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最終章 ウォーク・ツゥギャザー
第三話 日課
しおりを挟む「そうなのです。いつも入間川先輩は、私のことを子供扱いするのです。一つしか歳は変わらないのに、失礼しちゃうのです」
「それはよくないわ息吹。高校生ともなれば立派なレディーなのだから」
「分ったよ、臨。これからは子供扱いして俺の分のお菓子をあげたりしないから、許してくれ」
「だったら、その分は私に頂戴」
「ず、ずるいのです。律ちゃん先輩はもっと大人らしくしないとダメなのです」
「えー、私は子供でいいもん」
「ダメなのです。入間川先輩のお菓子は私の物なのです」
「フフフッ。息吹、愉快な皆さんに囲まれているのね」
部室で行われているような会話。彼の母親は微笑みながら聞き、時折参加しては上品に笑う。
彼から笑顔を奪った母親の笑顔に黒い感情が芽生えるのをグッと抑え、平常を装う。今ここで私が腹を立てていいことなど何もない。
「ところで息吹、こんなに素敵なお嬢さん達に囲まれているのだから、浮いた話の一つぐらいないの」
「そんな話は無いよ」
「残念」
意外だった。律子の母親の話では、鍋島美月は驚くほど厳格な性格と聞いている。年齢を重ねて変化したのだろうか。
「小母様は、高校生が恋愛しても良いとお考えですか」
「ええ、勿論。ルールを守った節度あるお付き合いなら何の問題も無いと思うわ。あら、もしかして、片桐さんは好きな人が居るの」
「はい」
「迷惑でなければ聞かせて。どんな人」
普段日常会話をする機会も少ないだろう、ましてや恋の話などは何年もしていない筈だ。同年代の少女の様に彼女は目を輝かせて私の話に期待を寄せてくる。
「その人は、少し口は悪いのですが、優しくて、賢くて、強くて・・」
「うん、うん」
「いつも私を助けてくれて、見守ってくれていて・・」
「うん、うん」
「同じクラスで、部活も一緒の・・」
「えっ、あら、それって・・」
「・・・はい」
「あら、あら、あらあらあら。その話、もっと詳しく聞きたいわ。そうだ息吹、冷蔵庫に頂いたメロンが有るから皆さんにお出しして」
彼女も私の想い人に気付いたようで、彼の肩を揺すりながら興奮気味だ。
「はいはい、直ぐに準備するから。そういった話は俺の居ないところでしてくれよ」
「息吹君が居るから話す意味があるのよ」
「あら、あらあら」
逃げるように冷蔵庫に向かう彼。嬉しそうな母親。
「嘘みたい。片桐さんみたいに美人で優秀な人が息吹のことを・・」
「私は美人でも優秀でもありません」
「そんな訳ない。どこからどう見ても美人だし、さっきの挨拶を聞いただけでも貴女の優秀さは分かるもの。私の目は誤魔化せないわよ」
どんどん上機嫌になっていく。実に楽しそうだ。
「それで、二人はお付き合いを」
「いいえ、息吹君には全く相手にされていません」
「嘘でしょ。逆なら分かるけれど、あの子はいったい何を考えているの。私が懲らしめてあげるわ」
「いいえ、私は全然平気ですから。息吹君に振り向いてもらえるよう、これからも女を磨いていきます」
「まあ、なんて健気なのでしょう。とても好感が持てるわ」
「ありがとうございます」
彼女は私の両手を包むように握って「うん、うん」と首を上下させながら無言のエールを送ってくれた。私の悲願を達成するのに最大の障害である彼女に応援されるのは複雑な感情だ。
「メロンが切れたよ。どうぞ、母さん」
彼が人数分にメロンを切り分け大きなお盆で運んでくると母親の前に差し出す。
上機嫌だった母親の顔色が一変した。
「なぜ、私が最初なの。先ずはお客様でしょうが」
彼は何も言い返さず黙って母親の目を見ている。
「なぜ、そんなことすらわからないの」
彼は何も言わない。
「いつになったら、貴方はまともな人間になれるの」
次の瞬間、彼の肩が思い切り蹴飛ばされた。
目の前で何が起きているのか理解できない。頭が真っ白になる。
「貴方は、貴方は、本当にいつまでたっても・・」
更に激しく彼は蹴られ続ける。慌てて私は彼の母親に後ろからしがみついた。
「小母様。止めてください」
「不出来なこの子には躾が必要なの。片桐さん、邪魔をしないで」
私は必死にしがみつく。少し出遅れた律子と臨が、彼の前に壁となって立ち塞がった。
「入間川先輩のお母さん。暴力は駄目です」
「どきなさい、立花さん。これは躾よ」
必死にしがみつく。常識で彼女は止まらない。
「おばさん、落ち着いて。入間川君も反省しているから」
「改善されていないのなら反省しても意味が無い。どきなさい、結城さん。この子は口で言って分かるほど利口ではないの」
情に訴えても彼女は止まらない。どこからこれ程の力が出るのか、必死でしがみつくが引きずられる。
「小母様、確かに小母様から見て私達は客ですが息吹君にとっては部活の仲間なんです。この場合、目上の小母様からお出しするのは間違いではないと私は思います」
ならば、ルールにはルールで対抗する。彼女は精神を病んでいるのだ。
「そういう考え方もあるわね。片桐さんは本当に優秀だわ」
力が一気に弱まる。手を離すと彼女はベッドに向かって行った。
「息吹、お母さん疲れたわ。今日はもう寝ます」
「分ったよ。片付けはしておくから、母さんは休んでいいよ」
「ありがとう。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ母さん」
何なのだ。何なのだ、これは。先程までの折檻が何もなかった事の様に普通に会話するこの二人は何なのだ。
これが二人にとっての日常ならば二人は合わせるべきではない。理事長は、皐月さんは、この異常な母子を知っていて放置しているのか。何なのだ、なんなのだ、これは。
彼は床に転がったメロンの片付けを始める。私達もそれを手伝う。頭の中がぐちゃぐちゃで、この時から病院を出るまでの記憶は殆んど無かった。
病院を出て少し歩いたところで声を発したのは律子だった。
「入間川君、大丈夫」
放心状態だった私の脳が一気に覚醒する。
「何がだ」
「お母さんに・・・・」
「ああ、あれか。知っているだろ、俺が毎日筋トレしていること」
「・・・・・・・・・」
感情が一気にこみ上げる。駄目だ。今は駄目だ。私は律子と臨の腕を強く抱き込んだ。駄目だ。彼の前では駄目だ。
「息吹君・・折角・・市街まで来たから・・私達は・・女子会をしていくわ」
「そうか、それじゃあお先に」
そう言って彼は駅の方へ歩いていく。まだだ、彼が見えなくなるまで。まだ駄目だ。
律子と臨の腕を抱く力を強める。二人の力も強まる。まだだ、あの角を曲がるまで、彼の姿が完全に見えなくなるまで。
もう少し・・もう少し・・耐えろ・・耐えろ・・
彼の背中がビルの向こう側に消える。
「ああ・・あああ・・ああ・・あああああ」
私達三人は抱き合って泣いた。人目も憚らず、小さな子供の様に、大声をあげて泣いた。
何と愚かなのだ。何が小さな変化だ。私は何も見えていない。何も気付けていない。おかしいではないか、運動部でもない彼が毎日筋トレをするのは。おかしいではないか、上半身ばかりトレーニングするのは。
初めてあの部屋で彼に会った日から、彼は欠かさずトレーニングを続けていた。それは彼自身も気付いていないSOSではないのか。何の為に彼の傍に居るのだ。私を闇から救い出してくれた彼の何か少しでも力になれたのか。
不幸だ。私の様な大馬鹿者に見初められ、何の役にも立たないのに縋り続けられる彼は本当に不幸だ。
許せない。自分が許せない。今すぐ殺してやりたい。
「止めさせましょう。こんなの・・・間違っています」
臨の言うとおりだ。こんなことは間違っている。母親の暴力を受ける為に体を鍛えるなど、あってはならない。だが、どう止めさせる。どう彼を説得する。
「学校に戻ろう。今すぐ三人であのトレーニング器具を壊そう」
律子の案は却下だ。トレーニング器具を壊したところで少し不便になるだけでトレーニングは可能だ。私達が止めても、私達が居ないところでやるだけだ。
情けない。何の打開策も浮かばない。これでは木下真紀に会わせる顔が無い。
私は何を考えているの。この期に及んで自らの体裁を気にするなど愚かを通り越して害悪だ。何と悍ましい、何と価値のない人間だ。
死ね。今すぐ私の様な黒い塊はこの世界から消えろ。
バシン!
頬をぶたれた。私は何を考えていた。
「しっかりして志摩ちゃん。竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の副部長でしょ」
そうだ。私が望んだのに。私はいったい・・
バシン!
また、頬をぶたれた。小さな手が私の両頬に添えられる。
「志摩子先輩。行動しましょう。私達は今、何かをしないといけない」
そうだ。彼を救うために私達は集まったのだ。
頭が覚醒して行く。涙と鼻水だらけの酷い顔で壊れかけていた私を、二人が呼び戻してくれる。制服の袖で顔を拭く。しっかりしろ、片桐志摩子。
「ごめんなさい。それと、ありがとう。二人が居てくれて本当に良かった」
私一人で何とかしようとする必要はない。彼には沢山の味方が居る。彼を放ってはおけない人は私だけではない。
「律子、携帯電話を貸してもらえる」
「うん」
生徒手帳の中に入れておいたメモを取り出し慣れない携帯電話のボタンを押す。もう一度あの人に会おう。私達三人であの人の話を聞くべきだ。
『もしもし、片桐志摩子です。今よろしいでしょうか』
『ええ、息吹に何かあったの』
『はい。出来れば会ってお話をしたいのですが』
『わかった。この前の喫茶店でいい』
『は・・はい。三十分程で着けると思います』
『そう。先に行って待っているわ』
『わかりました』
携帯電話を律子に返し二人に言う。
「今から息吹君のお姉さんに会う。二人とも来てくれる」
「勿論」
「当然です」
道に出てタクシーを拾い三人で乗り込む。竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部は彼と私だけではない。頼りになる仲間が居る。もう迷わない。たとえ彼に嫌われても、私は彼を放ってはおけないのだから。
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