サンスポット【完結】

中畑 道

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第三章 パーフェクト・マザー

第三話 準備

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 病院を出るとそのまま帰宅せず学校へ向かった。抜糸を終え体が本調子になったのだ、授業はどうでもいいが日課の筋トレはこなしておきたい。

 学校に着いたのは五時限目の途中、今から教室に行けば六時限目の授業はフルに受けられるが当然行かない。久しぶりに一人、部室でゆっくり出来るのだ。

 この時間に部室を訪れることは殆どないので少しだけ新鮮な気分だ。今迄気付かなかったが耳を澄ますと僅かながら鳥の囀りが聴こえる。比較的穏やかな日はサラサラと揺れる葉が擦れあう笹鳴り、強風の日にはビュービューと竹垣に風が叩きつけられ鳴り響く、確か虎落笛と言ったか。この二種類の音しか無いと思っていた。

 ブレザーを椅子に掛け先ずはチェストプレスマシンへ。バタフライマシンとも呼ばれる器具に座り大胸筋を痛めつける。特に回数は決めていない。乳酸が溜まりもう限界だと感じてから更に十回。この十回が大切なのだ。続いてアブドミナルマシン、通称腹筋台だ。足を引っかけ頭を下側にして体を反らして腹筋を痛めつける。これも特に回数は決めていない。限界の更に先迄行わなければ筋肉は成長しない。

 怪我に配慮せずたっぷりと時間をかけ筋トレをしたのは数日ぶりだ。これだけ筋肉を酷使し体は疲労したはずなのに心地よさを感じる。慣れとは不思議なものだ。そんなことを考えながらブレザーを羽織ると部室のドアが開いた。


「まだ六時限目の授業中だよ」

 現れたのは先日無事職場復帰を果たした結城先生だった。

「今日は所用で休みだったのですが、予定が早く片付きましたので部活だけでもと思いまして。結城先生こそ部室に何か御用ですか」

 キョロキョロと室内を見渡した後、入口に一番近い机に右手を下し感触を確かめるように手を乗せたまま田の字に並んだ四卓の机の周りを一周すると、癖なのだろう中指で眼鏡のブリッジを持ち上げ落ち着いた口調で言う。

「授業が開いたのでね。一度見ておきたかっただけさ」

「顧問なのですから、いつでもお越し下さい」

「いや、それはよくない。この部屋に大人は不要だ。特に放課後はね」

 職場復帰するにあたってジジイに色々きいたのだろう。理解が早くて助かる。

「何か困ったことやわからないことがあれば何時でも相談してほし。君からすれば頼りないだろうし、君より物知りだとも思えないが、これでも一応は顧問なのでね」

 部活動への助力を照れくさそうに申し出でる結城先生が窓に目を向けると、強風が竹垣をビュービューと打ち付けた。

「虎落笛というやつですね」

「いいや、違うよ」

「違うのですか」

「ああ、現象は同じだが虎落笛とは虎落、竹を段違いに組み合わせた柵のことだね、それに強烈に吹き付ける冬の風が鳴らす音のことさ。俳句では冬の季語だよ。どんなに突風が吹いても真夏に春一番なんて言わないのと同じで、春も後半に入ったこの時期に虎落笛とは言わない」

「なるほど、恥をかかずに済みました。早速のご教授ありがとうございます」

 結城先生は満足そうに微笑んでメガネのブリッジを持ち上げる。

「君に先生らしいことが初めて出来たよ。そろそろ時間だ、後は頼んだよ。入間川部長」

「はい」

 そう言いながらドアへ向かったが、ピタリと足を止めこちらに向き直る。

「君達だけですべての問題を片付けられるなんて、思いあがってはいけないよ」

 かつての自分に言い聞かせるように言う結城先生は、柔和な表情を見せ部室を後にした。




 竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の部長として唯一の仕事となりつつある珈琲の準備をしながら部員達を待つ。筋トレを終え帰ってもよかったのだが、俺のいない学校で片桐が無事一日を過ごせたのか確認をしておきたい。

 事件後は不安定だった片桐の精神も日に日に落ち着きを取り戻しており、結城家の問題解決にも大いに尽力してくれた。だが油断してはならない。心に負った傷に特効薬は無いと俺は知っている。焦らずに時間をかけ一歩一歩確実に進んでゆけばよいのだ。

 パタパタと片桐の足音が近づいてくる。結城はドタドタ、片桐はパタパタ、足音一つをとっても人間には個性があり、十人十色歩くスピードも歩幅も違う。それでいい。

「あら、今日は休みだと聞いていたのだけれど」

 自然な笑みを携え入室する片桐に安堵する。少しずつだが確実に俺からの卒業に近付ているようで何よりだ。

「予定が早く済んだから筋トレだけでもしておきたくてな」

「なんだ、残念。私に会いたかったのでないのね」

 軽口を言いながら席に着く片桐に淹れたての珈琲を差し出す。その珈琲に口を付けようとしたところで廊下からバタバタと足音が聞こえると乱雑にドアが開かれた。

「入間川君、私にも珈琲よろしく」

 元気一杯に現れた結城に片桐が苦い顔を向ける。

「律子、ここは喫茶店ではないのよ」

「ハイハイ。志摩ちゃんおはよう」

「もう夕方よ、あなたは挨拶もまともにできないの」

「もー、堅い。志摩ちゃんは堅すぎるよ。少しはスキを見せないと入間川君も手を出しにくいと思うよ」

「そ・・そうかしら。そのあたりもう少し詳しく教えなさい」

 椅子を乱暴に引き忙しなく腰掛ける結城の前にそっと珈琲を差し出す。

「その話は俺が居ない時にしてもらえないか」

「えへへ」

 屈託のない笑顔を見せる結城に背を向け自分の珈琲を用意し席に着く。三人が着席したところで姦しい会話は一旦終了し、片桐はブラック、俺と結城は砂糖とミルクの入った珈琲を楽しむ。ここ数日のルーティンだ。

 珈琲を飲み終わるとカップを片付けるのは片桐。係を決めたわけではないが自然とそうなった。その後は完全下校時刻まで各々自由に過ごす。筋トレをしたり、読書をしたり、宿題を片付けたり、姦しい会話の続きをしたり。

 だが今日はいつもと違った。珈琲セットを片付け終わった片桐が、緩んでいた表情を引き締め俺達に言う。

「今日の昼休み、この部屋に生徒が来たわ」




 片桐のとった対応は完璧だった。

 痩せすぎた女生徒、立花臨を見て最初に疑うのは病気か経済的な理由の二つだ。財布を忘れたと言う立花に、味の感想を聞きたいと理由を付け自分の弁当を分け与えた。その後お菓子も食べさせたことから、年頃の女性が発症しやすい拒食症の可能性を潰した。

 そうなると経済的な理由が濃厚となるが、そこで矛盾が生じる。それとなく会話の中から母親の情報を引き出した片桐が言うには、立花と母親の関係は良好。しかもその母親は娘から尊敬の眼差しを向けられる程、全ての家事を得意としている。

 だとしたら原因は父親だろうか。だが、父親に何らかの問題があったとしても、母親が今の状態の立花を放っておくとは思えない。

「ちょっとジジイのところへ行ってくる」

「そうね。家族構成だけでも知っておきたいわ」

 二人には部室に残ってもらい一人で理事長室に向かう。旧校舎を出たところで一度呼吸を整え、歩きながら頭を整理する。

 立花があの部屋で出会ったのは俺ではなく片桐だ。その後入部を決意した以上、今回の件は片桐が中心になる。ジジイからの情報を得てからになるが、明日部室に立花が来る前に綿密な作戦を立てておきたい。三人居れば以前より出来ることも増えるし、現状俺と結城の面は割れていないのだ。これを利用しない手はない。

 運がよかった。気まぐれで部室に顔を出した結果、一手遅れずに済んだ。しかも、結城が初めて部室に現れた時には我を失いかけていた片桐が、今回は完璧なファーストコンタクトだ。
 痩せすぎた女生徒立花臨の力になるのは勿論、片桐と結城が更に本来あるべき日常に近づけるよう、決意を固く理事長室のドアを叩く。



 ジジイは立花臨を認識していた。だがそれは健康状態に不安がある生徒としてであり、家庭に何か問題を抱えている生徒としてではなかった。養護教諭を通してカウンセリングなども施したらしいが、問題らしい問題は何一つ本人の口から出てこなかった。

 家族構成は母親と小学六年生の弟との三人暮らし。片桐印刷で配送社員だった父親を三年前に交通事故で亡くしている。

 これらの情報を共有し、明日の放課後立花が入部届を持って部室を訪れる前に出来ることを三人で話し合おう。



「立花の性格はどう感じた」

 俺と結城は立花を知らない。話したこともなければ会ったこともない。

「明るくて素直、人懐っこくって行動の一つ一つが兎に角可愛らしい。初対面の人間は余程のひねくれ者でない限り好印象を持つと思うわ」

「片桐でもか?」

「それはどういう意味かしら。もしかして、息吹君は私を余程のひねくれ者だと思っているの」

「ひねくれ者だとは思っていないが、変わり者だとは思っている」

 片桐の機嫌が悪くなりそうだったが、今から心にもないことを言っているようでは先が思いやられる。

「まあいいわ。話を戻すけれど、変わり者の私でも彼女の魅力には抗えない。お菓子をあげたたら万歳して「わーい、やったー」って喜ぶのだけれど、その動作にまったくあざとさが無いの。もっと喜ばせてあげたいと思わずにはいられなかった。痩せすぎた体躯からの悲壮感を補って余りある可愛らしさよ」

 いい傾向だ。可愛らしいものを素直にそう思えるは、精神が安定している証拠だ。片桐の世界は確実に広がっている。今回の件を乗り越えられればさらに広がるに違いない。

「志摩ちゃんの話を聞く限り、立花さん本人は痩せすぎている以外何の問題も無いということだよね。だとしたら経済的な問題しか無いんじゃない」

 その通りだ。だからこそおかしい。

「立花は母子家庭だ。経済的な問題があれば生活保護や奨学金制度などを利用できるはずだが、ジジイの話ではそのあたりの申請はされていないらしい。家庭の問題は助けを求めない限り、おいそれと他人が入り込めないのが厄介だといっていた」

 だが俺達には関係ない。誰の目から見ても健康状態に異常がある少女を救えない大人の世界のルールなど、俺は守らない。

「関係ないわ。あの子を放っておくなんて私には出来ない」

「そうだよ。この部屋に来たのは、きっと偶然じゃない」

 二人の力強い眼差しに俺は深く頷く。

「結城は昼休みに入り次第一年五組の教室に行って立花を監視してほしい。俺の予想では人気の無い場所で駄菓子を昼食にしていると思う。確認したら深入りせず報告してくれ」

「了解」

「片桐はしばらくの間、部活中に食べるお菓子を用意してほしい。ケーキのようなものではなく、クッキーや煎餅のように小分けされているものが望ましい」

「了解したわ」

 質問が出ると思ったのだが、二人は俺の指示を何の疑問も持たずに了承した。

 今回は片桐が中心になる案件だ。些細な行き違いが起きないように俺の考えを伝えておく必要がある。

「今回の件、俺はネグレクトだと考えている」

「ネグレクトって何、入間川君」

「育児放棄のことよ」

 俺が答えるより先に片桐が結城の質問に答える。片桐も少なからずその可能性を考えたいたのだろう。

「でも、立花さんのお母さんって・・・」

「ああ、そこだけ明らかに違和感がある。そのあたりは俺が探るから二人は出来るだけ普段通りにしていてくれ」

 明日、立花臨が竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部に入部する。それと同時に、できるだけ短い期間で問題を明確にし、その後即解決に向けて行動する。

 時間はそれ程かけられない。

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