインのように美味しいと感じてしまう、ということに、私は背筋が寒くなる。
そんな私に反して、彼はうっとりとしながら私のワイングラスを見ている。
あ、これは駄目だ。
アザリ君は完全に酔っ払っている。
もうワインを取り上げて、お開きにしよう。
そう思った時、スマホからメッセージの受信音がした。
青山くんかも。
急いで画面を開く。
すっかりスマホに気を取られている間に、音もなくアザリ君が近寄って来ていたのに私は気が付かなかった。
やっとそれに気が付いた時には、すでに間近に彼の顔があった。
「爽子さん。」
アザリ君は切なそうにそう呟くと、私の顎を指で持ち上げ、赤い唇を近付けてきた。
周りの音が、何も聞こえなくなり、手からスマホが滑り落ちる。
やがて唇と唇が重なり、ちゅ、という音を立てた。
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