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第二章 ブラザー・オン・ザ・ヒル
第十三話 特権
しおりを挟む律子を強引に引き摺り部屋を出る。
『結城先生が怒りを露にしたら二人は部屋を出ろ』ここに来る前、彼から言われていた。
その時点でこうなると分かっていた。二人の激しい怒声が耳朶に響き心を劈く。私が出来るのはこの程度でしかない。力になりたいと強く思えば思うほど、自分の無能さに嫌気がする。
「志摩ちゃん・・」
私の右手を縋るように握りしゃがみ込む律子の肩を抱きかかえて、扉の向こうから聞こえる音に、ただ、震えている。
あの時と同じ、いや、それ以下だ。今は誰かの為に戦う彼の姿すら見えていない。
頭では理解している。自ら結城先生の怒りを誘発した彼は、その後の行動を全て予測していると。断言できる、結城先生では彼に一撃すら与えることは出来ない。それでも、怖い。無能で卑怯で臆病者の私は、只々、震えることしか出来ない。
「やっぱり、そうなっちゃうか」
呟いたのは、いつの間にか私達の傍に立っていた結城兄妹の母親だった。
腰にエプロンを巻き、平時と変わらない素振で私達を見下ろす。何故、この状況で平然としていられるのか、私には理解できない。
「お母さん・・」
震える声で何かを懇願するように律子が母親を見上げる。
「いつまで泣いているのよ、片桐さんを見習いなさい。まったく、さっき強くなるって言ったばかりじゃないの」
「で・・でも、お兄ちゃんと入間川君が・・・」
「二人とも男の子なのだから喧嘩の一つもするわよ。特に巧は気が小さいから入間川君に少し揉んでもらうと良いわ」
差は歴然だ。私達とは次元が違う。
母親は、これが必要なのだと理解し平然としている。彼が私に求めた正解を示している。強く賢い女性の手本を私達に教えている。
右手を握る律子の手を振り解く。学ばなければならない。
「教えて下さい。私達は今、何をすれば良いのでしょうか」
「えらいわね、片桐さんは。これからも律子の友達でいてあげてね」
大人の女性特有の慈愛に満ちた柔らかい表情が、母親を早くに亡くした私には神々しくすら感じる。年を重ねれば彼女のようになれるのだろうか、憧憬と同時に不安が去来する。
「取り敢えず、今出来るのは・・・作り掛けのカレーを最高に美味しく完成させることね」
「カレーですか・・」
「ええ、カレーよ。傷付いた男を癒せるのは女の特権、だから今はカレーを最高に美味しく仕上げるのが私達の使命。大体の男はカレーさえ与えておけば文句を言わないわ。よーく覚えておきなさい」
我が子が殴り合いをしている最中、向日葵の様な笑顔を見せる母親。
傍から見れば異様な光景だが母親は止める気など更々ない。転んだ我が子が泣き叫んで誰かの助けを待つのではなく、自分で立ち上がるのを促す様に。
「律子も、いつまでも泣いていないですぐ立つ」
「でも・・」
「デモもストライキもないの。喧嘩なんて放っておいてもそのうち終わるのだから大丈夫よ。それよりも、お腹を空かせた男どもに食事を用意出来ていないなんて女の恥でしょ。さあ二人とも手伝って、腕に縒りを掛けて結城家特性カレーを仕上げるわよ」
言い終わるとトントンと階段を降りる。私達もそれに続いて台所へ向かう。
今は出来ることをしよう。
カレーが入った寸胴鍋はガスコンロではなくシンクに置かれていた。なんでも『カレーは二日目が美味しい』の法則で、出来上がったカレーを一度冷やし二日目を再現しているらしい。
「さてと、後は暖め直して隠し味を足せば完成ね。律子、いつもの冷蔵庫から出して」
「・・・はい」
二階の二人が心配でならない律子は未だ表情が暗いながらも、冷蔵庫からタッパーを取り出し母親に手渡した。
「何時までそんな顔しているの、いい加減にしなさい」
「だって・・・」
「だってもへちまもないの。ほら、もう二階のドタバタは終わっているじゃない」
言われて気付く。私達よりも視野が広く、状況判断に優れている。
「志摩ちゃん、行こう」
「ええ」
律子が私の手を取り駆け出そうとした時、もう一方の手を掴まれた。
「待ちなさい」
「どうして、怪我をしているかも知れないじゃない」
同意見だ。彼が身体能力に優れているのは知っているが、左腕の怪我は完治しておらず万が一ということがある。
「男同士の話に女が口を出すものじゃありません。あなた達、そんなに入間川君が信用出来ないの」
痛恨の一言だった。
彼の強さを、優しさを、有能さを、誰よりも知っているつもりでいた。昨日初めて彼と会い数分の会話しかしていない彼女が私よりも彼を信じていることに、悔しさより情けなさが込み上げる。
「入間川君に任せておきなさい。彼なら大丈夫、あの子以上に私達を理解できる人なんていない。あの子は、私や律子、巧よりも私達のことを理解している。だから、私達は今やるべきことをやりましょう」
不思議な物言いだと感じた、これは以前も感じたことがある。警察署で刑事さんに話をしていた時だ。まるで以前から彼の存在はおろか、人間性までも知っているかのような言い方。だが、その疑問を払拭するのは今でなくていい。彼女の言うとおり、今は出来ることをすべきだ。
「律子、おばさまの言うとおり今は私達の出来ること、美味しいカレー作りを全力でやりましょう。私は息吹君と貴女のお兄さんを信じるわ」
握られた手の力が少し増し、下唇を噛み締めて律子が頷く。律子も戦っている。弱い自分を変えようと、必死で藻掻いている。
私達は未熟だ。だから、彼や木下さんに守られる。強くならなければ、教えを請い、経験を知識に変えなければ、何時まで経っても今の関係は変わらない。
「おばさまって、家のお母さんはそんな柄じゃないよ、志摩ちゃん」
握られた手を解き、微笑む彼女の顔は向日葵の様に明るく美しい。
暖め直したカレーの香りが数分前とは比べ物にならないほど家中に充満している。その間に私と律子は付け合せのサラダを仕上げた。
「よし、いい塩梅になってきた。律子、上の二人を呼んで来て」
「うん」
手に持った皿を私に預け、律子はゆっくりと部屋を出る。見たことはないが、その動作は日常の彼女と変わりないだろう。台所の扉を閉め階段を上る音を確認してから、先程の疑問を払拭するため口を開いた。
「おばさま、もしかして以前から息吹君のこと、ご存知でしたか」
「ええ、知っていたわ」
まるで私が質問することが分かっていたかのように彼女は平然と答える。
「理事長から事前に聞いていらっしゃったのですか」
「いいえ、ずっと前からよ」
含みのある言い方だ。以前、彼のお姉さんが教えてくれようとした事と深く関わっているのかも知れない。いや、考えすぎか。彼と結城家に関わりがあったならば、今回の件で彼の行動は不自然だ。
「ねえ片桐さん、入間川君のこと、どう思っているの」
「どう・・・とは」
「ふふっ、片桐さん嘘はつけないようね。顔が真赤よ」
「おばさま、からかわないで下さい」
どうも私はこの手の話に免疫がない。指摘されるまでもなく一瞬で顔が真赤になったのは自分自身が一番分かっている。
「残念。律子じゃ貴女には到底敵いそうにないわ」
そんなことはない。私は律子の美しさを知っている。律子の笑顔には人を引き付ける魅力があり、周りを幸せにする力がある。今迄はその才能を上手く使えなかったが、律子はこれからどんどん魅力的な女性へと成長していくだろう。律子が彼への恋心を抱かぬようにと願う狭量な私には永遠に得ることの出来ない魅力を、彼女は生まれ持って兼ね備えている。
「入間川君を知っているのは私だけではないわ。決して口には出さないけれど、この街では沢山の人が彼のことを知っている。貴女は、それを聞いても彼の傍に居続ける覚悟がある」
薄々は分かっていた。刑事さんも理事長も宮下のおじ様も御祖母様も、この町の大人が皆知っている事件に彼は巻き込まれている。大人達が口を噤む程の大きな事件に。
一度は逃げた。
あれほど彼を知りたいと熱望しながら、皐月さんに尤もらしい理由を捏造し耳を塞いだ。
「教えて下さい」
「そう、分かったわ。でもカレーを食べた後でね」
覚悟など必要ない。何があろうと、彼の傍を離れることなどないのだから。
彼の居ない世界こそ、私にとっては地獄だ。
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